私とあの男が顔を会わすことを此処にいる兵士たちの大半は望んでいないだろう。
 調査兵団に関わらず、憲兵団や駐屯兵団、訓練兵たちの耳にまで入っているらしい。私とあの男がとんでもなく犬猿の仲であると。
 犬猿の仲とはなんともかわいらしい表現である、そんな噂を聞いた当初は笑ってしまった。

 犬猿? なんてあまくて生ぬるい。
 かつて東洋から持ち込まれたそのものの例えは、決して私とあの男の関係を表すにはふさわしくなく、また易しすぎた。

 人類最強と謳われる兵士長と、少しばかり実力のある一介の女兵士。
 会えば睨み合い口を開けば嫌悪感を隠しもしない言葉の応酬、果ては殴る蹴るの暴力に至るまで繰り広げられるその空間に、耐えられる者がそういるであろうか。
 二人に慣れた者であればまたやっている、と呆れ溜息をつく。
 それそこ知っている者は自分が巻き添えの被害に遭わぬように素早くその場を退散するか、はらはらしながら見守るか、二人を止めることのできる人物を探しに行く。
 新兵やまだその場面に耐性のない者は固まって動くことさえできず、ただただ当事者でもないのに怯え震えてまともな思考も働かないことだろう。

 もう何度もあの男と対面しながら視界の端に入れてきたその光景に、かわいそうなことをしているとは思う。
 迷惑を掛けていることも、指揮に関わることも、またあの男の評判や部下からの信頼を左右しかねないことも自覚している。
 けれど誰も止めはしない。
 ナナバやゲルガーやモブリットは仕方ないとあの三人のうち誰かを呼びに行く。
 エルヴィン団長もハンジ分隊長もミケ分隊長も、ギリギリまで声すら掛けない。

 そうやって繰り返される私とあの男のやり取りに何の意味が有るのか。
 粗方を理解してるだろう彼らはそれを口にはせず、いつもたった一言を私に告げる。「すまない」と。




「ぐふッ、う…」


 衝撃が腹に落ちる。一瞬のもの凄い速さで胃から空気が駆け上がる感覚だ。
 喉まできたそれは途中で肺をも圧迫し、腹に鉛を何度も落とされるような波を残している。


「オイ……もうギブアップか?」
「あ……はッ……」
「威勢よく人に噛みついてたのはどいつだったか……なぁナマエ」


 誰かがひいっと短く悲鳴をあげたのを耳が拾った。
 無遠慮に掴み上げられた髪の毛に、皮膚が引っ張られチリチリとした痛みを感じる。何本か抜けるかちぎれるかしてしまったのではないだろうか。
 そして自身の指に絡みついた私の髪を見て汚いと言うのだ、この男は。
 またその容赦のない蹴りをくれるのだろう。

 見てられないなら見なければいいのに、と思ってからそうか彼らはつい数ヶ月前に入団したばかりの新兵だったと気づく。
 訓練の休憩中、偶然ばったりと出くわしてしまったことに心の中で舌打ちしたのだ。目の前の男は堂々と高い音を鳴らしたけれど。
 その音に数人の新兵がビクりと肩を上げてしまったのは仕方ないだろう。
 人類最強の舌打ち、ただでさえ鋭く射抜く目つきと不気味さを漂わせる隈、対面しているのは一人の女兵士。
 噂に聞いていた場面に自分が立っていると気づいてしまったのだから。


「う、せえ、よ………ッの、クズ野郎」


 息をするのも、ましてや喋ることすら苦しい。
 手加減をしているのだろうか、それとも私の身体が幾分か丈夫なのだろうか。
 何にせよこの男の蹴りを受けて気を失わずにいることはありがたくない。
 さっさと気絶してしまえばこの男の興味も消え、また傷を増やされることもなくその場に放置されて終わるというのに。

 けれどそうなることをこの男は望んでおらず、また私の役割もそれではなかった。
 この男の気が済むまで、悪態をつき、反抗し、足掻き、そして耐える。そうすることが私に課せられた役割。否、私自身が望んだこと。
 私の立場は、いつだって理不尽で、そして他の誰にも担うことのできないものだ。

 ありきたりだが髪を引っ張られ至近距離にある顔に向かい、口の中に溜まっていたものを吐き出す。
 男の左頬についた幾つかのそれはなんだか気味の悪い色をしていた。血だ。
 通りで口の中が微かに鉄臭いと思った。
 喉の手前辺りで広がっている味と、ねちゃりとするそれに眉を寄せるが、何発も蹴られれば当然かと諦める。


「……相変わらず躾のなってねぇ女だな」
「は、……そりゃ、どー……も、」
「誰が口を開いていいと言った」
「アンタの、許可がいるって……?リヴァイ、兵士長」


 凄みを増した雰囲気に気づいたのは果たして何人いただろう。
 くる。そう思ったのと顔を床に殴りつけられたのは同時だった。鼻どころか、顔全体に痛みが走る。
 もはや強烈すぎて熱く痺れたようにしか感じなくなってしまっている。
 つう、と口の中へ入り込んできた液体は言わずもがな。
 喉からも鼻からも集まった自分の血液が口の中にあるというのは気持ち悪い。

