episode.4 花嫁



 アズールたちが得た情報は三つだ。
 今いるゲシュペンスト解析研究所は人体と動物を使った違法な実験施設であったこと。そして、この施設は既に、警察のお陰で解体されているということ。3つ目が――。

「幽霊相手にどうやって殺せって!?」
「流石の僕も、幽霊は殺したことがないですね……メイさんは?」
「あるわけないじゃないですか!」

 通りでこの施設に人間が居ない訳である。施設全体が、あのフェイという少年の幻想であり、再現されているに過ぎない。三人は長い廊下を走り込みながら大声で会話を交わした。焦燥感と苛立ちが止めどなく溢れている。

「そもそも実験体って――!実の息子を、なんで……」
「子供と思っていなかったんでしょうね。ヒヨが父親に、物として見られていたように」
「……この世界の父と母ってまともな人間、居ないの?」

 セダムの正論に二人が口を噤んだ。施設の詳しい地図はロックが掛かってて開けないということだったが、昔の書物に簡易的な見取り図があるから送る、ということで、取り敢えず実験棟に行こうという話になったのである。ジェイドとフロイド、そしてヒヨを回収してさっさと幻想の施設から脱出するのが手っ取り早い。

「何も居ないけど……!?」
「可笑しいですね……坊やが“お母さんに言われたことをした”と言っていたので、僕たちを引き連れて実験でもさせようとしたんじゃないかと考えたんですが……」
「……そういえばフェイくん、“今日は”僕たちだけのパーティーだって言ってましたけど、……毎日パーティーがあったということでしょうか?パーティーなんてするような場所じゃないのに……」

 走っていた足を止めて、アズールが送られてきた見取り図を撫でた。実験棟が二つ。真ん中には何も書かれていない棟がある。そこはただの正方形の施設のようで一階から五階までをくり抜いて作られているようだった。

「まぁ行ってみる価値はありそう、ですかね」

 アズールたちが居る実験棟の三階から渡り廊下を歩いて行くのが一番の近道だ。その棟に入るには厳重なロックが掛かっているようだったが、幻想の施設であるからか特に何をする訳でもなく扉は簡単に開いてしまった。警戒しながら中に入る――すると、そこには真っ白な施設に似合わない、豪華なシャンデリアと大量の観客椅子。それから、既に機能していない軽食店が鎮座している。

「……なに、ここ」

 真っ赤なレッドカーペットを踏みしめながら、セダムが観客席の前席まで足を運ぶ。一階は広々とした何もないスペースだったが、奥の方に赤いカーテンが二つ設置されている。軽食スペースの奥にある階段を指差して「一階に行ってみましょう」と声を掛けたアズールがコツコツと革靴を鳴らした。観客席があるところから見て、以前はかなり賑わっているスペースだったのだろうということが理解できるけれど、がらんどうの今は逆に不気味さを引き立てるだけだ。
 結論から言うと、二階席から一階までの階段は存在しなかった。仕方なく三人は二階にある安全柵を飛び越え、一階に降り立つ。そこだけは、謎に異様な空気を纏っている。レッドカーペットもない、アスファルトで出来た地面には所々どす黒く染まったシミのようなものが浮かんでいた。

「……なるほど」
「え。なに、何か分かったの?」
「実験で作り出した改造人間をこの“競技場”で戦わせる。客席でその様子を楽しみ、はたまた何方が勝つかベットする。そんなところでしょうね」
「ッ――!?な、なにそれ!ひっどい……」

 セダムの悲痛な声を聞きながら、アズールが赤いカーテンに手を掛けた。中には入口の開いた空の檻があるだけで、奥は闇で支配された空間が続いている。
 この檻から出された二人が命を掛けて戦うのだ。狂気的な空間だっただろう。嘔吐感を喚起する錆び付いた匂いを充満させた施設に身を置きながら、観客たちは自分が可笑しなものを見ているということを露ほども自覚せず、金を掛けた方に罵声や歓喜の賞賛を送る。これこそがフェイが言っていた“パーティー”そのものだろう。

「全く……趣味が悪いことですね」

 アズールの呟きが床に落ちた瞬間、メイが息を呑む音とセダムの叫び声が聞こえた。

「アズー!逃げ、」

 その頃にはアズールの身体は宙を舞っていた。専ら空中戦には向かぬ身体だ。ぐるんと視界が回ったことに理解できないまま、しかし、それでも視線はある一点を見詰めている。巨体を持つ人間と大型の肉食動物――虎、などの動物を合体させたような怪物の姿を視界に捉えて、受け身を取りながら床を滑った。

