HMAL FOREVER!
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BLa Saint-Valentin


研究室の扉を開けると甘ったるい匂いが直ぐに鼻を掠めた。
チョコレートの匂い。私は行儀悪くもスン、と鼻を鳴らす。この匂いは嫌いじゃない、どちらかというと好きな方だ。

「ああ、明日はバレンタインか」

納得して思わず呟けば、机に噛り付いていた男が不機嫌そうに顔を上げた。普段から無愛想な顔が更に酷い。この部屋に充満する甘い香りとは真逆の表情である。

「締め切りに追われている筈の人気作家の先生が何の用だ」
「短編が一つ片付いたんでな」

親友の顔を見に、とわざと茶化して言えば火村の眉間の皺がまた増えた。
机の上に山積みの色取り取りのチョコレートが眩しい。大抵の男なら羨ましくて地団駄を踏むところである筈なのに、この男はちっとも嬉しそうではない。

「お前チョコレートは嫌いやないやろうに」
「アリス、今の大学は何の時期か覚えているか」

そう問われて首を傾げる。二月の中旬といえば何だろうか。遥か昔の記憶を手繰れば、試験勉強とレポートに追われている時期だったかもしれないと思いつく。

「…テスト期間?」
「そう、つまりはこれは賄賂の意味合いもあるわけだ」

火村は憮然とした表情のまま山積みのチョコレートを指差した。その隣にはレポートが重ねられた箱。つまりはこれは、少しでも評価を上げようとする学生たちの苦し紛れの行為なわけか。

「いらないと言っているのに無理矢理に置いて行くんだ。男の学生もだぞ。こんな物で成績が左右されると本気で思っているのか理解に苦しむな」
「藁にもすがる思いってやつやろうなぁ」

苦笑するしかない。他の教授や講師ならまだしも、火村には賄賂など露ほども効果はないだろう。否、この男には寧ろ逆効果かも知れない。

「ま、全く貰えないよりはええんやないか」
「義理チョコどころか、ただの賄賂だぞ」

忌々しげに煙草に火を付ける火村に肩を竦め、私はチョコレートの山に近付いた。コンビニエンスストアで購入したかのような簡易的な物もあれば、なかなか豪華なラッピングの物もある。

「この中には本気のもあるやもしれんな」
「どうだか」
「ほら、これとかGODIVAやで?」

最近はコンビニエンスストアで売っている物もあるが、それでも大きい物は値段もはる筈だ。ダークブラウンのラッピングのそれは、恐らく火村に合わせて購入した物ではないかと思う。きっとこのチョコレートの贈り主は、火村を想って贈ったに違いない。
ズキン、と胸が痛んだ。
既に馴染みになった痛みに、私は火村に気付かれぬよう震えた息を吐く。
女性という性別なだけで火村にチョコレートを贈れる存在に嫉妬と憎しみを覚えた。そして同性でも教え子ならば賄賂という言い訳で贈れるのか。
私は一生この友人に、バレンタインデーにチョコレートを贈る機会などないと言うのに。

「GODIVAだからなんだって言うんだ」
「高級チョコレートとして有名やし、こんなん贈るのなら本命にやないの」

私は火村の方は見ずに、手にしたチョコレート包みをまた箱へと戻す。ズシっとした重みがまた想いの深さを表している気がした。
部屋の中に広がる甘いチョコレートの匂い。先程まで好きだったはずのその匂いに私は嫌悪を抱く。
後になって考えてみれば、きっとこの匂いのせいもあったのだろう。
どろどろと腹に溜まった醜い感情と、ずっとずっと鍵をかけて心の奥底に隠して来た感情が、ほんの少し重く分厚い扉から顔を出したのは。
私は気付けば言葉を発していた。そして目の前の男の表情を見て、いま自分が何と口走ったのかを反芻する。

