HMAL FOREVER!
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Dともだち




「俺はお前を好きになるよ、きっと」

バリトンが紡いだその言葉を、有栖はすぐには理解できなかった。

せめて表情でもわかればその真意を多少なりと酌むことができたのかもしれない。
けれどそれを聞いた時有栖は声の主――火村英生だ――に指摘された自作の推理小説についての矛盾や瑕疵をノートにメモしていたし、顔を上げた有栖と入れ替わるように火村が手にした原稿用紙に落としてしまったので、それは叶わなかった。
なにより、有栖が火村に会うのは今日が二度目なのだ。彼のひととなりを熟知しているとは言い難い。表情が見えていたところで、有栖が火村の言葉の意味を的確に理解することはできなかっただろう。

――訊き返すべきやろか。

聞き流すという手もあるのだろうが、そうするには意味深すぎる言葉だ。
これが「これは面白い小説になるよ、きっと」とか「お前は小説家になれるよ、きっと」であればわかるのだ。彼は有栖の書いた小説の下読みをしているのであるし、そんな言葉をぼそりとでも呟かれたのなら有栖は「ほんまに!?」とすぐさま訊き返していたはずだ。

けれど。

――俺はお前を好きになるよ、きっと。

犯行予告ならぬ、告白予告。

今は、まだ。
けれどもこれから、きっと。
好きになるよ、と火村は言ったのだ。

初めて会ったその日、火村と話をする中で、初対面にも関わらず有栖は気詰まりらしい気詰まりを感じなかった。人見知りをする質であるのにだ。
火村とは気が合いそうだ、もしかしたら長いつきあいになるのかもしれない、とは有栖も感じていたのだが、普通はそんな予感をわざわざ口にはしないものだ。

まして、好きになるなどとは、決して。

ならば、火村はいったいどうしてあんなことを言ったのだろう。





結局火村の本意を訊き返せないまま、十四年が経った。

十四年をかけて有栖と火村が築いた関係は「親友」に他ならないものだ。

学部を卒業し、有栖は大阪の印刷会社、火村は英都大の院に進んだ。その後有栖は作家としてデビューし、数年の兼業作家生活の後に専業作家となった。火村は院を卒業して講師を経て大学史上最年少で准教授となった。互いに夢を叶えた形だ。その間も多少間遠くなることはあれ交流は途切れることなく続き、現在に至っている。

北軽井沢の事件を機に、有栖は時間が許せば火村のフィールドワークに同行するようにもなり、「助手」という新たな関係も手に入れた。しかし、やはり本質は「親友」だ。そもそもフィールドワークに同道しても益体もない迷推理を披露するばかりなのだから、助手として満足に役割を果たせていないことは自覚している。火村のフィールドワークで顔を合わせる警察関係者にも、そのように認識されているだろう。助手とは名目ばかりだ。
誰にどう訊かれたとしても、有栖も火村も互いのことを友人、親友と答えるはずだ。それ以上に相応しい言葉がないからだ。
恋人などでは決してない。過去に恋人であったこともない。一貫してふたりは友人である。

つまり、火村は有栖を好きにならなかった、ということになる。

――俺はお前を好きになるよ、きっと。

十四年という時間は長い。

人を好きになるには十分な時間だ。

そして好きにはなれないと決断を下すにもまた、十分すぎる時間だ。

火村の予感は、結局予感でしかなかったのだろう。彼の告白予告は実現されることなく潰え、有栖が感じ言葉にはしなかった長いつきあいになるかもしれないという予感は現実になった。

自他とともに認める「親友」。それが火村と有栖の過去と現在だ。
そして、未来も。

――あの言葉はなんやったんや。

普段は記憶の隅に追いやっているが、世間がやれ夏休みだ、やれクリスマスだ、やれヴァレンタインだ、とイベント事にかこつけて浮き足立つとどうにも思い出してしまう。「親友」ではなく「恋人」であったならば、それらをどんなふうに過ごすのだろうか、と。

あるいは知人から結婚式の招待状が届いた時。離れて暮らす両親から恋人は、結婚の予定はないのかと思い出したように問われる時。火村が「親友」ではなく「恋人」であったならば、こんなふうに胸の内がもやもやとせずに済むのだろうか。

折しも二月。世間はヴァレンタインデーを前にどこもかしこも浮かれている。どの店も赤やピンクのハートをディスプレイの全面に押し出し、雑誌は隙あらばチョコレートやらプレゼントに向いた商品のプレゼンテーションを行っている。もしもあの時の火村の告白予告が現実になっていたのなら、自分も世間と足並みをそろえて今頃浮かれていたのだろうか――そんなことを考えて、有栖は溜息を吐いた。

