(本所不思議夜話ほんじょふしぎやわ)





(illustration:奈月彩人)

  一、

 夜半の江戸の町――

 白く大きな月が空に浮いている。

 吹く風は、秋のものになってきている。

 (留蔵とめぞう)は、このあたりでは名の知れた役者であった。

 眉目秀麗、二枚目の留蔵は女に困ることはなかったが、この留蔵には狙っている美しい娘がいた。

 お(こま)という、役者たちの身のまわりを世話する娘であった。

 お駒は、最近、留蔵のいる芝居小屋に入ってきたばかりで、若手の役者の世話をしていたのだが、留蔵が強引に自分の世話係にしてしまった。

 留蔵には妻がいない。

 お駒には夫がいない。

 留蔵はお駒に、

「おれの妻になってくれないか」

 と、幾度も迫るが、お駒は首をたてに振らない。

 お駒は、最初に自分が世話をしていた若手の役者に恋心を抱いていたのだ。

 留蔵はお駒のその想いを知っていた。

 知っていたからこそ、このお駒という美しい娘を自分のものにしたいと思ったのだった。

 隙を狙い、手籠めにしてしまおうと謀ったことがあるが、その場にひとが来たり、お駒があまりにも騒いだりと、どうもうまくゆかない。

 酒で眠らせてしまおうか、とも考えたが、お駒は常に警戒して、留蔵の前では酒を飲もうとしない。

 ついに痺れを切らした留蔵は、ふいに出かけたお駒のあとを追った。



  二、

 夜半の江戸の町。

 白く大きな月が空に浮いている。

 頬を撫でる風は秋の香がする。

 (あし)の葉が生い茂る、とある堀の傍まで来たとき、留蔵はお駒の背後に迫り、その華奢な腕をつかんだ。

「お駒」

「留蔵さん‥‥!」

「お駒、どうしておれじゃいけないんだ。あんな若造のどこがいいんだ」

 若造――お駒が慕っている若手の役者のことである。

 腕をつかむ手に力がこもる。

「痛い、離して留蔵さん」

 お駒は、留蔵の手から逃れようとするが、留蔵は逃がさない。

「今宵だって、おれに黙ってあの若造に逢いにゆくのだろう?」

「あなたには関係ありません」

 お駒は、きっ、と留蔵を睨む。

「お駒、いい加減にしろ」

「あなたがいい加減にして!」

 お駒は留蔵の頬を叩いた。

 乾いた音が響く。

 堀の傍、乾いた音が(水面みなも)にこだまする。

「―――」

 一瞬のことに、留蔵は声が出せなかった。

 その隙をついて、お駒は留蔵の手から逃れた。

「あ! 待て!」

 お駒に頬を叩かれたことと、逃げられたことに、留蔵は頭に血をのぼらせた。

 凄まじい剣幕でお駒を追い、今度は肩をつかんだ。

「てめぇ、なにしやがんだ!」

 お駒の白い頬を殴る。

 鈍い音とともに、お駒はその場に倒れる。

「おれの世話ができることに感謝しやがれ!」

 留蔵はお駒に馬乗りになり、

「この手か! この手がおれを叩きやがったのか!」

 さきほど自分を叩いた細い手をつかむ。

「この手が!」

 おもむろに、自分の懐に手を入れ、短刀を取り出した。

 その刀を見たお駒は、

「ひっ」

 と小さく啼いた。

「この手が!」

 ひとつ叫ぶと、留蔵は短刀をお駒の細く白い手首にあてがった。

 そして――

「こうしてやる!」

 手首を切り落としてしまった。

 細いお駒の手首など、造作もなかった。

 顔と着物に返り血を浴び、留蔵は立ちあがる。

 恐怖と痛みで声が出ないお駒を、冷めた眼で見おろす。

 ふいに、お駒の脚を見る。

「この、脚も――」

 留蔵は、下駄の脱げた片方の足首をぎゅっとつかんだ。

