HMAL FOREVER!
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@あまい おくりもの


毎年積み重ねてきた行為は、いつしか欠かせない習慣となっていた。甘い香りの中、小さな鍋で牛乳を温めながらぼんやりと私は愛しい男の顔を思い浮かべる。
初めて贈った時よりも、少し老けたけれど、それでも私の心を掻き乱すあの相貌。昔よりもほんの少し深くなった笑い皺を作りながら、今年も嬉しそうに私から差し出した小さな贈り物を受け取ってくれるのだろう。
そんな事を思いながら、私は初めてのバレンタインの事を思い出していた。



聖バレンタインデー。聖バレンティヌスが殉教した日であり、日本の製菓会社による陰謀が駆け巡る。そんな色恋沙汰に世間が浮き足立ったその日を迎えた私は朝から緊張していた。
目の前には丁寧にラッピングされた掌に乗る程の小さな箱がある。光沢のあるダークブラウンの包装紙に包まれ、やわらかなベージュのリボンで飾られたソレは、自宅の冷蔵庫の中で鎮座していた。
思えば、私も浮かれていたのだ。出会って半年、いつの間にか抱いていた恋心。叶うなんて思っていなかったのだが、クリスマスも終わった去年の暮れに、突然相手から想いを告げられた。
いつもは真っ直ぐな瞳が自信なさげに、弱々しく逸らされながら告げられた言葉に私は初め驚愕するしかなかった。しかし、すぐさまそれを上回る歓喜に包まれた。まさか、両思いだなんて思ってもみなかったのだから。
それから──いわゆる「お付き合い」を始めてから初めて恋人らしいイベントがやってきた。年末も年始もそれぞれで過ごして何もできなかったから、せめてこれくらいは、と思って張り切って用意したのだが。
「甘いもんとか平気やろか、」
開け放した冷蔵庫から溢れてくる冷気を浴びながらぽつりと自問する。そもそも、男からチョコレートなぞもらって嬉しいのだろうか?女性達に混じって戦場と化した売り場でようやくこのチョコレートを買ってきた時の高揚は今ではすっかり影を潜めていた。
有り体に云えば、私は調子に乗っていたのだ。叶いもしないと決め付けていた恋が成就し、あの男に特別な存在として赦された事に。あれからふたりきりで会うたびに、優しくて甘い声が愛しそうに私の名を呼び、長い指で壊れ物に触れるように触れてくれる。そんな甘美な状況は、十七歳の失恋でささくれだっていた私の心を満たした。
少しでも何かを返したくて、どうすればいいのか考えていた矢先にお誂え向きに恋人同士のイベント。便乗するしかないとその時は思っていたのに。
「いざ渡すとなるとなあ、」
小さなチョコレートを前にして萎んだ感情に、私は小さくため息を零した。
散々悩んだ末に、遅刻するでと母親に家から追い出されながらも咄嗟に掴んだチョコレートを抱えたまま大学へと来た私はますます気重だった。
見慣れた食堂。しかし、目の前にいる火村の表情は険しい。普段からお世辞にも目付きがいい方とは云えないが、今日はますます険が増している。心なしか、眉間にも皺が寄っているような気もする。
どうして彼がこんな表情をしているのかなど愚問だろう。朝から女子生徒に付きまとわれ、チョコレート攻撃を散々食らってきてうんざりしているのだ。
「なあ、本気で一つも受け取らないつもりか?」
伸びたうどんをすする手を止めて、勿体ねぇなと羨ましげに天農が問えば、火村は短く「ああ」とだけ答えた。その声だって普段よりも若干低い。
こんな状況では渡せる訳がない。内心そう落胆しながら、私は誤魔化すようにカレーを口に運んだ。同時に、拒絶された女の子達の心情を思って少し悲しくなった。
彼女達だってこの日のために一生懸命チョコレートを選び、勇気を振り絞って火村に渡しに来たのだろう。それを受け取っても貰えず、門前払いされたら私ならきっと落ち込んでしまう。
「…受け取るだけ受け取ってあげるのは駄目なん?」
「はあ?」
