ACT.4



「ジェイド。おっそい」
「すみません、……迷惑を掛けました」
「ん。じゃあこれ、早くエレベーターの番号教えてよ。情報屋の子からパスワードは教えて貰ってんでしょ?」
「はい」

 既にイグニハイドの入り口にある警備システムはフロイドとメイが解除済みだ。物理的に。そもそもあのイグニハイドに入れてしまった時点で相当な動揺が見て取れた。彼らのプライベートな敷地に入るための暗証番号。『頭が居る部屋は最上階ですね。不自然なスペースがありますからきっとそうでしょう。……正直、ハッキングは得意ではないので最新の地図を仕入れることは、できませんでしたし、……不確かですが』と、パソコンを片手に語った赤毛の少女が言う。アズールが電話越しに「イグニハイドへのハッキングを考えたら十分すぎるほどですよ。ありがとうございます」と返事をして終了ボタンを押す前に向こう側から呼び止める声が聞こえた。『――あの!……ヒヨちゃんのこと、……宜しくお願いします。そ、そうじゃないと!一緒にジェラートを食べる人も……居ないですし』後ろで素直になればいいのにねぇ、と冷やかしの声が漏れる。アズールが穏やかに目を細めながら「……善所しますよ」と言って切ったのはポムフィオーレのアンジュだ。次いでに、彼女の狩人が空を飛ぶヒヨの姿を見付けて連絡を寄越してくれたことも告げておこう。
 何はともあれエレベーターを起動させ、無事に暗証番号を入力した一行はそのまま最上階まで登りつめていく。――それにしては、少々簡単すぎる気がする。その辺の弱小マフィアを潰す方がまだ難しいだろう。イグニハイド全体にヒヨが幻覚を見せていたとしても、後から入って来た自分たちを認識せずこの鉄壁の防衛システムが見逃すわけはない。……きっと彼にも思うことがあったんだろうと、ジェイドは考える。慟哭していたヒヨにこの事実を伝えなければならない。きっと――いや、かならず。濡れた手袋をきゅっと握り締めたジェイドを見て見ぬフリをしてエレベーターは上がっていく。)



 先に潜入したヒヨがエレベーターから転がるように飛び出した。どくどくと煩い心臓が、莫大な魔力を使っていることを示唆している。魔法をこんな広範囲に使うことはなかったので身体に相当な負荷が掛かっているのだ。エレベーターを降りて、壁伝いに廊下を進み、怒鳴り声が聞こえる部屋までやってきた。

「――イデア!お前、自分が何をしたか分かっているのか!?」
「……父さん」
「あぁ、くそ……!お前にその席を譲るのは早かった!」
「父さん……!バイタルに異常な数値が出てるよ。落ち着いて!」
「良いか、今すぐにヒヨを外に摘まみ出すんだ!その辺の構成員にでも、アンドロイドでも良い!あぁ、……丁度良いじゃないか。オルトにやらせろ!」

 この部屋に三人が、居る。雨の所為だけじゃない。血の気が引いて行くような感覚を覚えながら扉に手を掛けた。感情的になっている二人を置いて、オルトくんだけが私の存在に気付いていたらしかった。

「――ヒヨ姉さん!」
「ヒヨ、お前……!くそ……!わかった、もういい!俺が連れ出してやる!」
「ま、って……おとうさ、直ぐ出て行くから、はなし、を、」
「俺はお前の父ではない!大体、この状態でなんの話があるというんだ!」

 先程のようにどん、と突き飛ばされたヒヨは尻餅を付いて呻き声を上げる。慌てたようにオルトがヒヨの傍に近寄って腕を伸ばしたところで父と呼ばれる男がヒヨの首根っこを掴んで廊下へ引き摺り出そうとした。あぁ、折角セダムさんが買ってくれたお洋服なのに。ぼんやりとそんなことを考えていると奥のゲーミングチェアが音を立てて動く。――その時、入り口から耳をつん裂くような発砲音が聞こえた。それは男の耳横をすり抜けて窓を突き抜ける。強化ガラスはヒビが入るだけで崩れることはない。鉄壁のイグニハイドの名に相応しい耐久度だ。

