「私、結婚するの」


 そう言った彼女は告白することに緊張と照れがあったのか、目を合わせたあとはにかんで艶のある髪を指でいじった。
 おめでとう、と瞬時にありきたりな祝福の言葉が出てきた自分を心底褒めてやりたい。
 彼女が結婚するということは、すなわちわたしの完全なる失恋を意味していたのだ。

 咄嗟に震える指先を握りしめたわたしに彼女は気づいていない。もう何度も聞いてきた惚気話というやつを始めた彼女に、心が冷えていくのを感じた。
 わたしは何も行動しなかった。それはわたしが好きになった人が、もとより友人の恋人であったからに他ならない。
 友人とはいい関係を築いてきた。それが壊れるかもと恐れてただ思うだけに徹していたから、そこまで友人の彼と関わったことはない。
 ただふとした仕草、彼女を見つめる瞳、表情がいいなと。そんな風に見てもらえる彼女を羨ましいなと。

 ティーンじゃあるまいに、わたしの淡い恋は終わった。


***


「おっと、悪ィな」

 行きつけの酒場のすみっこで飲んだくれてるわたしのテーブルにぶつかってきた男が平謝りしたのを一瞥して、ジョッキを傾ける。
 なんとも愛想の悪い女だ。わたしなら内心で舌打ちでもして立ち去る。
 さっさと先程から騒いでいる仲間のテーブルに戻ればいいものを、男は何故か空いている隣のイスに腰を下ろした。


「なに辛気臭ェ顔で飲んでるんだ? 酒はもっとハッピーに飲むもんだろ」


 日に焼けた肌にドレッドヘアーを頭の高い位置で一つに纏めた、ここいらじゃ見かけない男。
 アルコールと油のにおいに混じって潮の薫りがするのは服からか。所々汚れているが、身につけている装飾品はなかなかに上等である。
 何より何処かで見たことがある、と既視感を覚える男の顔だったが、酒の席でそれを口にするのは安易なナンパと捉えられる可能性が高いため黙った。
 変わりにじっと観察しようとすると唐突に男の兄の自慢話が始まったので、下手な絡みよりマシだろうと好きにさせた。
 ガヤガヤといつもより騒がしい店内に、男の声が加わる。


「で、お前のアンハッピーの理由はなんだ?」

 好きなだけ兄のエピソードを話し終えたのか急に話題を振られ、ジョッキを傾けたままキョトンとしてしまう。
 男の兄が嫉妬に狂って海王類を海の上で丸焦げにした話を冗談でしょうと聞き流していたため反応が遅れた。
 この男、最初からそれを聞き出す目的だったのか。物好きめ。


「なんでもないわよ。ただ同僚が結婚するって聞いて、ますますわたしの余り物感が出るなあって」


 重たいジョッキをテーブルに置いて、側面に出ている水気を指でなぞる。

「おいおい、お前いくつだよ」

 呆れたような声が降ってきた。
 女に年齢を尋ねるとはなんて野郎だ。デリカシーって言葉を叩き込んでやろうか。

 幾分か歳上だろう男にヤケになりながら答えると「まだこれからじゃねェか」なんて、派手な見た目からは想像つかない反応で不意をつかれた。
 確かに年齢だけならそうでも、わたしは失恋もしたのだ。残念ながらしばらく恋愛は療養期間に入るだろう。


「なァ」


 男の手が肩に回る。グッと近づいた距離により一層、潮の薫りが鼻孔を擽る。
 勢い良く血液が胎内を巡りだす。落ち着けわたし。


「ドレッドヘアーの男なんて……どうだ?」
「……は?」


 言われた意味を直ぐ様に理解できなかった。
 思わずじっと、男の琥珀色の瞳を見つめるがその真意はわからない。

 先程まで喉を潤していたはずのアルコールで焼けてしまいそうだ。
 何か言おうと、乾いた口を開いた。


「おっとすまねェ、兄上が妬いちまう」

 しかし呆気なく解放された肩に、もとの位置に戻った男の距離。

「……は?」

 もう一度こぼれたのは、わたしの髪をくるくると遊ぶ男に対して怒りを感じたからだ。
 そしてその怒りはじわじわとわたしを侵食した。


「兄上自慢も大概にしなさいよ、このッブラコン!!」
「ハハッ、オレの兄上は最強で、バウンティーズは最高だからな」


 ありえない。失恋したその日のうちに、傷心とはいえ一瞬でも揺さぶられるなんて。
 明らかにからかいを含んだその手に、言葉に、何よりわたしを見つめる瞳に、僅かな熱を見つけ動揺する。

 この男はいわゆる今日の相手を探しているだけだ。
 酒の席のネタにされるのか夜に溶け込まれるのかは分からないが、狙いを定められたのは確実。冗談じゃない。


「失礼するわ」

 ほろ酔い気分も冷めて代金をテーブルに叩きつけ店を出る。後ろから悪びれもしない声がついてくる。


「なァ」
「……」
「なァ」


 足早に、仕事終わりの疲れた身体にムチ打ってるというのに、背後の足音は一定のまま、掛けられる低い声には疲れもなにも感じない。
 それがさらにわたしの機嫌を左右した。


「ついてこないでよストーカー! 海軍に連絡するわよ!」

 からかわれ、おまけにしつこい男に苛ついた、と言えば当然だ。けれどそれは禁句だった。

 空気がひんやりと変化した、とすぐに気づけなかった。

「いッ」

 何が起きたのかわからなかった。
 気がつけば裏路地の塀に両手を捕まれ抑えつけられ、ビリビリと肌を刺す空気に本能が身を震わせる。


「可愛い戯れならいいが……嬢ちゃん、そいつァいけねーな。ん?」

 目の前で鋭い琥珀色を細める男は捕食者だ。
 抑えつけられずとも蛇に睨まれた蛙のように動けない。
 酒場でのやり取りのなんて健気なことか。
 これは既視感のあるはずだ。そもそも言っていたじゃないか。この男は、いや、あの酒場にいた殆どの者が――


「バウンティー海賊団……」
「お? なァんだ、ちゃんと知ってんじゃねェか」


 どこの田舎娘かと思ったぜ、と結いつけていた片腕を解放して、まるで褒めるようにゆったりと頬を撫でてくる。
 かさついて荒れた手のひらがそのまま首筋へ降りていき、開いた胸元でつつ、と止まる。
 どくん、どくん、いっそう大きく鳴る鼓動は男にもその大きな手を通して伝わっているだろう。

「兄上も、バウンティーズも……おれも知らずに生きてるとは……嫉妬で狂っちまうところだった」

 まさに狂気。酒場の会話では気配すらしなかったのに、今垣間見えたそれは間違いなく海賊の姿だ。


「おれの名前、言えるな?」


 失恋して、恋愛は療養期間、でも命は惜しい。
 今度こそからからに乾いた口を開いて、目の前の捕食者を呼ぶ。


「……プライズ」
「……いい子だ」


 いやらしく己の唇を舐めたニヒルな笑みは、何度も見かけた手配書そっくりだった。
 嗚呼、なんて一日だ。



180911
ALICE+