私の提案に、火村が不機嫌そうに声をもらして、ますます表情が硬くなる。しくじった。そう思いながらも私も引けなかった。
「渡せるだけでも彼女らは満足やと思うで。誠意は受け取らな」
「付き合う気もないのに受け取る方がよっぽど不誠実だろ」
苛立ったように答えると火村はふいとそっぽを向いてしまう。そのまま碌な会話もなく、気まずい食事は終わった。
次の講義の準備があるから、とそそくさと去っていった天農を見送って、私と火村はいつものように烏丸通りを隔てた向こうにある一服広場へと向かう。
信号が変わるまでの時間も無言で、居心地の悪さを感じながらも何も言葉には出来なかった。私の一言が火村を怒らせてしまったのは確かのようだ。
彼は誠実な男だ。とっつきにくさはあるものの、心を許した相手に対してはどこまでも摯実であり、また篤厚な態度で接する。そんな男だからこそ、思いの詰まったものを軽々しく受け取らないのかもしれない。そんな彼からすれば、私の発言は軽率そのものだろう。
今更ながら自分の発言の軽率さを呪うが、もう後の祭りだ。黒い草臥れたコートの背中を見ながら小さく溜め息をこぼす。せっかく恋人になれたというのに、このまま破局してしまうのかもしれない。
どんどん落ち込んでいく思考は止め処なく螺旋を下り落ちていく。悪い方向に考え出すとキリがなくなるのは悪い癖だと思いながらも暗い思考は止まらない。
「アリス?」
不意に名前を呼ばれて慌てて顔を上げれば、怪訝そうな顔をした火村が私を見ていた。
「すまん!俺次の授業の準備せなあかんのやった、また後でな!」
「はあ!?」
咄嗟に飛び出した言い訳に任せて、私は火村に背を向けて走り出した。後方から困惑した声で火村が私を呼ぶ声が聞こえるが、今更足は止められない。
脱兎の如く先程まで歩いて来た道を引き返す。冷えた空気を吸い込んだ肺が痛いが、構ってなどいられなかった。
「あかん、やってもうたー!」
逃げ込んだ先の校舎で乱れた呼吸のまま、頭を抱えた。つい脊髄反射で逃げ出してしまったが、考え得る中で一番最悪な選択肢を選んでしまった気がする。
我ながら行動の短絡さに落ち込みつつも、火村が追って来ても困るので移動しながらこの後の事を考えた。今日の授業後、火村の下宿に本を借りに行く約束をしていたのだが、どうしたものだろうか。あの低い声で問い詰められるのを想像して思わず背筋が冷たくなる。何故あの場でさっさと謝ってしまわなかったのだ。今更自分を責めてももう遅かった…。



ちっとも集中出来なかった午後の講義が終わり、重苦しい気持ちのまま階段教室後方の席を立つ。結局、碌な言い訳も考えられないまま、今日の授業が全て終わってしまった。
どのツラ下げて火村に会えばいいのだろうかと悩みながらも待ち合わせしていた図書館へとのろのろと足を向ける。学部の違う私達はいつも待ち合わせに図書館を使っていた。ここならば、相手が遅くなっても時間も潰せるし、ある程度場所を決めておけばすぐにわかるからだ。
図書館に入って真っ直ぐ奥へ、日の当たる窓際の席がいつも私達の約束の場所だった。勉強や読書をしている人々の合間を抜けて奥へ向かえば、待ち人はそこにいた。
「火村」
意を決してそっと声を掛ければ、緩慢な動作で彼が本から顔を上げた。隣の席に腰を下ろせば、西日に照らされながら火村は大きな口を開けて欠伸を零す。どうやら眠かったようだ。
「すまん、待たせたか?」
「それほどでもないさ。…行こうぜ」
短く云うと、火村はそそくさと草臥れたコートを着込み、鞄を手に歩き出した。スタスタと行ってしまう火村を追って、私も日も暮れかけた外へと出れば、途端に寒風が襲い掛かってきて思わず震え上がった。
火村は少し先の街灯の下まで歩いていた。謝る機会を逃したまま、少し歩幅を上げて前を歩く火村の背を追って歩く。普段ならば、隣に並んで歩くのだが、今日はそれが出来ずにいた。
