超遠距離恋愛




 「結婚おめでとう」

 祥太の口から出てきたのは、己の心とは反する言葉であった。

 夏が終わり、秋が訪れていた。

 頬を撫でる風が、冷たい。

 地面を焦がすように照っていた太陽は、いまではおとなしく空に浮かんでいる。

 今日、玲子は許嫁と結婚する。

 三つ歳上の原瀬という男だった。

 原瀬は二十八歳という若さながら、会社を興すことにした。

 その祝いもかねて、挙式しようということであった。

 玲子は保育士として働いていたが、仕事を辞め、家庭に入ることになる。

 披露宴が終わり、新郎新婦とより親しい者たちだけで飲むことになった。

 そこで、祥太は花嫁となった玲子にお祝いの言葉をかけたのである。

 「ありがとう」

 玲子は素直に喜ぶ。

 玲子の嬉しそうな笑顔が、祥太の胸には痛い。

 ずき、と胸が軋むのが自分でも判る。

 祥太は、ビールが注がれたグラスを強く握りしめる。

 ――この人の笑顔は、ぼくのものにならない

 小さなテーブルの傍らに立つ玲子と祥太。

 ほかの者は思い思いに飲んだり喋ったりしている。

 時折、玲子の同僚や友人が声をかけてくるが、それもひと通り済んでいた。

 「みんな、このドレスを褒めてくれるの。嬉しいわ」

 玲子は自分が着ている純白のドレスの裾をつまんで言う。

 ――やめてくれ。優しい顔をしないでくれ。優しい声を出さないでくれ

 「飲まないの?」

 玲子は、減っていない祥太のビールを見て言う。

 「え、あぁ――」

 「ビール、飲めるようになった、って嬉しそうに言ってたじゃない」

 「うん――」

 そこへ、両手にワイングラスを持った原瀬がやって来た。赤いワインが揺れている。

 「やぁ、祥太くん。あれ、飲んでないねぇ」

 原瀬は、ワインのひとつを玲子に渡しながら祥太を見て言った。

 「あっ!」

 玲子がワインを受け取り損ね、純白のドレスに真っ赤な染みをつくった。

 グラスが音を立てて割れる。

 「大変! 染みになっちゃう!」

 玲子は慌ててハンカチでドレスを叩く。

 「平気さ、玲子。そんなドレス、おれがいくらでも買ってやるよ」

 原瀬が言った。

 瞬間、祥太が原瀬を睨む。

 「でも――」

 玲子は、祥太をちらりと見て、すぐに視線を原瀬に向けて言った。

 「控室にまだドレスがある。さ、着替えておいで」

 「えぇ――」

 玲子がその場を辞する時、原瀬が、

 「お騒がせしました、みなさん。お気になさらず。さ、飲んでください」

 と、会場内によく通る声で言った。

 グラスの割れた音になにごとかと注目していた人々は、原瀬の言葉を聞いてそれぞれの輪の中へ戻っていった。

 原瀬はボーイに声をかけ、割れたグラスを片づけるように命じた。

 祥太は、原瀬を睨むのをやめ、自分のビールを見つめていた。

 「悔しいか?」

 低い声でふいに原瀬が言った。

 「え?」

 顔をあげる祥太。

 「悔しいだろうねぇ。玲子が嬉しそうに言ってたよ、あの純白のドレス。祥太くんが選んでくれたんだって?」

 「―――」

 「黙ることないじゃないか」

 「――わざとですか」

 祥太は声を押し殺して言った。

 「わざと? なにが」

 「ワインを、こぼしたの」

 「まさか。偶然だろう」

 ははっ、と乾いた声で原瀬は笑う。

 「君も、早く良い人を見つけたまえ。大学を出たらおれの会社に入るといい。美人ばかり雇ってあげよう、祥太くんのために。選び放題さ」

 原瀬は口の端をあげて厭らしく笑う。

 「遠慮しておきます――」

 「優遇してあげるよ?」

 原瀬は祥太と肩を並べ、その肩に手をまわした。

 「ねぇ、おれのこと、嫌いだよね祥太くん」

 「―――」

 祥太は視線を逸らす。

 「はっきり言うとね、おれは祥太くんのこと、嫌いだよ」

 言って、原瀬はワインとひとくち飲む。

 ワインを飲みこむ喉を見つめ、祥太は黙っている。

 「玲子のやつ、おれとふたりきりの時でも君の話ばっかりするんだよね。夫のおれのことよりも楽しそうに話すんだよ‥‥それがとっても厭でね」

 「―――」

 祥太は黙っている。

 「君らのさぁ、関係はなんなの」

 祥太の肩をきつくつかむ。

 「恋人? 夫婦? 違うよねぇ」

 「――姉さんのことを悪く言うな」

  ぼそりと祥太が言った。

 低く短く言ったため、聴こえるか聴こえないかであったが、原瀬の耳にはしっかりと届いていた。

 原瀬はにやり、として、

 「そうだよねぇ。玲子と君は血の繋がった姉弟だ。戸籍をひっくり返したってその事実は揺るがない。そうだろ?」

 原瀬はワインを飲み干し、近くのテーブルへ空いたグラスを置いた。

 「知ってるんだよ、おれ。ちょっと前にさ、玲子を酔わせて訊いたんだよ。そんなに祥太くんのことが好きなの? どうしてなの? って」

 ここで原瀬は、祥太の持っていたビールを奪い、それを飲み干した。

 「う、ぬるい」

 すこし咳き込み、原瀬は話を続ける。

 「玲子、なんて言ったと思う?」

 祥太の顔を覗き込む。

 祥太は原瀬の視線から逃れる。

 「自分で直接、訊いてきなよ。そのほうが良い。おれ、このままだと一生、祥太くんに恨まれたままで終わりそうで。それはどうも居心地悪いじゃない、義兄としてさ」

 ビールのグラスもテーブルに置き、原瀬は祥太の背を押した。

 「いいよ、一晩だけ。玲子を好きなようにすればいい。でも、一晩だけ。今日を逃したらチャンスは無いよ、二度とね」

 「なにを言って‥‥」

 「夫のおれが許可してるんだ。たった一晩だけ。祥太くんの想いの丈を言うもいいし、なにもしないでもいいし。今夜だけは玲子は君のものだよ」

 原瀬は冷笑した。




 決して、届かない。

 届いても、越せない。

 越しては、いけない。

 その壁が、ぼくらの間にはあるんだ。

 家族だからこそ、姉弟だからこそ、侵していけないものがある。

 家族の絆、だけでは言い表せないものが、ぼくらの間にはある。

 常に傍に居られたからこそ、届かない越せない。

 でも、ぼくはもうどこにも戻れない。

 家族にも、姉弟にも。

 あの晩ぼくは、侵してはいけないものを侵した。

 届かせてしまった。

 越してしまった。

 その壁が、音を立てて崩れた。

 あの、ワイングラスのように――



 了





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意図的パンダ