「……その下膳な手で、ヒヨに触らないで頂けますか」

 普段の柔和な瞳を隠してジェイドが言った。銃口からは細く煙が出ている。確かにこの男が実弾を、撃った。仮にも敵の本拠地で。
 男の手が襟からはらはらと落ちると、それに合わせてヒヨの身体が地面に叩き付けられる。大股で駆け寄ったジェイドがヒヨを起こすと虚ろな瞳と目が合う。魔力の消耗が激しい。このままでは事態が収束するより先にヒヨの身体に壮大なダメージが襲うことは明白だ。

「……おと、さ、わ……っけほ、わた、し」
「ヒヨ姉さん、もう……ダメだよ……声が……」

 ジェイドに支えられながら男に手を伸ばすヒヨの腕が揺れる。入り口でそれを眺めていたアズールとセダムの瞳も比例するように大きく揺れた。廊下の奥では「殺さない程度に」と命令されているフロイドとメイが構成員の侵入を食い止めている。

「――父じゃないと言っているだろう!」

 それでも尚、男は激情する。オクタヴィネルの三人がピリ、と空気を張り詰めた。セダムも拳銃を取り出して男に向けるが隣に立つアズールもそれを止めるような仕草はしない。
 一触即発の空気の中で誰よりも真っ先に動いたのはそれまで黙っていたイデアだった。丸めた背中をそのままにしてゆったり近寄って来たかと思うと、イデアはヒヨを一瞥してから男に向かって伝える。

「父さん、出て行ってくれないか」
「……は?何を言っているんだお前は!出て行くのは!この女だろう!!」
「――イグニハイドの現ボスからの命令だ。出て行け」

 冷たい、雨のような冷たさを孕んだイデアの声にぐっと息を詰めて、それからヒヨを見ようともせずに部屋から出て行く男をセダムが睨みつけながら後ろ姿に銃口を向ける。アズールがその腕を掴みながら部屋の扉を閉めた。

「……っ、ぅ、ぁ……?」
「……いいよ、喋らなくて」
「ぁ、……?の、っ………!」
「ん……伝わってる。ごめん、……ごめん」

 魔力の消耗で声が出なくなったヒヨの頬を両手で包みながら、コツンと額を合わせたイデアが言った。苦しげに吐き出されたその声はまるで神に懺悔しているようにも聞こえる。ヒヨの身体を支えていたジェイドの手がピクリと動く。

「……父さんはあぁ言ってたけど。……僕は、……ヒヨのことをずっと、その……妹、みたいなものだと思っていた、し。……でも、父さんがヒヨを売ったことも知らなくて、助けられもしなくて……気付いたらオクタヴィネルに居るって聞いた、から。……そっちのボスにヒヨの安全を保障する代わりにっていろいろ……あぁぁ……いいわけだよな。……ごめん」
「ぅ、………っ、っ」
「ん……いや、お前はそう言うけど、僕が納得いかないんだって。……で、何もできなかった僕が今更ヒヨのところに行くこともできなくて、……ごめん。ほんとに。反省してる」
「……兄さん、ずっと落ち込んでたんだよ。本当に。……僕もだけど」

 ヒヨの、雨に濡れた羽が気持ちを表すように小さく動いた。言葉では伝えられなくとも「ありがとう」と、彼女が言っているようにも感じる。それを見てジン、と胸を暖かくさせたイデアが、扉の前に居るアズールを一瞥してから言った。