今更ながらに思う。
十四年前のあの日、あの時。「それはどういう意味や?」と訊き返せばよかった、と。

はたちの有栖が訊き返すことを躊躇ったのは、せっかく得られた友人を逃してしまうのが嫌だったからだ。
不可抗力とはいえ、それまで応募する以外は誰にも読ませたことのない小説を火村に読まれた。そして彼はその続きはどうなるんだと言ってくれた。思い出すだに穴だらけの拙い小説だったけれど、彼はそこにミステリを読む悦楽を見いだしてくれたのだ。
自分の書いたものにも、人を惹き付けてやまないミステリの持つきらめきがひと欠片でもあるのだと、火村は有栖に教えてくれた。あの一言がなければ、有栖は小説家になるという夢を目指す途中で倦んで腐っていたかもしれない。そんな大事な言葉をくれた、これから長いつきあいになるだろうと思えるような――そうなることを願うような相手を失ってしまうのが嫌だったのだ。
その時点で有栖は少しも火村を恋愛の対象として見てはいなかった。どういう意味だと訊き返して、そういう意味だと答えられたら、有栖はきっと気まずい思いをしたに違いない。もとより学部の違う人間である。距離を取るのは難しいことではないから火村との縁はすぐに切れていただろう。
そうはしたくなかったから、あの日、有栖は訊き返すことをしなかった。
それがなぜ今更になって訊き返せばよかったとなどと思っているのかといえば、今、有栖は火村が好きだからに他ならない。
あの日、あの時は確かに有栖は火村のことを恋愛の対象としては見ていなかった。けれど火村のあの言葉が有栖の胸に留まり、声が留まり、火村の存在が留まった。そうしていつしか留まったものがこごり、気がつけばそれは彼への恋慕になっていた。

――まさかそれが狙いやったんやろか。

いやいや、と有栖は頭を振る。
火村英生という男はそんな小狡いことをする男ではないと、誰よりも有栖が知っているのではないか。そんな迂遠なことをするような男ではなない。だいたい待つ時間が長い割に期待される効果が薄すぎる。
ならばやはり、好きにはならなかったと考えるのが妥当だ。
恋愛の対象としては好きにはなれなかったが、友人としては誰よりも好きになれた。
ある意味で、有栖は火村の唯一無二だ。少なくとも有栖の知る範囲で火村に女っ気はなく、また男女問わず誰かと交際している気配もまるでない。それとなく彼の下宿の大家である篠宮時絵刀自に探りを入れてもやはりそれらしい相手は居ないようだと言う。ならば実質今現在の火村の“一番”は有栖だ。
有栖が恋愛の対象として火村を好きでいる一方で、火村が友人として有栖を特等席に座らせている現状から考えれば、有栖はこれを喜ばしいこととして受け入れるのが最善なのだろう。現状を維持さえすれば少なくとも有栖が火村を失うことはない。
この現状に満足しなくてはいけない。
親友として好きな男の隣に居られることを幸いに思わなくてはいけない。
そうわかってはいるが、浮かれる世間を見ていると、心がざわついてしまう。
手を繋ぐ相手が居ないこと、抱き合う相手が居ないことを寂しく思ってしまう。人肌恋しいと思ってしまう 。少しだけでいいから、火村がかつて抱いた予感の残滓をどこかに持っていてはくれまいか、と都合のいいことを考えてしまう。
こんな夜は、特に。