 鼻が曲がりはしないだろうか。そんな別次元のことを考える私の名とこの男の名を小さく呼ぶ声が聞こえた。
 だが今この男の行為を止めることは誰にも許されないのだから、どうすることもできやしない。
 いつの間にかこの場に来ていたハンジ分隊長が静かに左腕を上げて、兵士たちを制止する姿が見えた。


「汚ぇ……おいナマエ、お前は本当に……醜いな」


――ああ、アンタがな。
 その言葉は飲み込んだ。もう喋る気力がない。頭がぼうっとして、目が熱くてたまらなかった。

 反抗する言葉はおろか、男を批難する眼すらできない私を見て、舌打ちを一つ落とすと掴んでいた私の髪から手を離した。
 支えを失った頭は重力に従って落とされ、顔がまた床に強打した。


「ナマエ!」


 男が立ち去ってすぐにハンジ分隊長が駆け寄ってくる。
 仰向けに抱き起こされ、簡単に怪我の具合を確認されてから医務室へ運ぶと言う彼女に小さく頷く。
 血だらけのわたしを抱き上げると呆然と見ていた兵士たちの間をくぐり抜け、誰もいなくなった廊下を進む分隊長は、私の身体に負担がかからないように配慮してくださっているらしい。
 それでも急いでいる様子は伝わってきて、今まで何度も同じことを繰り返していたから対応にはお互い慣れているはずなのに、今回はそんなに酷いように見えるのだろうかと思った。


「ぶん、たいちょ…」
「もうすぐ着くから。あまり喋らないで」
「ない、てた………あのひと、ないてた」
「っナマエ…」


 力の入らない腕を持ち上げ、ハンジ分隊長のジャケットを掴む。
 その力さえ弱々しくて、情けない。


「服、脱がすよ」


 医務室に着いた途端、医師を押し退け一番奥のベッドへ私を横たわらせるとジャケットとベルト、シャツを順に脱がせていく。
 医師もこの対応には慣れていて、水の入った桶と布などを用意してまた自分の机に向かっていた。
 慎重に、けれど的確になされていく処置に、この人も手馴れたものだと黙って受け入れる。
 手当されていく箇所が増える度に、痛みが落ち着くような、冷静になっていく分自覚して悶えてしまうような、どっち付かずの気分になる。


「……ナマエ、ごめんね」
「……いつも、言いますね。分隊長も、みんなも」
「……そうだね。それしか言えない私たちを恨んでいいのに、君は情けない彼のことも、不甲斐ない私たちのことも、いつも受け入れてしまう」
「………」


 悲しそうに目を伏せる分隊長に、けれど私が逃げたらあの男は、この兵団はどうなると心の中で反論した。
 私が逃げれば、私のあとを担うのは誰になる。適任者はいない。私しか、いないのだ。
 それをこの人も、あの聡明な団長も、長身の分隊長も、わかっているからこそ、私という生贄を黙って男に捧げているというのに。
 その言葉は、勝手で狡い。


「いいんです、よ。さいしょに、手を出したのは私ですから……」


 初めて自分の班員を全員、死なせてしまった璧外調査のあと。
 団長でさえどうすることもできなかったあの時の男に、攻める言葉を浴びせ、追い込み、激情させ、暴力にまで持ち込ませたのは私だった。
 どこまでも名ばかりの兵士長と責め立て、批難した。
 あの男が自分で自分を否定する暇がないくらいに。
 そうすることで、私に自分を重ねるようになった。追い詰め汚い言葉を吐き、醜い姿を晒す私に自分を映した。
 それをさらに責め殴り、ぼろぼろにすることで発散される、簡単に言えばストレス。
 そうしなければ、あの男は普段の誰もが認識する“リヴァイ兵士長”でいられなかったのだ。
 だから私に求めるようになった。自分の醜い部分をつついて古傷を抉る存在を。
 そう仕向けたのは、紛れもなく私だ。


「…いつか死ぬよ。巨人じゃなくて、リヴァイに殺されて」
「…調査兵団の兵士としては、璧外で死ぬほうが誇りなんでしょうけど……私としては、彼に殺されるなら…いいですよ」
「――君は…本当に……」


 犬猿の仲だろうがなんだろうが、私とあの男の間で取る行動は決まっている。
 誰かがそう呼び始めた私たちの仲はあながち間違いではないけれど、その本意に気づく者はそういなくていい。
 寧ろ気づかないでと願う。
 私だけでいい。私だけが、あの男を追い詰める存在であればそれでいい。
 あの男が私に責められることを望んでいる。
 捻れひん曲がったこの間柄がもう修復が不可能でも構いやしないのだ。



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