ヒヨはその日、何度も見た光景に視線を奪われていた。
女性たちに囲まれながら一際目立つ雰囲気を醸し出しているのは、包帯をイメージさせるシャツを身に纏った長身の男だ。ジェイド・リーチという名を持つ男がにこやかな笑みを浮かべながら、女性たちの向けるカメラに向かってポーズを取っている。興奮したような、それでいて甘く撫でるような声色でジェイドを囲む女性たちの頬はハーツラビュル寮生が塗る赤い薔薇のように色付いていて、女性たちが抱える感情が目に見えて分かってしまうほどだった。
ハロウィーンのイベントは賑わいを見せ、所謂アクシデントと呼ばれることがありながらも時には機転を、時には力技で解決し、今では無事にそのイベントを楽しめていると言っても良い。ヒヨも例の如くこのイベントを楽しんでいる身であって何を杞憂することがあるのだと問われてしまいそうなものであるのだけれど、如何せん恋人が他の女性に囲まれているのを見るのは――勿論、気分の良いものではない。ざわざわと煩い心臓をぎゅ、と掴みながら、これは抱えちゃいけない思いだと押し込める。そうすればそうするほど、あまり良くない感情が湧いて出てくるのだから、思わず「ううん……」と唸り声を上げてしまうのも無理はないというものだった。
「ヒーヨちゃんっ」
「わ!び、び、ビックリした……ッ!」
「あはは。気配消して近付いたつもりもなかったのにそんなに吃驚するなんて、先輩も驚いちゃったな〜」
「――ケイト先輩、私が驚くこと分かってた癖にそういうこと言うんですから……」
「えぇ、人聞きが悪いよう……。ほっぺ膨らませないで?飴ならあるよ。いる?」
「子どもと一緒にしないでください!」
部活で仲の良い先輩が、肩の上にぽんと手を置いて来る。考え込んでいた私が身体を跳ねさせるとケイト先輩はころころと笑って「ごめんね」と思ってもいないだろう謝罪をくれた。いらない、と言ったのに手の上に乗せられた飴を見下ろして、それを手の中に包み込む。
「ジェイドくん、ずっとあんな調子だねぇ」
「……そう、ですね」
「やっぱり妬いちゃう?」
「う、……まぁ、すこし、だけ」
「少しなんだ?」
「学内でも人気者ですから、」
「慣れてるって?」
「……それは、そうですね」
そうだ。きっと、普段の自分なら此処まで嫉妬も抱かなかっただろう。だと言うのに、どうしてこんなに妬いているのかと言われると――そうだ、暫く彼と話せていないからだ。普段から忙しく動き回っているジェイドが実行委員会としての仕事も抱えることになった。学生としての生活、そしてモストロラウンジでの仕事、実行委員会としての役目。三つの大きな課題を抱えたジェイドだが、器用な彼のこと。そこにヒヨとの時間を普段通り使うくらい造作もなかったはず。しかし、それを断ったのは紛れもないヒヨの方だった。忙しいだろうから自分には気にせず仕事をしてくれと何度か頼んで、その代わりとばかりに早めの休息を取るように促した。勿論、ヒヨとてジェイドに恋心を抱いている身なのである。会いたい気持ちはあれど、流石に普段より忙しい彼には自分を相手にするより休んで欲しかった。その選択を後悔しているわけでは一切ないのだけれど、生憎そんな生活を繰り返していたのだから自分以外の女性が隣に居る姿を見ると心臓を針でチクチクと刺されているような気になってしまう。隣に立ったケイトが全てを察したような表情で「なるほどねぇ」と笑った。
「ん〜……委員会のことで話があったんだけど、あの状態じゃ話し掛けられなそうだし……それまでオレと一緒にあっちに居よっか?あ、そういえばトレイくんが休憩に〜ってお菓子焼いてくれてたし一緒に食べよ〜よ!」
これは明らかに気を使わせている。自分でも理解してしまうくらい苦笑いが溢れそうになってしまった。魔法薬学室の前に居るジェイドを一瞥して、それから頷きそうになったヒヨの耳に女性の声が届く。
「――あの、あっちで一緒にご飯でも如何ですか!?」
