両親が死んで、身寄りのなかったわたしはあの世界へ足を踏み入れた。行き場を失くした者たちが集う地下街へ。
 命を繋ぐ場所が、そこ以外に思いつかなかったからだ。
 地上は汚い。王族の孤児に対する対応は無関心と言っていい態度だった。機能している孤児院は片手で数えても余る程だろう。
 あの頃のわたしには判断ができなかった。だから話に聞いていただけの無法地帯である地下へ足を踏み入れたのだ。

 今となってはそれが正しかったのか間違いだったのかはどうでもいいけれど、生きる術を知らない子供がやすやすと身を寄せる場所でないと痛感する。開拓地で働く道も、兵士の卵となる道もあったというのに。
 けれどわたしは、あの地下街で一人の男に拾われて、小さく暗い穢れた世界で生きていた。

 男は決して優しくはなかった。地下街の人間に相応しい強さと非情さとを持っており、けれど頭の回転はなかなかに切れるもので、わたしと出会ったときには既に名の知れたゴロツキであったらしい。
 そう歳は離れていなかった男なだけに違和感があったけれど、納得するのにそう時間はかからなかった。

 そしてわたしは男の下で、この穢れた世界で生き抜く術を徹底的に叩き込まれた。男は多くを語らず、行動で仕込まれる術に何度血反吐を吐いたか。
 その度に汚いとさらに蹴られるものだから身体中痣だらけであったし、女として成長途中の身体に魅力なんてものは皆無だっただろう。
 すっかりわたしはそこら辺のゴロツキよりも力をつけていた。

 けれどそれでいい。この穢れた世界で生きるなら、この男の下で生きていくのであれば。女らしさなどいらない。強さがなければ、この男のそばにはいられないのだ。



「え……」
「俺たちは調査兵団に入る。ナマエ、お前は話を持ちかけてきたエルヴィンとやらの知り合いの家で暮らせ」
「なん、で……」
「こんな汚え場所よりかはマシだろうよ」

 淡々といつもと変わらない声色で告げる彼はわたしを見ない。使い古されたベッドに腰かけて紙を片手にそれを読んでいる。

 昨夜は帰りの遅かった彼らが何処で何をしていたのか、わたしは知らない。そんなことは今までに何度もあったし、大方の予想はつくからだ。
 けれど昨夜はわたしの予想以外の出来事もあったらしい。
 彼が、彼らが、調査兵団に入る、だなんて。

「っわたしも調査兵団に行く!!」
「うるせえ」

 まだ地上に住んでいた頃に聞いたことがある。幼かったからあまり記憶にはないけれど、壁の外へ出る兵士たちのこと。巨人の領域へ赴く、命知らずの者たち。
 その噂は地下にだって時たま流れてくるのだ。
 彼がその兵団に入る? 兵士になる? 死にに行くというのか。

 そんなこと、見過ごせるわけがない。命の恩人と言っても過言ではない彼が自ら死に近づくだなんて。
 否、そんなものは建前でしかない。わたしが離れたくないのだ。この人から。

 巨人を見たことは当然だが一度もない。外側の壁とは正反対の内側で生きていたわたしは、わたしたちは、本当に巨人が存在するのかと疑うことだってある。
 その驚異も、かつて人々の噂を耳にしただけだ。誰かの息子が、外から帰ってきた、腕だけ。そんな話を耳にしては、ああいるのか、と。そんな印象しかなかったというのに。

「どうして! わたしだって、あなたに鍛えられたんだからっ」
「聞き分けのねえガキだな。お前がついてきたってすぐ巨人の餌になるだようよ。俺だってどうなるか分からねえんだぞ」

 そう簡単にくたばる気はないがな。と嘲笑う彼はまだわたしと視線を合わせようとしない。
 今まで彼の言うことに逆らったことは数えるほどしかない。そう躾けられたからだ。
 けれど今回は、これだけは、例え歯が折れる蹴りが降ろうと内蔵が潰れるほどの蹴りを食らおうが引く気は微塵もない。

「なら尚更、わたしも連れてって!」
「…しつけえ」
「ファーランやイザベルが行くのにわたしだけ残るなんて嫌!」
「お前の意見は聞いてない」
「……あなたに拾われた命なら、死ぬまであなたの為に使いたい」
「いらねえよ、んなモン」
「リヴァイ!!」

 置いていかれる。彼と離れてしまう。
 合わない視線に焦りが募る。彼は本当に、わたしをここで切り離す気でいる。

 ベッドとドア、空いていた距離を詰め、ベッドに腰掛ける彼の前に膝をつく。
 脚を組んで紙を読んでいた彼の顔を下から覗き込むと、いつもと何ら変わりない表情がそこにあった。
 鬱陶しいと舌打ちする彼にさらに詰め寄る。

 どうして。力をつけてからは、何をするにも放任的だった。どこでゴロツキと暴れてこようが、盗みをしようが、誰かを傷つけようが、寧ろ行けと背中を蹴られたことだって山ほどあるのに。
 それがここで生きていく術の一つだったから、彼はわたしに何でも教え込んだ。
 人の殴り方、拘束の仕方、隙のつき方、攻め方、逃げ方、殺し方。
 なんだって受け入れたし覚えた。全てを実際に使った。なのに何故。

「いいから言うことを聞け。てめえも女なんだから、いつまでもこんなとこにいるんじゃねえよ」
「…………」

 彼の口からそんなことを聞くとは思いもしなかった。
 地下街で生きる女の末路はたかが知れている。標的にした人物に返り討ちに遭うか、娼婦となり女として使えなくなるまで身体をボロボロにして死ぬか、薄汚い貴族に買われて飽きるまで好きに使われるか、屈辱や恥辱に耐えていかなければならない。

 男も女も関係ないのだ。地下街は。一度入ってしまえば簡単に地上に出ることなどできはしない。本当の意味で地上に出るなど、不可能なのだ。
 だからお前はこの機を逃すなと、彼は言う。
 自分は地獄から地獄へ橋渡りをするのに。

 
「――おい」

 ベッドサイドの引き出しにしまってあるハサミを取り出す。これも道端に捨てられていた汚いもので、錆びついていた刃を研いだものの、満足に紙も切れやしない。その役割をまっとうに果たすこともできないでいる。
 そのハサミで鷲掴みにした自分の髪を切る。躊躇などしなかった。この地へ足を踏み入れてから一度も切ったことのなかったそれが、床に散らばる。
 ああ、これも汚いと叱られるんだろう。

「今さらそんなこと、言わないで」
「…………」
「わたしは、あなたと共にいられるなら…女なんていらない」

 そのために強さを手に入れたのに。ここへ来て今さら彼がそんなことを理由に出すとは思いもしなかった。
 此処で生きて行くには浅ましく女の武器を振り撒くか、男以上に力を付けるかしかわたしに道はなかった。
 わたしは彼に拾われて後者を選んだのだ。
 優しくなんてないくせに、やさしいひと。

「……馬鹿野郎が」

 ようやくわたしを見つめてくれた瞳には、呆れの色が浮かんでいた。



まばゆいすべて/130910
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