ACT.5



 ヒヨが目を醒ますと、そこは見慣れた場所だった。真っ白な天井と硬めのシーツ。アルコール消毒液の匂いが充満する部屋は以前フロイドが「ここきらぁい……」と言っていたけれど、ヒヨは案外これが好きだった。鉛のように重たい身体を動かしながら腕を持ち上げる。生気のない細い腕をかろうじて視界に入るまで上げてみると注射針が刺さっていた。チラリ、壁にかかった時計を見てみる。七、と表示されているそれに朝だか昼だか分からない。ただ、イグニハイドに向かったのが昼過ぎのことだったので夜のような気もする。
 そんなことを考えている間に医務室の扉が開いた。ギィ、と音がして音の主が近付いてくる。カーテンを開いたその人を見上げて見せると、彼は珍しく目をまん丸にしながら手にしていた食事を床に落とした。

「……ヒ、ヨ」

 まるで幽霊を見たかのような反応に笑って見せたけれど、重い身体では表情筋が上手く動いているかも怪しい。注射針の付いた手を伸ばすと、息を飲んだ彼が、それでもそのあとに手を取ってくれる。やっぱり夢じゃなかったんだ、と思わせてくれる行動に嬉しく思いながらそれをにぎにぎと握った。

「……ッ、貴方、あれから一週間眠っていたんですよ……!?」
「っ、!」
「医師たちには魔力の消費、と……心因的ストレスが原因だから心配するなと言われましたけど……流石に一週間は長すぎます……」

 項垂れるようにベッドサイドに来た百九十センチの男は確かに何処かやつれたような表情をしている。七時、って……一週間後の夜七時なんだ……と冷や汗をかきながらオロオロしつつ、まだ声が出ない自分の喉を触りながら周りを見渡した。紙とペン――は、都合よく置いてあるはずもない。そんな自分の行動に気付いたのかジェイドが己の手の平を差し出しす。意図を汲み取ったヒヨが暫し考えたあと、ゆっくりとした手付きで文字を書き出した。

『しんぱいかけてごめんなさい』
「……本当ですよ」
『めいわくも、かけちゃいました』
「……そこは、誰も気にしていませんでした。本当に、心配しているだけで」
『おとうさんは?』

 その言葉を読み取った時、ジェイドの肩がぴくりと揺れる。その様子を見て、ヒヨが慌てたように起き上がろうとするので手で制して首を振った。

「いえ、いえ。生きてますよ」
『よかった、』
「……」
『おるとくんがバイタルがいじょうだっていってたから……そのあとになにかあったのかな、って』

 これはジェイドだけが知っていたことだけれど、ヒヨが父と呼ぶ男は心臓を悪くしており、最近は数値が酷く悪いらしい。勿論そんなことがバレてしまえばファミリーに悪い影響があるのは明白で、それをきっかけとしてイデアがボスの顔となったのだ。ヒヨを売って、遊んで暮らせるだけの資金が調達できたというのが一番の理由だろうが。
 ……正直な話、ジェイドはあの男が嫌いだ。思い出すだけで腸が煮え繰り返るほど。しかし、この子が医学を勉強しているひとつの理由になっていることを考えると殺すこともできず。そのまま帰って来たわけであるが――いや、簡単に死ねると思うな。心臓が破裂する前に、もっと苦しんで死んで貰わなければいけない。勿論この子に知られないように。あぁ、地下壕に案内するのも良さそうだ。とっておきの部屋を開けて、痛めつけて、もがき苦しんでから死んで貰おう。それがいい。オルトという男に毎日検診の結果をお聞きしなくては。
 ジェイドがそんな物騒な思考を巡らせているなんて露知らず、ヒヨはくぅ、と鳴ったお腹の音に顔を赤く染めた。一週間、胃になにも入れていなかったのだから正常な反応だろう。青い顔を浮かべたかと思えば今度は真っ赤に――小さく笑いながら「ミルク粥を作りましょうか。……それなら食べれそうでしょう」と提案すると恐る恐るヒヨが頷く。持ってきます、と言いながら立ち上がろうとしたジェイドの服を掴もうとして――あまりにも腕が重いから掠めるだけで終わってしまった。体勢を崩したヒヨを支えるようにしてやると随分と近い距離にお互いの顔があることがわかる。キラキラと光るオッドアイの瞳を見ながら、そういえば彼は泣いていたような気がする、と思い出してみたけれど、言ったらそんなわけないと否定されてしまうだろう。そこまで言われたら追求することもできない。