ちらりと見た鞄の中では、朝方無理に押し込んで来たチョコレートがリボンもひしゃげたまま渡せずにまだそこにいる。くしゃくしゃになったベージュのリボンに今の自分が重なるような気がした。
不意に今まで少し前を歩いていた火村が立ち止まり、その背中にぶつかりそうになった。慌てて踏み止まって衝突を回避するが、足は後ろに数歩、たたらを踏む。その際、バランスを崩して転びそうになるが、火村が素早く腕を差し延べてくれたおかげで転倒は免れた。
「危ねぇだろうが」
「君が急に立ち止まるからやろ」
呆れたように云うから、思わず噛み付いてやれば、掴んだままの腕をぐいと引かれて火村の方に引き寄せられた。近くなれば、ふわりとキャメルと火村の匂いがして心臓が跳ねる。
日は傾き、街灯は少し離れたところにあって薄暗いとはいえ、ここは大学構内だ。誰がどこで見ているかもわからないから、私は慌てて離れようとするが、火村は腕をはなしてくれない。
「火村、はなしてや。誰かに見られたら、」
「俺はそれでも構わねぇよ」
私の言葉を遮りながら逃すまいとするように彼の腕が背に回る。抱き締められて慌てて周囲に視線を巡らせるが、幸いなことに人気はない。
「火村?」
「…本命があんな事云うんじゃねぇよ。俺だって傷付くんだぞ」
ぎゅうと抱き締められながら恐る恐る名を呼べば、帰ってきたのは不満そうな一言。どうやら彼はやはり私が云った事が気に入らなかったらしい。
「う、せやかて、受け取ってもらえんと悲しいやんか」
「世の中には人の厚意を斜め上に解釈する奴もいるんだよ。それに、受け取ったら受け取ったで拗ねるだろ、お前」
火村の指摘に思わず目を逸らす。そこまで考えていなかった。が、実際に彼が女の子からチョコレートを受け取っているシーンを想像してみれば──うん、妬ける。子供っぽいと思いながらも、やはり面白くはない。
受け取っているシーンを思い浮かべている事もお見通しらしい火村が呆れたように深い溜め息をついた。その吐息が首筋を掠めていくのがくすぐったい。
「自分の感情の振れ幅も考えず、思いつきで口にするのはやめろよ」
「う……はい」
素直に認めれば、掴まれたままだった腕がようやく解放された。気恥ずかしさから慌てて距離を取れば、火村の整った相貌が面白くなさそうに歪む。
「なんで逃げんだよ」
「ここは大学やぞ。変な噂立てられたら君が困るやん」
「俺は構わないって言ってるだろ」
不服そうに云うと、火村が再びふいとそっぽを向いた。微かな残照に照らされて覗く横顔は普段の彼からは想像できない──まるで拗ねた子供のような顔をしている。
珍しいその表情に、私は思わずおおと声を漏らしてしまった。昼に会った時から何やら機嫌が悪いと思っていたが、原因はどうやら私が思っていたものと少し違ったようだ。
ああ、これはもしかすると。
「なんだよ」
「いや、いつもスカしてる君にも存外かわいらしいところがあるなって」
ご機嫌斜めな火村を他所に、私はにんまりと笑みを浮かべる。
「……期待して悪いのかよ」
「いいや、意外だっただけや。君はこういうの嫌いやと思ってた」
「嫌いだったさ。今まではな。生まれて初めてバレンタイン当日にそわそわしてる連中の気持ちがわかったぜ」
拗ねたような口調のままだが、どうやら素直に白状するつもりらしく、溜め息混じりに彼は言葉を紡ぐ。
「モテてない連中に僻まれそうやな」
「お前以外にモテても嬉しくねぇよ」
ストレートに告げられた言葉にこちらが照れてしまって頬が熱くなる。そんな反応に気を良くしたのか、火村がようやく私の方を向いて大きな手で頬に触れてきた。ボクシングをしていたから硬いけれど、ひんやりとした優しい手は熱い頬には心地良くて、思わず擦り寄ってしまう。今なら渡せるかもしれない。
「あのな、君に渡したいもんがあるんや」
この機会を逃さないように、私は火村に背を向けると鞄の中に手を突っ込んでチョコレートを取り出した。一日中荷物に揉まれたせいで綺麗だった包装は所々ひしゃげてリボンもくしゃくしゃになっている。それでも、火村は喜んでくれるのだろう。