私は今、

「君が好きや」

そう口にしたのだ。

それは決して大きな声量ではなかった。
なのにやけに部屋の中に響いた気がしたのは、世界が止まったかのような錯覚に陥ったせいか。
右手に煙草を持ったままの火村は、私のその言葉にぽかんと間抜けにも口を開けた。珍しいその表情に溜飲を下げる間も無く、私の血の気は引いてゆく。

「あ…」

誤魔化さなければ。
そう思ったが、目の前の男にはそんなものは通用しないことも分かっていた。
言葉も唐突過ぎる。今は突然愛の告白をするようなシチュエーションではなかったはずだ。
長年心に秘めていた想いは、たかが小娘達への嫉妬でいとも簡単に溢れ出てしまった。なんという事だろう。

「すまん」

私は震える声でそう告げ、火村の顔に驚きの表情以外が出る前にその場を逃げ出した。
無我夢中で廊下を駆け抜ける。学生達の喧騒が残る校舎を、足が縺れて転びそうになりながらも後にする。外の冷たい空気が頬に触れても私の頭は熱く煮えたままだった。
なんてことを。
なんてことを口にしたのか。
どこをどう歩いたのか、気付けば京都駅に着いていた。ろくに働かない頭でICカードを無意識に使い、いつものホームへと足が進む。
『君が好きや』だって?
今更、何を。
ずっと、十四年間ずっと、秘めてきた想いだった。それを、今更どうして。
挙句こうして言い逃げし、なんと見っともないことか。いい大人のすることではない。
…もう、友人には戻れぬだろう。
自分にとってこの恋は一生隠していかねばならぬものだった。それを吐露してしまった今、彼と育んできた友情も終わりだ。
アナウンスが電車の到着を告げる。ホームを滑り込んで来る電車と共に、吹き抜ける風が私の髪の毛を揺らす。
扉が開く。電車の中の人々が降り、待機していた新たな客が乗り込む。
私はそれをただ突っ立って見ていた。まるで木偶の坊のように足が動かない。
どこか遠くへ行きたい。そんなふうに思うのは現実から逃避したいせいか。
やがて発車を告げるベルと共に大阪へ向かう電車が動き出す。遠ざかる電車を尻目に、私の足は何故か反対方向へ行く電車のホームへ向かっていた。


ぼんやりと窓の外の風景を眺めていると富士山が見えて来る。この日本一有名な山を見ると、自分は今東京に向かっているのだなと思う。
財布や携帯電話や読みかけの文庫本が入っただけのバッグを手にしての逃避行。
私は何故か大阪行きの電車には乗らず、こうして反対方向の新幹線に乗ってしまった。思えば東京へ行くのは随分と久し振りだ。原稿を書き終えた解放感もあり、先程まで絶望していたのが嘘のように今の私は言いようのない高揚感を感じていた。
私は今、逃亡犯なのだ。片思いの相手から逃げ出した、哀れな逃亡犯。
弾みで出た恋心の告白はもう取り返せない。聡い火村のことだ、今更何を取り繕っても無駄であろう。
ならこれは逃避行も兼ねた失恋旅行と言えるのかもしれない。
取り敢えず東京へ着いたら、何か美味しいものでも食べよう。そして夜は片桐さんへ連絡をして、酒を飲みに行くのもいい。今日は少し豪華なホテルにでも泊まって羽根を伸ばそう。
私は数時間前の大失態の告白を暫し忘れることにし、束の間の逃亡に想いを馳せた。


しかし、逃亡はたった一日で終わりを告げたのだった。





バレンタイン当日。
私は今目の前にいる存在が信じられず、あんぐりと間抜けにも口を開けたまま固まった。
豪奢なシャンデリアが飾られ、静かなクラシック音楽が流れるホテルのロビー。まだチェックアウトの時間には早い朝の時間で、ロビーにいる客は疎らだ。
ホテルマンがニッコリと微笑んでソファーに座る男を指差し、フロントに呼び出された私はそちらを見て立ち竦む。
真っ黒なコートに真っ黒なスラックス。いつも若白髪が目立つ髪は場所を気遣ってか、綺麗に撫で付けられている。全席禁煙の為か煙草を吸う事が出来ず手持ち無沙汰なのか備え付けの雑誌をパラパラと捲っていた。長い足を無造作に組み、遠目に見ても目を惹く容姿をしている。