「アズー!大丈夫!?」
「っえぇ、貴方たちも気を付けなさい!」

 セダムが手榴弾のピンを歯で引き抜いて、怪物の前まで転がす。メイの腕を引いて壁側まで寄らせてから頭を低くさせた。轟音と、視界を覆い隠すほどの煙が辺りに充満する。確かに当たったはずだ。肢体が辺りに飛び散り、床に新しい鮮血が染みることだろうと思った――けれど。煙の中から現れたのは爆破を物ともしない怪物の姿だ。

「――マジ?」

 彼女の頬に冷や汗が一つ。痛覚はあるのか、それとも視覚で察知したのか。怪物のぎょろりと出ている目玉がセダムの方に向けられた。アズールが「逃げなさい!」と大きく叫んだのと同時にセダムとメイが各々別の方に足を進める。床を蹴り、アズールの方まで近寄った。先程までセダムが居た場所まで慟哭を上げながら突進した怪物はアスファルトの壁をヘコませている。

「やばい……!やばいって!ジェイドもフロイドも居ないんだよ!?」
「……っ、取り敢えず逃げましょう。その間に策を考えま――!」
「二人とも!上!」

 メイの悲痛な声を聞いた二人が慌てて床を転がった。アズールがセダムの頭を抱え込むようにぐるりと回転して、それから片手で拳銃を構えながら撃ち込んだ。飛び上がった怪物の二の腕、そして左の太腿としっかり当たった筈なのにソレは痛みを訴える様子はない。化け物、と呼ばれるのに相応しい屈強な身体。皮膚が異常なほど硬いようだった。

「駄目ですね。……倒すことを諦めましょう」
「はい!?じゃあどうすんの、また二階まで上がって逃げるつもり……!?登ってる間に殺されちゃうって!」
「そうじゃなく」
「じゃあなに!」

 セダムの腕を引いて、化け物が突進すると同時にメイの方に彼女の身体を滑らせた。床を滑って、それから勢い良く立ち上がる。先程までセダムに固執していた化け物はアズールの背中を追い掛けている。

「最後に攻撃した人間を――っ、追い掛けるようにインプットされているみたいですね……!」
「それが!?」
「あ……!檻!あの檻、使えませんか!?」

 最初にアズールが開いたカーテンの奥に見える巨大な檻。きっと、元々はあそこに入っていた筈なのだ。アズールが口角をにんまりと持ち上げながら「百点満点ですよ、メイさん」と余裕の口ぶりで告げた。
 セダムとメイが慌てて檻に近付いて入口を探る。両隣から口の開いた入口を閉めれば鍵が掛かる仕組みらしい。その代わり、二人が同じタイミングで檻を下さなければいけないのだけれど。

「僕、が、囮になってそこに誘導しますから、――入口を閉めてください!」
「っでき、んの?」
「……僕を誰だと?」

 アズールの額に汗が浮かぶ。にこり、と微笑んだその表情が無理に作られているのだとセダムには理解できていて、けれども他に案がない。メイに視線を向けるとコクン、と頷いた。檻の入口となる柵を下ろす為に二人が配置に付く。

「いーよ!」
「じゃ、行きますよ……!」

 先程から走り回っているアズールの体力は残り少ない。セダムとメイの息が合わなくても失敗する、言わば一発勝負だ。緊張感と謎の高揚感。

 アズールが床を蹴り上げて飛び上がった。化け物も追って宙を舞った。距離が近付いて、化け物の口が大きく開いたのと同時にアズールが咥内に向かって引き金を引く。
 傷付ける為ではない。不意を付く為だ。
 衝撃で口を閉じた化け物の頭を土台にして再び飛び上がったアズールが檻の上に降り立つ。
 化け物がアズールを見上げながら突進した。

「3、2、1――!」

 アズールの掛け声と共に、セダムとメイが同時に檻を下ろす。入口が閉まり、ガシャンと重い音が響いた。目を瞑っていたメイが恐る恐る視界を開けると、檻の中でぐるる、と唸るような声を上げながら、上に居るアズールをなんとか咬み殺そうとジャンプする化け物の姿が目に入る。
 へなへな、と力なく床に倒れ込む。それと同時にアズールが床まで降りてセダムの腰を抱きながらゆっくりと立たせた。覚束ない足取りでメイの近くまで二人が寄ると、手を差し出しながら「上出来でしたよ、二人とも」と笑うボスの姿。震える手でアズールの手を握ったメイを勢いよく立たせたところで、上の階層から大きな衝撃音が聞こえた。


♦ ♦ ♦ ♦


「〜〜♪ 〜〜♪」

 子守唄を歌いながら、ヒヨは南京錠をカチャカチャと動かしていた。ブラジャーを外して、中に入っていたワイヤーで鍵を開けようとしているのだ。最も、彼女に泥棒の知恵はなく、なんとか試行錯誤して考えた苦肉の策なのである。開くとは思っていないが、やらないよりは勝算がある。
 チラリ、檻に背を預けるようにして眠っているフェイの姿を見遣った。こうして見ると何も知らない、ただの男の子なのに。と、そう思いながら、床に垂れる愛しい人物の血液を一目してから再び鍵開けに没頭する。