「……どうする?イグニハイドに戻ることも、今なら、……できる。と、思う」
「どうやって?」

 間髪入れずにヒヨを抱えていたジェイドが冷たい声色で言い放った。

「無理やり奪う」
「……できません。この子はもう、オクタヴィネルのものです」

 そういったものの、ジェイドの声には僅かな震えが残っている。ヒヨがオクタヴィネルに留まる想像が、自分にはできなかったのだ。主に――そう、これこそ自分の所為なのだけれど。あまりにも拒絶しすぎた。自分を認めたくないからと、この子を汚したくないなどエゴを建前にして。
 すると、ジェイドに抱かれていたヒヨが拒絶の意思を見せるように彼の胸を押してずる、ずる、と重い身体を這わせてイデアに腕を伸ばす。それは赤子が親を求めるときのような光景でジェイドだけでなくセダムとアズールまでもが息を飲み込む。「……そんな、」と絶望の声を上げたのはセダムだったか。

「……ヒヨ」

 ちゅ、とイデアの額にキスを落としてから、彼の長細い指を広げて手の甲に文字を連ねる。

“ま・た・あ・え・る?”
 
 それが彼女の出した答えだ。イデアは肩を落として疲れたように微笑んでから「……当たり前だろ。家族、なんだし」と気恥ずかしくも告げる。ヒヨは満足そうに笑ってから、ジェイドを振り返った。その瞳に薄っすらと膜が張っていることに気付いてヒヨは大層驚いてしまう。恐る恐る手を伸ばしたら、ジェイドは初めてヒヨの手を受け入れて、それに擦り寄ってきた。雛鳥のように。

「……馬鹿な、天使ですね」

 賢く生きろと言ったのに。そんな言葉を続けるとヒヨはにこりと普段の笑みを浮かべて、それから地面に落ちて行く。勿論、ジェイドが寸前のところで拾い上げたけれど。

「……さて、そろそろ限界でしょう。シュラウドさん。……この騒ぎは同盟を組む特別な日の為の催し物だった――ということで、いいですね?」
「あぁ……それでいいよ」
「ふふ。そうでもなければオクタヴィネルを招き入れるような“警備システムの停止”理由を報告できませんしね。えぇ、懸命だと思います」

 そう。あまりにも――あまりにも、簡単すぎた。弱小のマフィアグループを潰す方がよっぽど難しいと思えるほど簡単に突破できる警備体制などこのイグニハイドにあるわけがない。全ての機能を停止して、ヒヨ、及びにオクタヴィネルを招き入れたのは他でもないこのボスだ。父親に逆らえず妹の巣立ちを裏で見守るしかできなかった男。罪悪感と、絶望。それらを包み込んだのは紛れもないこの天使だった。

「それでは取り引きをしましょう」
「あぁ。……イグニハイドの警備システムとサイバー知識を教えるよ。……でもこれは、あくまでも、」
「ヒヨさんの為ですよね。ふふ。分かっていますよ」

 アズールが一歩前に出て、冷えた純白の翼を撫でた。

「約束しましょう。貴方の“家族”を、僕たち“家族”が守ると」

 アズールとイデアの話がひと段落すると、意識を失っていたヒヨの検診を行っていたオルトがジェイドへ結果を伝えるところだった。穏やかな声色で「姉さんをよろしく」と告げられた言葉に「……えぇ」と短く頷いて小鳥を抱き抱えて立ち上がる。

「――あのさぁ」

 大団円、といきそうだった話を扉に背を付けながら見守っていたセダムが鋭い瞳を向けて、自分の首を指で斬る真似をする。

「同盟組むついでに、あの男、殺していい?」

 部屋中の人間が賛成意見を出すだろうことは予想していたが、意外にも反対したのはジェイドだった。――それには理由があるのだが、理由を語らず「行きますよ。ヒヨに処置を施さなければ」とスタスタ歩いて行ってしまったジェイドへ「なんっでよ!絶対殺した方がいーじゃん!腹立つ!」と物騒なことを言いながら追い掛けるセダム。アズールが紳士たる仕草で「……それではまた。次は僕たちの客船に是非」と微笑んで扉を閉める。残されたイデアが勢いよく椅子に座り込むのを見てオルトが笑った。

「兄さん、嬉しそうだね」
「……ま、ね。妹の成長は、嬉しいものでしょ」