「あ、あ、留蔵さ――」

 足首をつかんだ際、地に放られた自分の手首を眼で追う。

 そして、気がついたように留蔵を見る。

「この脚が、この脚があるからお前はおれから逃げるんだ! あの若造のもとへ行ってしまうんだ! この脚がなければ!」

「留蔵さん、やめて!」

刃物と骨がぶつかる厭な音。

 必死の制止も虚しく、お駒の足首も切り落とされてしまった。 

「いやあああああああ」

 お駒は狂ったように叫ぶ。

 右手首と右足首を切断されたお駒は、傷口から血をあたりにまき散らし、留蔵から離れようとする。

 留蔵は、足首もその場に放り、ゆっくりとお駒に迫る。

 一歩、近づく。

 にじり、逃げる。

 一歩、近づく。

 にじり、逃げる。

 髪をふり乱し、顔を青白くさせ、着物を血に染めたお駒。

 眼の前の血まみれの女を見おろし、留蔵は、

「醜い」

 ぼそりとつぶやいた。



  三、

 空に浮いていた月に、雲がかかった。

 お駒は死んでいた。

 あたり一面を血で汚し、もがき苦しんだ様子がそこに刻まれている。

 留蔵は、お駒の屍を傍の堀へ投げ捨てた。

 切り取った手首と足首も、同じようにその堀へ捨てた。



  四、

 その後、留蔵の身に奇妙なことが起こるようになった。

 お駒を殺した堀は、家から芝居小屋へゆくのに必ず通る道にある。

 その堀の傍を通ろうとすると、

 おいてけ‥‥

 おいてけ‥‥

 と、不気味な声がする。

 女の声である。

 この声は留蔵にしか聴こえないらしく、しかも、夜半にしか聴こえない。

 そして、よく聴くと、

 おいてけ‥‥ わたしの脚‥‥

 おいてけ‥‥ わたしの脚‥‥

 女の声が追いかけてくる。

 声の正体が誰なのか、留蔵には判った。

 お駒である。

 この堀をやっとの思いでやり過ごし、留蔵は家に帰ってきた。

 背筋に冷たいものを走らせながら、布団にもぐる。

 行燈の明かりを消す。

 すると、天井を、

 とんとん、

 とんとん、

 と、なにか軽いものが走りまわる音がしたかと思うと、暗闇のどこからともなく血まみれの細い足が、す、と現れる。

 脚を洗え‥‥

 脚を洗え‥‥

 かすかに震える女の声が聴こえる。

 お駒だ。

 脚を洗え‥‥ 血を洗え‥‥

 脚を洗え‥‥ 血を洗え‥‥

 そのうちに、手首と足首が、ぼとりぼとり、と天井が降ってくる。

 留蔵の布団の上を手首と足首が転がる。

 あまりの恐怖に、布団を頭まで被るが、お駒の恨みの声は頭のなかに直接、響いてくる。

「お駒、お駒――許してくれ、お駒――」

 留蔵は布団のなかで震える。

 次第に、

 脚を洗え‥‥ 血を洗え‥‥

 という声とともに、堀で聴こえた、

 おいてけ‥‥ わたしの脚を‥‥

 という声も、しずしずと降ってくる。

 その声から逃げるように、留蔵は布団をはね除け、家の外に飛び出した。

 おいてけ‥‥

 脚を洗え‥‥

 わたしの脚を‥‥

 血を洗え‥‥

 声が追いかけてくる。

 留蔵は、(くだん)の堀までやってきた。

 息を切らして堀に向かって叫ぶ。

「お駒、お駒――許してくれぇ!」

 一瞬、水面が赤く揺らいだ気がした。



  五、

 翌年から、件の堀の周囲に生い茂る葦は、片方の葉しか付けなくなり、月が白く美しい秋のとある晩には、水面の一部だけが赤く染まるようになった。







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意図的パンダ