「火村…」

ポツリと名前を呟けば、私の小さな声を拾ったのか火村がこちらを向いた。
火村は一つ息を吐き、雑誌をラックに戻して立ち上がる。そして呆然と突っ立ったままの私の前に、ゆっくりと歩み寄って来た。

「逃げるなよ」

思わず半歩ほど後退った私の腕を掴み、彼は顔を寄せて囁いた。恐らく他人に聞かれぬ為だろうが、距離が近い。

「ど、どうしてここに?」
「どうしてだろうな」

火村は片方の口端を僅かに吊り上げ、歪に笑った。確かにその顔は笑みを浮かべているのに、自分を見つめるその瞳は少しも笑っていない。どうやらこの男は怒っているらしい。それも酷く。
でも、どうして?
戸惑う私を余所に、火村は腕を引いたまま歩き出した。
足音さえも綺麗に消す上等な絨毯の上を歩き、エレベーターに颯爽と乗り込む。幸いにも中には他の客がいて、二人きりの気まずさに堪える羽目にはならなかった。
腕を掴まれていることに対して他人から怪訝な視線を送られたものの、火村は私を離す気は無いらしい。別に逃げ出したりはしないのに、今は。
エレベーターが目的の階に到着し、赤絨毯が敷かれた長い廊下を無言で歩く。やがて私の泊まる部屋の前まで来ると、火村は無表情のまま手を差し出した。
私はその手に渋々とカードキーを渡す。火村の手により呆気なくロックは解除され、朝日が眩しい部屋の中へと促される。
後ろで閉まる扉の音がやけに重く感じられた。

「一方的に告白をして逃げるのは卑怯だと思わないか」

いきなり核心を突く言葉に私の心臓が止まりかける。目を大きく見開いて火村を見れば、彼は先程よりは僅かに緩んだ表情をしていた。

「自宅にも帰らず、携帯の電源を切って逃避行。お前が昨夜片桐さんに会っていなければ、暫く居場所は分からなかっただろうな」

火村に私の居場所を教えたのは片桐さんか。
確かに私が東京に居ることは他に誰にも伝えていないのだから彼しか考えられない。彼は火村に聞かれればなんでも答えそうではある。

「…火村…、俺…」
「謝罪は聞かない。忘れてくれ、と言うのも無しだ」

先回りして否定されれば言葉を続けられない。途方に暮れて部屋の真ん中に突っ立ってるだけの私に、火村は自身の鞄を漁り始めた。
そうして鞄から取り出し、無造作に私に差し出して来た物。
真っ白な紙袋に、見覚えのある金の文字。隙間から見える中身は茶色の大きな箱と、結ばれた金のリボン。

「これ…」
「お前が言ったんだぞ。GODIVAは本命にだと」

お前にやる。
そう言われて押し付けられる。私はまたもや目を丸くして火村を見返した。手にした袋からは、チョコレートの甘い匂いがする。

「それが、昨日の告白への返答だ」

そうして火村は目を細めて笑った。
私の鈍い頭にその言葉の意味が到達し、瞬時に頬が燃えるように熱くなる。
つまり、これは。

「なあ、アリス。もう一度言ってくれないか」
「何を」
「分かってるだろう?」

茹でたこのように真っ赤になった私に、火村は蕩けそうな笑みを浮かべて顔を覗き込んで来る。見るな、あほ! と顔を背ければ、珍しく声を上げて笑われた。

「頼むよ、アリス」
「お、お前かて、言うてないやん」
「なら同時に言うか」

火村の大きな手が後頭部に回されて、私の髪の毛を優しく梳く。その心地良さと心臓の高鳴りにクラクラとしながら、私は真っ直ぐに火村の瞳を見返す。

そうして二人で同時に同じ言葉を口にすれば、お互いに声を上げて笑った。

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