水仙の顔
一、
弟に恋人ができた。
ふたりで撮ったプリクラを見せてもらったが、ブラウンの髪をきれいに巻いた可愛い女の子だった。
大学のサークルで出逢ったそうだ。俺も大学に通っていたら、恋人のひとりやふたり、できていたのだろうか。
俺は春という名前で、弟は慎。俺たちは双子だ。高校まではなにをするにもふたり一緒で、俺も慎もそれがあたりまえだった。
慎は純粋なまま育ったが、ある時から俺は、いつもふたり一緒にいることに違和感をおぼえていた。俺と慎は同じ顔をしている。双子だから当然のことだ。二卵性でもない。
顔も能力も同じ、俺たちがなにをやっても同じ結果がふたつ転がってくるのみ。俺は、そのことに飽きていた。これからこのまま先も、同じ顔をした慎と同じことをして生きてゆくのか。
それではあまりにもつまらない生涯だ。
そこで俺は、慎を双子の弟ではなく、もうひとりの自分として考えることにした。同じ顔で同じ能力の人間が、まったく別の人生を歩んだらどうなるのか。
だから俺は高校を卒業したら社会人に、慎は大学生になった。もしかして慎も同じように考えていたらどうしようかと思ったが、なんの不満も漏らさず、慎は大学へと進学してくれた。
二、
「春、次はあの店へ行ってみよう」
慎が俺の袖を引っぱり、洒落た香水店を指差す。若者の往来が多い、休日の街中。俺は慎に連れられ、彼女へのプレゼントを買いに来ている。
なぜ俺が付き合わされているのか。もし俺にも恋人ができていたなら、こうして慎を連れてプレゼントを買いに来ていたのだろうか。
それよりも、俺と慎は同じなのだから、慎と同じタイミングで俺にも恋人ができてもいいはずじゃないか。
「俺の彼女じゃなくて、お前の彼女だろう。お前がひとりで買いに行けよ。むしろ彼女と買い物に行け。俺はお前の彼女じゃない」
俺は慎が引っぱる方向とは逆へ足を運ぶ。双子なのに意見が食い違う。これもふたりの環境が変わったからだろうか。
「ちぇ。兄ちゃんのケチ! そんなんだからモテないんだよ」
こういう時だけ俺を兄ちゃん≠ニ呼ぶ。こんなんだからモテるのだろうか。
さらに俺へ文句を言おうとしているところで、慎のスマートフォンが鳴った。電話だ。彼女とお揃いだというクマのストラップが揺れる。
慎はなにか言いかけた口を真一文字に結び、電話の相手を確認する。
しかめっ面が瞬時に緩んだところを見ると、愛しの彼女だろう。慎は躊躇うことなく通話し始め、引っぱっていた俺の袖を離した。
声高く楽しげに話す慎をその場に残し、俺は近くの公園へと向かった。慎に連れまわされ歩き疲れた。とにかく休める場所が欲しかった。
生まれてから高校卒業するまで同じ環境で育ってきたのに、たった数ヶ月でこうも食い違うなんて、俺たちは本当に同じ顔をした別の人間じゃないかと、本気で思えてきた。
もうひとりの自分などではなく、まったく別の人物だと。
公園内を見まわすと、すこしくたびれた噴水を見つけた。あの淵でいい。座りたい。
噴水は時間で噴きあがるらしく、いまはおとなしくしている。
ひんやりする石の淵へ腰かけ、水面に映る自分の顔を見やる。
慎と同じ顔。
慎が俺と同じ顔なのか、俺が慎と同じ顔なのか。
こうやって、なにかに反射する自分の顔を見つめることが、最近の癖になっていた。
三、
「彼女ができたんだ」
慎のこの嬉しそうな声は、いまでも覚えている。これを聞かされた晩から、俺は自分の顔を意識して見るようになった。
同じ顔なのに、女はどうして慎を選んだのか。もし俺が慎のフリをして大学に潜り込んだとしたら、その女は気がつくのか。
そもそも、その女はなにを基準に慎を選んだのか。顔か? 性格か? 頭脳か? こんなことを考えながら自分の顔をひたすらに見つめる。
慎と俺の違いはなんだろうか。そして、自分のだけではなく、慎の顔も見つめるようになってしまった。
いつしか、女への疑問が慎への感情へ変わっていっていることに、俺は気がついてしまった。慎の仕草ひとつ逃さないように、常に意識してしまう。
大学での慎はどんな感じなのだろう。女とどんなことをして過ごすのだろう。俺のこの純粋に邪な思いに、慎が気がついてしまわないか。