あまりにも分かりやすいアピールだ。ジェイドの腕をくん、と引いて興奮気味に誘いの言葉を口にする女性の赤いルージュが可愛らしい。思わず喉を動かしてしまったヒヨは、ジェイドがその誘いに乗るとは思っていない。知らない人とご飯を食べるような人では――自分と付き合ってからは、少なくともないと思っているし、そうして何より彼には未だ仕事があるのだから、きっとそれとなく、気分を悪くさせないような言葉を上手く紡ぐことなど分かっていた。だと言うのに、ヒヨは思わず彼に向かって手を伸ばしてしまう。
「……ヒヨちゃん?」
隣から、ケイトの驚くような声が聞こえた。それもそうだろう。なんせ――なんせ、一般人の前で魔法を使っているのだ。オクタヴィネルでお揃いの包帯をモチーフにした衣装。それらに自分の魔法を張り巡らせながらゆるゆると伸ばして行く。ヒヨの魔力を感じ取ったらしいジェイドと目が合う前に、ヒヨの包帯が宙に浮いて彼に近付き、そうして小指に絡み付く。不格好な蝶々結びが出来たと思うと、女性たちの中心に居たジェイドとヒヨは白い包帯で繋がった。自分の方に包帯をきゅ、と引っ張って見る。小指に結ばれた包帯伝手にジェイドの手が此方に伸びる。僅か、驚いたように目を丸くさせたジェイドの顔が見れた。ケイトと話していたことにはとっくに気付いていただろうから、この大胆とも言えるヒヨの行動に驚きを見せたのだろうと思われる。
「ジェイド、さん、は、わたしとご飯を、食べます」
そんな約束などしていない。そもそも、ジェイドもヒヨもまだ仕事の途中だ。放り投げてしまったら他の寮生に示しが付かないと寮長である彼にも叱られてしまうだろう。それでも、緊張と羞恥からカラカラに乾いた喉でそんなことを告げてしまったのは嫉妬をしたからだ。
ヒヨが小さな声でそんなことを告げたことで、辺りはシンと静かになってしまった。――平和主義のヒヨからしたら“やってしまった”と身を凍らせるような一瞬であるに違いない。と、言うのに、そんな静寂を破ったのはヒヨの想い人であるジェイドである。「ふふ、」と小さく笑いを溢したと思うと、ヒヨが魔法で結んだ包帯を唇まで持って行って口付けを施した。愛でるような行為。実際に唇を重ね合わせたわけでもないというのに、その仕草があまりにも妖艶で恥ずかしくて、ヒヨは思わず息を漏らしてしまう。周りの女性たちもそんな仕草にうっとりと見惚れていた。
「すみません、先約がありますので失礼させて頂きますね」
そうして輪の中心から抜け出して来たジェイドが、白を辿ってヒヨの目の前に立つ。久々に見た恋人の姿だ。チカチカと煌いているようにすら見える。――ジェイド・リーチ。私の恋人。私の恋が、ここに居る。
「行きましょうか」
ヒヨが頷くより先に、蝶々結びがされたジェイドの左手がヒヨの手を取った。ケイト先輩はにんまりと笑いながらスマホを掲げて手を振っている。普段なら恥ずかしく思うであろうその行為に気が回らないほど、握られた手が暖かくて思わず泣きそうになってしまう。――彼とあまり会わなくなってから、然程の時間だって経っていないのに、どうしてこんなに寂しく感じるんだろう。
「じぇいどさん、」
「えぇ」
「なまえ、よんで」
「ヒヨ」
「もう一回」
「……部屋まで待って頂けませんか?」
「此処で呼んで」
手を引かれて人気のない道を歩きながら、ヒヨは駄々を捏ねるようにそんなことを強請った。ジェイドがちらりと一瞥して、それから「もう一度名前を呼んだらキスをしてしまいかねないのですが」などと空いている方の手を顎に持って行き、わざとらしく首を傾げるので「それでも良い」と再度馬鹿らしく強請ってしまう。
「――ヒヨ。不安にさせましたね」
「……、……でも、会わないようにしようって言ったのは私です」
「不安にさせたのは僕です」
「……じゃあ、キスして」
「仰せのままに」