「……貴方を、」
「?」
「貴方を捕まえられて、よかった……」

 ぎゅ、と痛いほどに抱き締められる。苦しそうなジェイドの声はヒヨの心臓を掴んで離さない。不謹慎であることはわかっているが、心臓がドクドクと速くなり、顔や首筋、果ては指先まで火照ってくる。声が出なくて良かったかもしれない……余計なことを言ってしまったらジェイドさんに離されちゃうかも、と思って、以前までのジェイドさんを思い出しながら擦り寄ってみる。暫しそのような穏やかな空間に身を委ねているとそのまま彼は、ヒヨに顔を見られないようにしながらポツリ、ポツリと話して行く。

「貴方を……ヒヨを、余所者扱いしていたのは……本当にそう思っていたわけじゃないんです」

 弱々しい声を聞いて、あの雨のことを思い出す。慌てて、気にしてない、それより私の方こそひどいことを言った、と告げようとするのに声が出ないから伝えられない。抱き締められたこの状態では文字を書くこともできない。そんなヒヨの思想が伝わったのかジェイドは「聞いてください」と背中を優しく撫でる。濡れた翼はとっくに乾いていた。

「僕がそう思わないと居られなかったんですよ。……貴方があまりにも僕の心に近付いて来るから。手を取っちゃいけないのに、誘惑してくるでしょう。貴方」
「……」
「そんなことしてない、と言いたげですね。ふふ、言わなくてもわかります。が、……貴方がレオナ・キングスラーに申していたように“何も言わない、態度にも出さない”では誤解を与えても仕方ありません。……拒んでいて申し訳ありませんでした。本当は何度も、この手を取りたかった。……小さい手ですね」

 服の擦れる音がすると、片方の手がジェイドに握られる。その時に見た優しい瞳はヒヨが見たどのジェイドの表情より優しく、温厚だ。それに見詰められたらまた心臓が喚いて仕方ないだろう。あまりにも予想外な出来事にあ、ぅ、と、声が出ないのに口を小さく動かす。

「僕の手はこの通り汚れていますから……貴方の綺麗な手を汚せないと思ったんです。言い訳ですけどね」
「……」
「……もう、戻れなくなってしまいましたね。あの時、イグニハイドに残ると――貴方が言えば、もっと綺麗でいられたかもしれないのに」

 綺麗、とか、汚いとか、ヒヨからしたらよく分からない感覚だった。だって、ジェイドの指はこうして誰かに熱を与えられる立派な手であるからだ。どこからどうみたって汚れているようには見えない。そういうことではないと分かっていながら、ヒヨは彼の言っていることに納得がいかなかった。喋れないってこんなにもどかしい。喋れるうちにもっといろいろ喋っておくんだった。笑って誤魔化すんじゃなくて、彼に心の内をぶつけておけば良かった。そうしたら彼が苦しむこともなかったかもしれないのに。

「……ッ、ん!」
「なんです……?」
『わたしが、もどりたかった!だけ!』
「……えぇ」
『じぇいどさんと……いっしょに、いたい』

 口を動かすと、読心術を使って読み取ってくれるジェイドが困ったように笑って。それから。

「……僕も、です。……もうあんな気持ちは御免だ」

 すり、と頬を撫でられるからキスをされるのかと思ったが、唇を指でなぞられるだけで終わった。――勘違いじゃなければジェイドさんも自分と同じ気持ち、だと、思っているけれど。もしかしたら家族に対するそれかもしれないし、聞くのは怖い。さっきまで言えることは言えるうちにと思っていたのにこれだけはどうにも積極的になれずヒヨが視線を揺らすと彼は穏やかに笑って、それからヒヨの髪を撫でた。

「ヒヨの声が治ったらお伝えします。……一方的に告げては反論も聞けませんし」

 そんなこと言わないのに……と思ったヒヨの心情を読み解きながらジェイドが笑う。彼の顔が近付いたと思ったら額に短くキスをされる。飛び上がったヒヨの身体を支えながら、ジェイドが拗ねたような表情を浮かべた。そんな彼は初めて見る。――今日は初めて尽くしのことで堪らない。

「……貴方が彼にこのようなことをするのを見て、場違いながら少し、嫉妬をしました」
「……っ、っ!」
「それが兄に一時的な別れを告げる合図だったとしても、ですよ。……さて。怒られる準備はできていますか?ミルク粥を運ぶがてら、心配していた彼ら彼女らを引き連れて行きますが」
「…………、」
「ふふ。心配しなくても僕が隣に居ますからフロイドに締められることはありませんよ。……それでは“家族”を呼んできます。また後で」

 ジェイドが去ってから、身体に熱が籠っているのを再認識する。それは決して嫌な熱じゃない。心臓の辺りにぐるぐる回る高揚感を感じながら「愛されている」の意味を、――ヒヨはこの日、初めて感じることができた。