――慎は、俺なんかよりも大好きな彼女で頭がいっぱいのようだ。
胸をなでおろして良いものか、嫉妬の炎を燃やすべきなのか。
気がつけば俺は、同じ顔に見入りながら誰かに問いかけてばかりいた。
四、
楽しそうにしている慎を見ていられるのは嬉しいが、俺は楽しくない。
俺がこんなに慎のことを考えているのだから、慎も俺のことを考えて誰かに問いかけたり悩んだりすればいいのに。
いま水面に映っているのは、うじうじと面倒な俺――春か、俺の好きな慎か。同じ顔をした別人か、血の繋がった双子か、もうひとりの自分か。
水面の顔が、苦痛そうに歪んだ。
驚いて顔をあげると、冷ややかな風と小さな水飛沫が頬を撫でた。時間がきたのか、噴水が噴きあがっていた。
背後に人の気配を感じ振り返ると、見知らぬ中年の男が立っていた。
短めの黒髪には白いものが幾筋か混じり、目尻に皺を寄せた物腰の柔らかそうな男だった。
「まるでナルキッソスだね」
声だけは、若々しかった。
こいつはなにを言っているんだ。
俺が訝しんでいると、男は水面を指差した。噴水はまだあがっている。
「自分に見惚れていたね」
急に顔をが熱くなるを感じた。俺が同じ顔を見つめながら想いを馳せているところを、まったく知らない誰かに見られてしまった。
その恥ずかしさを誤魔化したくて俺は声を荒げる。
「あなたの言う通りだな! 自分と同じ顔の奴を好きになるなんて、哀れなナルキッソスそのものだ!」
いつぞや高校の図書室で読んだギリシャ神話がこんなところで役に立つとは思わなかった。
「ありゃ。これは本当に水辺に咲く水仙だったか」
男の穏やかな微笑が、俺を嘲笑しているようで胸糞悪かった。こいつになにが判る。
「なにが判る」
思わず声が出ていた。言うつもりはなかった。
「なにも判らないよ」
男はなおも穏やかで、まったりとした空気をまとっている。
「なにも判らないから、ぼくに聞かせて。そうすれば、判るかもしれないから」
まったりとした空気に飲まれ、俺は胸の内を決壊させていた。
五、
男は静かに、時折、優しく頷いて俺の話を聞いてくれた。名も知らない中年の男が、俺の話を。
自分と同じ顔をした双子の弟――同じ顔をした別の人間に想いを寄せているこんな奴の話を誠実に聞いてくれた。
心のなかではどんなことを思ったのか知らないが、誠実に聞いてくれているように見えた。
「ごめんなさい、なんか。俺、気持ち悪いですよね」
今日、幾度めかの噴水があがる。
「気持ち悪くなんかないさ。美しいじゃないか」
「でも、こんな想いを兄貴が持ってるなんて知ったら、慎はどう思うか‥‥。嫌われたら、俺はどうしたら‥‥」
嫌われたくない、気づかれたくない。
「君は、慎くんとどうにかなりたいってわけじゃあないんだろう?」
「当然です!」
「だったら良いじゃないか」
「なにを‥‥」
判ったふうに。と言いかけた時、男が俺の左手を掴んだ。
そして、噴水のなかへ勢いよく引っぱり込んだ。なにをされたのか、男がなにを思ってこんなことをしたのか判らない。
男も着ているものを濡らしながら、掴んだ俺の手を水中でさらに強く握る。
「どう、冷たいかい?」
うん、と頷くと、男はにっこりと笑って自分の手だけを水中から出した。俺の手はまだ水のなかにある。
「水を冷たいと感じるように、君はそのままでいいんだ。水が冷たいように、君の慎くんへの想いもあたりまえなんだ。いいかい? たとえ同じ顔だとしてもぼくは君のことを好きになるよ思うよ――」
水辺の水仙さん、という男の声と同時に、慎の声が聴こえた。
「春!」
慎が香水店の紙袋を片手に走ってきた。ハッとして男に向きなおると、目の前には誰もいなかった。ただ、俺の手が濡れているだけ。
「置いてくなんて非道いよ」
「ごめん」
「でも、どこにいるかすぐに判ったよ」
「え」
「双子だもの。どんなこと考えてるかなんて、僕にはお見通しだよ」
「そう、か‥‥」
「もう、僕を置いてかないでよね。兄ちゃん」
こういう時だけ俺を兄ちゃん≠ニ呼ぶ。愛しい愛しい俺の弟。
了
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意図的パンダ