手早く乱れたリボンだけ手直しして、火村の方へとその小さな箱を差し出した。恥ずかしくて顔なんて見られないから横目で彼の反応を窺えば、驚いたような顔をしている。本当にもらえると思っていなかったのかもしれない。
「いいのか、」
「君が受け取ってくれな女の戦場に混じって買いに行った俺の気概が無駄になるわ」
つっけんどんな言い方になってしまったが、事実だ。彼の為に時間を掛けて選んだ、甘さ控えめな大人っぽいチョコレート。彼が食べてくれなければ意味がない。
「ありがたく頂くよ」
チョコレートの入った箱が、私の手から彼の手へと渡る。その時の火村の嬉しそうな表情ときたら…私は一生忘れはしないだろう。


──そんな甘酸っぱい十数年前の思い出を振り返りながらも、ふつふつと煮える牛乳に、少量のコーヒーを溶かしていく。真っ白だった牛乳にほんのりと色がついたら、細かく刻んだミルクチョコレートを全て入れて丁寧に溶かした。鍋を混ぜるたびに鼻先をくすぐる甘い香りは空腹を誘うが、まだ完成ではない。
刻んだチョコレートが全て溶けたら私と火村、それぞれのマグカップになみなみと注ぎ込んだ。とろりとしたホットチョコレートはこれからやってくる男の体を温めることだろう。
ちらりと時計をみれば、約束の時間まであと少しだ。律儀な男の事だ、連絡もないからきっと待ち合わせた時間通りにくる。それまでにはホットチョコレートも猫舌な彼の好みの頃合いになっている筈だ。
雪が降ると云う予報の通り、外はきんと冷え切っているのだろう。このホットチョコレートはそんな中、おんぼろなベンツを飛ばして会いに来てくれる恋人に、私から贈る贈り物だ。
仕上げ用に、とテーブルに置きっぱなしにしていた箱を開ければ、中から可愛らしい猫の顔と肉球の形をしたマシュマロのセットが現れる。猫の顔のデザインは温かい飲み物に使うもので、浮かべると飲み物から猫が顔と手を出しているように見える、という代物だ。
生粋の猫狂いである恋人が喜びそうだと今日この日の為にわざわざ通販して手に入れたもので、悩みに悩み抜いた結果でもある。
仕切られた箱の中に収まったピンク色の肉球を指先でつつけば、ふんわりとした感触がした。本物の柔らかさや温かさには敵わないかもしれないが、それでも可愛らしいさでは負けていない。
その時、玄関のチャイムが鳴った。ピンポンという音に心を踊らせながら、それでも平静を装って玄関に向かう。
「はいはーい。どちらさん?」
「遊んでないで早く入れてくれ。寒いんだよ」
軽い口調で声を掛ければ、言葉尻では急かしながらも待ち侘びた優しい声がドアの向こうから返ってきた。急いで鍵を解錠して玄関を開ければ、黒いコート姿でワインレッドのマフラーに鼻先まで埋めた恋人がいた。
「よお」なんて軽く挨拶する彼を外気から守るように招き入れて素早くドアを閉めれば、彼のコートからはひんやりとした冷気が伝わる。どうやら外は相当寒いらしい。いそいそと靴を脱いで部屋に上がる彼の背を追いながらリビングへ入ると、エアコンの暖気が我々を包み込んだ。
「ああ、天国だな、ここは」
「いくらあの骨董品かて暖房くらいつくやろ」
「今日はエアコンのご機嫌が悪かったんだよ」
溜め息混じりにマフラーを外し、コート脱ぐ彼を尻目に、私は台所に向かい、最後の仕上げをする。触れたマグカップはまだ少し熱いくらいだが、冷えた手を温める事くらい出来るだろう。
可愛らしい猫のマシュマロを摘み上げ、彼のマグカップに浮かべれば、ちょうど縁から顔と手を出しているように見える。
「アリス」
部屋に満ちる匂いで既に察しも付いているのだろう。柔らかな声で火村が私を呼んだ。マシュマロが溶ける前にと私はマグカップを二つ持っていそいそと彼の待つソファーへと向かうのだ。
きっとあの時と同じ表情で彼は受け取ってくれるだろうから。


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