「ほら、アリス」

二月十三日の午後八時、夕陽丘のマンションを訪れた火村がコートも脱がずに有栖に大きな紙袋を差し出す。受け取って中を覗いて見れば、小さな紙袋が三つ入っていた。
「なんや?」
「原稿に根詰めすぎてカレンダー見てないのか?明日はヴァレンタインだぜ」
揶揄する意地悪げな響きを含ませながら火村が笑う。取り立てて急がなくてはいけない締め切りを抱えているわけではない有栖は少しだけ唇を尖らせて鼻を鳴らした。だいたい、ヴァレンタインが明日だということくらい、嫌になるほどわかっている。つい先程もテレビから百貨店のヴァレンタイン催事場の賑わいを伝えるニュースが流れてきて苦虫を噛み潰したような顔をしていたばかりだ。
「それくらいわかっとるわ…ということは、これチョコか?」
なんで君が、と怪訝な顔をする有栖に火村がそうだと頷く。
「白い袋が婆ちゃん、黒いのが貴島くん、赤がゼミ生有志からだ」
「婆ちゃんと貴島さんはともかくゼミ生有志ってなんや」
「お前がたまに手土産持ってくることあるだろう。そのご相伴に預かってる連中からさ」
「わざわざええのに」
「婆ちゃんも貴島くんも有志一同も、皆お前によろしくってさ」
「ふうん。…それじゃあ、ありがたく頂戴します」
拝むように少しだけ袋を持ち上げて軽く頭を下げる。いくら有栖がヴァレンタインに浮かれる世間を暗鬱とした気分で眺めようと、こうしてヴァレンタインは有栖にすり寄ってくる。
義理とはいえこうしてチョコレートを贈ってもらえるのは素直に嬉しいしありがたいが、同時に義理だとしても洒落だとしても気軽には贈ることのできぬ自分に、有栖は内心で嘆息した。
「お返しせなあかんな」
「ああ、それなら言付けを預かってる」
「言付け?」
「婆ちゃんからは、顔を見せてくれたらそれがお返し、うちで一緒に飯食ってくれたらなおよし。貴島くんと有志一同からはもらってる方が多いからお返しは不要だとさ」
「はは。うん、わかった。そのようにさせてもらうわ。…とりあえず飯にしよか」
チョコレートの入った紙袋をソファの端に置き、キッチンへ向かう。
昼に、冷蔵庫が空に近いから買い出しに出掛けようと思った矢先に火村から今夜泊まりに行ってもいいかという連絡を受けた。それならば到着が何時になっても温めればすぐに食事にできるようにとメニューはカレーにした。どこのスーパーでも売っているカレールーを使っているが、ほとんどペースト状になるまで玉葱を炒めたり、ローリエを加えたり、ちょこちょこと手を加えてある。
「どのくらい食べる?」
「お前と同じくらいでいいよ」
「鍋いっぱいに作ったから、足りへんかったらおかわりしてくれ」
鍋に火を入れ、カレーが温まるのを待つ間に、冷蔵庫から作り置いたサラダを出したり皿に白飯を盛ったり、夕餉の支度を整える。コートとジャケットを脱いだ火村がすることはあるかと言うのでサラダと福神漬けを運んでもらった。
じきにカレーが温まり、テーブルを挟んで腰かけた。

「お、旨い」

カレーをひとくち食べた火村がぼそりと言う。有栖はそれはよかったと心の内で返して、自分もひとくち食べて小さく笑った。申し分のない出来だ。
「お前、カレーは上手いよな」
「は、は余計や。他の料理かて普通に食えるもん作るやろうが。そんなことを言うんやったら、次からなんも出さへんぞ」
「それは困る」
真面目腐った様子で言う火村に有栖は吹き出すように笑って、追いかけるように火村もくつくつと笑う。
結局ふたりともおかわりをして、鍋にたっぷりあったカレーは三分の一ほどなくなった。
テーブルからソファに移動し、食後のコーヒーを淹れる。

「デザートがわりに、もらったチョコでも食うか」
旨そうにキャメルを吸い込む火村の隣りに腰掛け、紙袋に手を伸ばして有栖はあ、と小さな声を上げた。
有栖が火村経由で受け取ったものとまるまる同じものを火村も受け取っているはずだということに気が付いたのだ。ならばそれ以外のものの方がいいだろう。
そう思ったのだが。

「いいのか?お前がもらったもんだろ。お前がいいなら食べるけれど」
「いや、ええからそう言うたんやけど…でも君、自分の分もあるやろ?」

「ないよ。婆ちゃんからはもらったけど、他にはひとつもない」

火村の言葉に有栖は目を瞬く。
「嘘やろ。学生や職員からめっちゃ貰いそうやん。学生の時かて山ほど貰ってたし」
「馬鹿。教員だぞ?皆でどうぞって大袋に入ったようなのはともかく個別になんか貰えるかよ。なにを言われるかわかったもんじゃねえ。だいたい好意も抱いていない人間から食い物をもらっても嬉しくねえし処分に困るだろう」
「はあ。色々面倒臭いんやな」
「センセイこそ読者から貰ったりするんじゃないのか?」
「いや、そんなことないで。多少ファンレターの数は増えてるかもしれへんけど、食べ物やなんかは殆ど届かへんよ。まあ、送ってくれる方も出してから出版社経由してどのくらいで本人のところに届くかわからへんやろからな。賞味期限のあるものは同封せえへん」
「ふうん。じゃあ…彼女は?」
「彼女?」

