海を見たことがないというフェイの言葉に嘘偽りはなかったのだろう。案内されて着いたのは海から、そして都心から離れた辺鄙な地であった。手入れのされた綺麗な森、のような場所に車を止めた一行は「……本当にここで合ってるんですか?」というアズールの声を聞きながら進んで行く。普段海水の近くに居るからか、殆どの人間は顔を顰めて木々を掻き分けた。まぁ確かに、人がいないと言うことはそれだけ一目に付かないということでもあるけれども。砂利道に足を取られながら何とか辿り着いたと思えば、そこは立派な城門が建っていた。
「……ここが、家?」
「そうだよ。――ようこそ、ゲシュペンスト施設へ」
アズールがセダムの腰をさっと抱いて、フロイドはメイの腕を引いた。フェイと手を繋いでいたヒヨはというと視界がぐるんと回って宙に浮く。空に浮いている時に宙返りをした時のような情景を見ながら、繋がった手の先を見ようとすると視界の端でフェイが口角を上げるのが見えた。羽を動かそうとしたヒヨの翼を片手で握り潰して来たので、思わず呻き声が漏れる。
「ッ、ぅ……!」
「ヒヨッ!っ……貴方、何が目的ですか」
「あはは!僕?僕はねぇ、お母さんに言われたことをしただけだよ。ほら、ほら!鬼ごっこをしよう?今日は僕たちだけの特別なパーティーだ!」
フェイはヒヨの身体を軽々と抱き上げながら、子供とは思えぬ身体能力で飛び上がる。鬼ごっこをしよう、と告げた言葉通り、巨大な施設の入り口に向かって走って行く――のを、ジェイドがただ見ている筈もない。瞬時に駆け出して長い足を子供の身体に叩き込もうとした。そう、叩き込んだ筈だった。
「おっそいなぁ。ヒヨちゃんが居るから本気、出せてないの?」
宙を振り切ったジェイドの足の上に降り立って、今度はフェイが足蹴りを繰り出す。ジェイドの肩に子供の脚がぶつかって、そしてそのまま――ジェイドがすっ飛んだ。七歳程度の小柄な少年が繰り出した足蹴りが、百九十センチの男を宙に送り出してフロイドの足元まで砂埃を上げさせたのだからそのアンバランスな光景に全員が口を大きく開いてしまう。
「ジェイド!!」
「だ、いじょうぶです……中々強烈でしたけどね」
「 ……あー……コロス。アズール、止めんなよ。オレ、今、すっげぇ苛々してんの」
フロイドの眼光がギラリと光る。メイの身をアズールの方に押し付けながら飛び出したのと同時に、入り口に立っていたフェイがにこにこと子供のような笑みを浮かべたまま後ろ向きに飛んだ。それは、まるで羽が生えているような動き。正確にはそんな物はないのだけれど、空中を浮遊する長さとジャンプ力の高さはそれがないと説明が付かないのである。抱えられたままのヒヨがジタバタと暴れながら「離して!」と騒ぐと廊下を走るフェイが「……ちょっとうるさい、ヒヨちゃん」と甘ったるい声を出したものだから、背中がゾクリと震えた。彼の瞳には路地裏で顔を上げた時のような影が掛かっている。
口をきゅっと閉じて後ろを振り向くとフロイドとジェイドが追い掛けているところだった。やいやい、二人が何か話しながら、それでも目は離さずに追い掛けている。
そもそも此処は何処?いや、フェイが名乗った通り「施設」のような外見はしていた。白く聳え立つ、森の中にある城。窓には鉄柵が打ち付けてあり、中に入っても廊下と何個かの扉があるだけだ。暫く走って廊下の突き当たりにある扉を足で開けたフェイがそのまま――飛んだ。扉を開けるとデッキになっていたようで、走った勢いのまま乗り越えたのだ。空中の浮遊に思わずヒヨが翼を羽ばたかせようとしたけれどフェイの片手にむんずと掴まれていたのを思い出して敵わなかったが、落下して転がることはなかった。フェイが綺麗に着地して、それからヒヨをぶんと投げ飛ばした。
「へ、――!?」