人気がないと言っても仮にも校舎。誰が来るか分からないと言うのに、ジェイドの手が腰に回って軽く身体を持ち上げて来る。唇をぱくり、食べられるように重ねられたと思えばそのまま、ちゅ、ちゅ、と何度も唇を吸われ、そうして長い舌が割り込んで来る。鋭い歯が舌に当たる感覚が懐かしかった。
「んっ……ぅ、」
「っ……は」
廊下に水音が響く。流石にこのまま続けていれば誰かにバレてしまうだろうと頭では分かっていながらも、唇を離そうとするジェイドの首にすかさず腕を回して「もうちょっと」と仕草で強請ってみた。一瞬、息の止まるような呼吸を溢した彼が直ぐに舌を弄ぶ。
漸く唇を外せた時には、お互いの唇の間に銀の糸が繋がっていた。
「は、ぁ……っん、ごめ、な、さい」
「何についての謝罪ですか?」
「はしたなかった、です」
「……ふふ、はしたないくらいが、今の僕には丁度良いと思いますが」
腰の抜けそうになっているヒヨをひょいっと軽々持ち上げたジェイドが笑いながら唇をなぞって、それから指を突っ込んで来た。どちらの唾液か分からないそれを控えめに舐めとる。ジェイドが目をきゅ、と細めて、それからヒヨの横髪を耳に掛けた。
「――アズールに怒られる覚悟はありますか?」
「……あり、ます」
「そうですか。ふふ……それじゃあ久々に貴方の部屋へお邪魔することにしましょう」
詰まるところそれは“そういうコト”をするということだ。ヒヨが僅かに期待していたことを、今日ばかりは焦らすことなく言葉にしてくれるジェイドへヒヨが甘えたように擦り寄った。
「素直ですね、今日は特に」
「寂しかった、から」
「そんな想いをさせるのも悪くないですねぇ」
「……もう嫌です、わたし」
「ふふ、そうですか?」
ハロウィーンだから、少し大胆になれたのだろうか。きっと関係ないのだけれど、いつもと違うシチュエーションにいつもと違う洋服を着ているから。だから素直になれたのだと言い訳を付けて見せた。ヒヨを抱き抱えるジェイドが「そういえば、」とわざとらしく言葉を変える。
「ハロウィーンだと言うのに貴方に言うのを忘れていました」
「……?」
「“トリックオアトリート”」
「……、……あ。お菓子あります」
「なんであるんです」
珍しく拗ねた様子を見せて来たジェイドに、ヒヨは抱えられながらクスクスと笑い声を溢してしまった。ケイトがくれた飴玉の存在を思い出して、スカートのポケットからそれを取り出してみせる。包装を解いて、ジェイドの口の中に入れてやろうとした時だ。飴玉を咥えた彼が再びヒヨの唇と重ね合わせて、そうしてそのまま飴をガリ、と噛み砕く。パラパラと砕け散ったそれらがヒヨの咥内に散らばる。思わずごくり、と飲み込んでしまった。
「……ぁ、え?」
「おや。お菓子は何処に?」
「……え、えぇ」
「ないんですか?それじゃあ仕方ありません、いっぱい悪戯しなきゃいけませんね」
「い、言い掛かり……!」
「お菓子を持っていない貴方が悪いのでは?」
こんな力技、酷い。そうして拗ねてやりたいと思うのに、こんな会話も久々でヒヨの心臓はきゅんと甘く音を立ててしまうのだ。惚れた方が負け、とはよく言うもので、いつだって彼のこういうところを許してしまうのはヒヨなのである。
小さく唸りながらもジェイドの突拍子もない行動を享受してしまうのは仕方ないというもので。
「折角貴方が白い糸を小指に巻き付けてくれたんですし、今日は包帯を使って可愛がるのは如何です?」
「っ……ぜ、ぜったいにやです」
「じゃあ絶対にやります」
「い、意地悪……!」
「おや、今更知ったんですか?恋人の癖に」
「う、」
知っている。知っていた。そんな彼も好きなのだ。そんな彼が、私の恋なのだ。
きゅ、と眉を寄せたヒヨを見詰めて優しく微笑んだジェイドはそれに気付かれないようにヒヨの背中に手を当てる。自分の方に寄せながら、抱き締めるようにして囁いた。
「……好きですよ、ヒヨ」
それはどんなお菓子より甘く蕩けるような一言だった。