「隣りの部屋の、カナリアの君」

どうしてそこでお隣さんが出て来るのか。
有栖は首を傾げる。幾度か火村に隣人の話をしたことはあるが、隣人は隣人だ。浮かれたようなことが、勘繰られるようなことがあったことなど一度もない。
「もらって、へん。もらったこともあらへん。なんなんや」
火村は有栖の訝しげな顔をちらりと見遣って小さな溜息を吐いた。
「…なんでもねえよ。出せよ、チョコレート。食おうぜ」
「あ、うん…」
おかしな態度をとるな、と不思議に思いながら、有栖は自分の馬鹿げた願望が脳裏に過ぎるのを感じる。

――俺はお前を好きになるよ、きっと。

かつて抱いたその予感の残滓を、火村がどこかに持っていてはくれまいか、という馬鹿げた願望だ。

「火村。君は…」
君は何故、隣人の女性を気にする。
君は何故、わざわざ婆ちゃん以外にはひとつもチョコレートを貰っていないなどとわざわざ言う。いつもの君ならば貨物列車一台ほどももらったと嘯くのではないか。
君は何故、私のカレーを褒めた後に「好意を抱いていない人間からの食い物」などという言葉を使った。
君は。
君は。
ぐるぐると有栖の思考が回る。火村の言葉の都合のいいところばかりを拾って都合のいいように解釈している自覚はある。こんなものは空回りだとわかっているに止められない。
「アリス?」

「君は、十四年前に俺に言うたことを覚えているか?」

火村がなんの話だ、覚えていないと答えたならばおとなしくコーヒーでも淹れてチョコレートを食べよう。そして今度こそあの日の彼の言葉は忘れてしまおう。そう有栖は決めた。
「十四年前のいつだ?」
「十四年前、大学二回生。君と二度目に会うた時。君が俺の書いた小説を読んでた時や」
「…二度目」
「覚えておらへんのやったら…」
覚えておらへんのやったらええと言いかけた有栖の声を火村が遮る。
視界の端で、火村の手がまだ長い煙草を灰皿に押し付けた。

「お前、今頃どうしたんだ」

「…え。いや、君。なんの話かわかってるんか」
「わかってるさ。俺が言った台詞だろう」

――俺は

「火村」
「自分の言った言葉くらい覚えているさ」

――俺はお前を

「俺はお前を」

――俺はお前を好きになるよ、きっと。

「俺はお前を好きになったよ、本当に。十四年前からずっと好きだ、アリス」

バリトンが自分の名前を紡いだのを聞き届けるのを待ったかのように有栖の顔が赤く染まる。火村はなにも難しいことを言っているわけではないのに、つい先ほどまで空回りをしていた頭には理解が追い付かない。
「ずっとって」
「あの時、お前は聞こえていたはずなのに聞こえないふりをしていた。演技が下手だったな、アリス。なかなか挙動不審だったぜ」
「気付いていたなら、どうして」
「お前が気付かないふりしてるのに、わざわざ問い詰めろって?無理だ。お前が聞こえていないふりをしたというのなら俺もなにも言わなかったふりをしなくちゃいけなかったんだ。お前の隣りに居るために」
「なんやと」
言われて初めて有栖はあの日の火村が正確に自分の考えを見抜いていたことを知った。
言われて初めて有栖はあの日の火村の予感は現実になっていたことを知った。
あの日の告白予告は十四年の時間を経て今頃実を結んだ――いや、互いに気が付いていなかっただけでとうの昔に実っていたのか。
膝の上でチョコレートが入った紙袋をぐしゃりと潰す。
十四年前に聞こえなかったふりをしたことを謝らなくてはと思う。
それでも十四年間思い続けてくれていたことを感謝しなくてはいけないと思う。
ああ。違う。そんなことよりも先に伝えなくてはいけない言葉があるはずだ。

「ひむら」

ぺしゃりと紙袋が有栖の膝から床に落ちる。
有栖は腰を浮かせて火村に抱き着き、彼の耳元で小さく小さく囁いた。

「俺も、君が、好きや」

十四年も待たせてすまん。
ぽつりと続ければ火村の手が有栖の後頭部をやわく撫でた。

「別に待っちゃいないさ。俺がお前の好きで居続けるのは俺の勝手だ。でも好きになってくれてありがとう、アリス。一日早いが最高のヴァレンタインだな」
頭に触れていた火村の手が項を撫で、首を滑り、背中を掻き抱く。その腕の強さが火村の想いの強さを映しているようで有栖は泣きたいような気持になる。

「一日早いヴァレンタイン…そうやな。なあ火村。あのな」

さっきのカレー、チョコレートが入ってたんや。
君は沢山チョコレートを貰うと思ったから、そのどれよりも先に口に入れてもらいたくて。

そう、蚊の鳴くような声で言った有栖に火村はおかしそうに笑った。

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