突然投げ出されたことに驚愕しながら慌てて翼を動かそうとしたけれどその前に身体が壁に激突する。相当な衝撃を受けた身体から呻き声が漏れ、身体が床に打ち付けられた。手足がビリビリと痺れて動かない。頭を強くぶつけたのか目の前がぐわんと揺れている。立ち上がれないヒヨの姿を、フェイを追い掛けてきたジェイドとフロイドが目撃した。名前を呼ばれて、返そうとするのに声が出ない。肋骨が一つ折れているような気がする。呼吸をしようとすると上手くできなかった。
その間に、どんな原理なのか上から檻のような物が降ってきてヒヨを閉じ込める。太い鉄柵に囲まれた、動物園の檻のような趣きの閉鎖された箱だ。
「……殺しましょう、フロイド」
「勿論そのつもりだよぉ、ジェイド♪」
檻の中に居るヒヨが、苦しそうな表情を浮かべながらずるり、ずるりと這いずって檻の近くまでやってきた。これを持ち上げるか入り口にある南京錠の鍵を開けないと出られないであろうことは容易に想像が付く。
ふと、ヒヨが上を見上げると10メートルほど離れた場所に立つフェイの上にも同じような檻が設置されているじゃないか――……!いいや、それだけじゃない。彼方此方にに設置された檻の様子に、ヒヨは口をポカンと開けながらもジェイドとフロイドに叫ぶ。
「ふた、り、とも!上、同じのがあります……!」
「……ほんとだぁ、趣味わっりぃの、ッ――!」
フロイドがチラリ、一瞬だけ上に視線をやった。ほんの一瞬。瞬きにも満たない須臾だけだった。
少年の身体が、音も無く消える。
「ッ――!」
「あのね、」
慌ててフロイドが身を翻したのと同時、スローモーションのように動く景色の中でフェイがにんまりと笑っているのが見える。フロイドの手首を空中で掴んで、それこそ砲丸投げの要領でその身体を――投げた。凄まじいスピードで相方の身体が飛んで行くのをジェイドは見ていることしかできない。それくらい一瞬の出来事だった。二階のデッキに身体を打ち付けたフロイドが重力のまま床に崩れ落ちて行く。ギリギリで受け身を取ったフロイドが大きく舌打ちをしながら握られていた手首を庇うように握った。
「僕、ずうっとずうっと考えてたんだぁ――双子って“片方が死んだらもう片方はどうなるのかなぁ”って!」
目にも留まらぬ速度で疾駆しながら、フェイは息ひとつ乱れていない。普通じゃない。普通の人間であったのなら、このような卓越した動きは不可能である。重力、重さ、どれを取ってもバランスが取れない。ここは人間の改造施設だとでも言うのだろうか。それなら上の檻の量にも納得だ。改造されたこんな化け物が逃げてしまったら、生身の人間では敵わない。
「フロイド、無事ですか」
「あ゛?ぜってー殺す」
「元気そうで何よりです」
「元気じゃないんだけど。手首、ちょーいてぇ」
「あそこまで吹っ飛んで手首の痛みを訴える程度なら上出来ですよ」
「んふふ。ほんと! もっと遊べそう! 良かった! あぁ、良かった! でもどっちかを殺したいんだ、僕。ねぇ、どっちが良い? 僕、どっちでも良いよ。ほら、……選んで?」
無邪気に燥ぐ少年にヒヨはきゅっと顔を顰めた。正常じゃない。どれも、これも。檻の間から状況を理解しつつ、目で追うのが精一杯な彼女にできることは少なそうだった。取り敢えず、目の前の二人が危ないということだけは理解している。
「ふ、二人とも! 一回離れて、アズールさんに報告を、」
「は?」
「なんですって?」
普段のジェイドだったら、ヒヨの冷静な判断へ「上出来です」と微笑み掛けてくれただろう。だってそれが一番だ。オクタヴィネルのポリシーは何が何でも命は守れ。なのである。ボスであるアズールが散々言っている言葉をこの二人が忘れていない訳がない。
しかし、今の二人には地雷の言葉であると断言しても良い。
こんな子供に?オレと僕が殺されるって?
いやいや冗談だろう。しかも、一人を殺して感情実験までしようときた。あぁ、こんな侮辱。
「骨の髄まで粉々に砕きましょう」
何方にしようかな。神様の、
「指を一本ずつ折ってからねぇ♡」
言う通り。
「……ま、どっちでもいーや。神様に委ねるとか、んなの面倒だもんね」
フェイがこてん、と首を傾げながら、にこりと微笑んだ。