 フェイは確かにヒヨに向かって引き金を引いた筈だったがそれは「カチリ」と音を鳴らすだけで銃弾は出て来なかった。ジェイドの愛用しているコルトパイソンが六発式であることをヒヨは良く知っていて、最初の戦闘時からなんとなく記憶していたのだ。あと数発でリロードをしなければならないけれど、その時を突かれたら困ると一人でヒヤヒヤしていたのが功をなしたのかもしれない。まぁ――正直な話、朧げな記憶であったから、フロイドに連れられたジェイドが銃を奪おうとしないところを見て漸く確証が持てたのだけれども。
 そんなこんなで太腿に設置していた注射器が役に立った。即効性の睡眠薬で、小さなフェイには割と効果があったらしい。瞬時にぐらり、と視界を歪ませて、それから恨めしい表情を向けたのを最後にコテンと眠りに付いてしまったのである。ジェイドの床に落ちたコルトパイソンを大事に膝の上に乗せながら、檻の外へ滑って行った端末は諦めた。あわよくばポムフィオーレにいる友人に応戦を頼み、主治医にジェイドたちの治療を頼んだあとアズールに連絡を取って二人のことを告げたかったのだが――小さく溜息を吐いたところで、鍵を弄っていたヒヨの手が誰かに握られる。

「きゃ!」
「……何してんの」
「え、え?もう、起きたの……?」
「……実験を繰り返されたた僕に、その辺の薬が効くと思ってるの?」

 きゅっと口を結んだヒヨがそろそろと手を引く。それでもまだ本調子ではないらしく、頭を抱えながら檻に身を預けていた。動くのは難しいらしい。

「置いて行かれちゃったね、ヒヨちゃん」
「置いてって、って私が頼んだんだよ」
「ふうん。……見捨てられた癖に」
「……フェイくんも置いて行かれちゃったの?」
「――!僕は置いて行かれたんじゃない!僕が置いて行ってって頼んだんだ!」
「一緒じゃない」

 にこり、と笑ったヒヨの言葉に言葉を詰まらせたフェイが、ぐっと喉を鳴らしてから気に食わないというように顔を逸らした。再びワイヤーで鍵穴を弄るヒヨに「何してんの」と怪訝な表情を浮かべる彼へ「脱出しようとしてる」と簡潔に伝えたところ鼻で笑われてしまった。ヒヨからしたら至極まともな回答だったと思うのだけれど。

「……さっきの歌、なに」
「聞こえてたの?」
「若干」
「子守歌」
「……もう一回、歌って」
「寝る?」
「寝ないけど」

 檻に囲まれたヒヨが何もできないように、檻の中に居るヒヨに何もできないのはフェイも同じだ。先程と同じように針金で鍵を開けようとしながら、ヒヨは子守歌を歌った。真っ白な空間で、檻に囲まれて歌う鳥の歌声に耳を澄ませるフェイは天井を見上げながらぼうっと聞き入れている。
 フェイとヒヨは境遇こそ違うけれども、決定的な共通点が存在していた。勿論、そのことを彼は知らない。

「それって普通、お母さんが歌ってくれるもの?」
「うーん……どうかな。わたし、お母さん居なかったからなぁ」
「は?じゃあどうやって産まれたの」
「あぁいや……産んでくれたお母さんは居るんだろうけど、本当の両親には物心が付いてから会っていないというか……」
「……じゃあお父さんは?」
「聞きたい?」
「いや、別に」

 興味ない、と言いつつも、チラリと視線を向けたフェイに気が付いて微笑みながらヒヨが言った。

「お父さん、私のことは娘だと思ってなかったんだって」
「…………」
「きっと……世界中の人が父を悪い人だって言うかもしれないけど。でも、」

 私たちは嫌いになれないんだよね?と笑いかけたのは、別に同意を得たかったわけではない。きっとこの男の子も実の母に利用されていると知りながら、それでも飢えた愛を潤して欲しかっただけなのだ。誰でもない、母親という存在に愛されたかったのである。
 嫌いになりたいのに嫌いになれないそのジレンマとは一体どれほど苦しいのだろう。
 父ではないが偽物の愛情を受けて育ったヒヨと、母から偽物の愛情も受けられず必死に求めたフェイの辛さを比べると、何方の方が辛いのかなんて一目瞭然であった。

「お母さんのこと、好き?」
「…………」

 その問いに、フェイは答えない。数秒の沈黙のあと、再びまた日向のような声が子守歌を紡いだ。