HMAL FOREVER!
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Aよるのきみ


 ソファに座ってただ外を眺めながら雨の音を聞き微睡んでいた。深夜とも呼べる時間には私何かに捕らわれたかのように動けない。しばらくして背後からリビングの扉の開く音と小さく彼の息をのむ音。暗くなった部屋に寝室にいるはずの人間がいて、彼は驚いたらしい。彼はソファの座面にかけられていた彼専用の毛布を手に取ると私の肩にかけた。
「寝てなかったのか」
「ん……」
 彼――火村はこちら側に回り込むと私の隣に腰掛け、一緒に毛布にくるまる。
 つい先ほどまでベッドで火村に柔く抱かれ、順にシャワーを浴びた。何となくそのままベッドに戻ってしまうことができず、リビングに留まっている。
 ぽすんと隣の火村の肩に頭をのせ、まだ温かい彼の体に寄る。
「なんでベッドに戻ってなかったんだ」
「――……なんとなく。雨の音が聞こえるなて」
 火村は何も言わず私の言葉を聞いている。
「さむい、な」
「こんな寒い部屋にいれば湯冷めもするよ」
 それだけではない。きっと、それだけでは。
 もう年が明けてしばらく経った。酷く寒く冷たい空気は、きっと暖房をつけても消えることはない。温かな室内でも何となく体の芯に氷を抱えたようで、きっとそれは春の温かさでしか溶けないものなのだと知っていた。
 毛布の中でそっと手を繋ぐ。私の耳に入るのは雨音と自分の体の音、彼の体の音だけで、どうしようもなく不安になった。繋いだ手の力を強くすると、私の不安に触れるように火村は俺の頭に頭をのせる。
「アリス、戻ろう。風邪をひくから」
「ん、もうちょっと」
 今夜は冷えるからそのうち雨は雪に変わるかもしれないと、昼間の予報で言っていた。ただ天気が変わるだけ。晴れから雨になるのと何も変わらない。
 そのはずなのに、雨が雪に変わる瞬間が恐ろしいと思った。

 外から聞こえる雨の音が聞こえなくなったのは明け方近くなってからだった。
 先ほどまで降っていた雨はその姿を変え、白い花弁のように舞っている。恐らく地面に落ちれば濡れた地面に溶けてしまうのだろう。こんな日の雨の後の雪というのはそういう運命なのだと、誰かが言っていた。きっともっと冷えた日なら雨が降ることも地面に雨が残ることもなく、雪は積もる。
 隣で眠る彼は私の頭に頭をのせたままで、毛布の中の温度は二人の体温で心地よい。疲れていたのだろう。ベッドに戻ろうと急かしていたくせに、あっという間に落ちてしまった。
 ああ、おそろしい。
 火村を起こさないようにしながら、繋いだ手を一度離し指を絡める。
 世間が動き始めるような時間にはきっと止んでしまう。そんな雪は誰にも知られないまま雨に溶ける。
 夜の数時間だけ現れるこの想いも誰に知られる間もなく友愛に融けてしまうのだろうか。


 私はまだ、火村に初めて抱かれた日のことを鮮明に覚えている。
 十二月の終わり、私は年越しを岡山の両親のもとでするから、とその前に京都の火村の下宿に一泊した。
 大家さんと火村と、三人で鍋を囲み、夜遅くなって火村の部屋に引っ込んだ。しばらく酒を酌み交わしながら他愛のない話をして、一年を何となく振り返りながら、ただ時間を潰す。日付が変わるころになって、そろそろ休もうか、と布団を敷いた。

 ひどく、寒かった。

 暗闇になれた瞳は、少しずつ部屋の輪郭を強く映してしていた。外からほんの少し漏れる月の光が私たちを照らしている。私はつい、火村の方を向いた。何か意図があったわけでもなく、ただ、なんとなく。いつから私を見ていたのか、融けるように彼と目が合う。
 あ、と思った。床すれすれに視線が絡み、布団の隙間の畳が、ひどく遠いように思えた。
 なんとなく伸ばした手を、火村が掴む。それを握り返して起き上がる。引かれるままに彼の布団にもぐりこみ、濃くなるキャメルと酒の匂いに頭がくらくらする。それは火村も同じようで、私の胸に顔を押し付けると、色の強い声で俺の名を呼んだ。
「アリス」
「……火村」
 私は小さく息を零してから火村の頭をくしゃりと撫でる。火村がゆっくりと顔を上げて私の瞳を舐めるように見ると、私の中で何かがぱちんと弾けた。
「寒いから、あっためて……」
 今までこんな甘い声を火村に向けたことなどあっただろうか。
 裾の捲れた足を絡め、近づく端正な顔に私はゆっくりと目を閉じる。触れた唇に、火村はこんな味なのか、とどこか冷静な自分が心にいた。

「ぁん…ひむら…まって」
 丹念に解された中は火傷しそうなほど熱く、そこにだけ神経が集まってしまったような錯覚が私を襲う。私の言葉に火村は中の指を一旦手を止めると、私の頬を撫でながらうっそりと笑う。
 この男は、誰やろう。
 そう思ってしまうほど、私に触れる指先は優しく熱く乱れていた。
「アリス」
 名前を呼ばれ、顎を撫でられる。反射的に口を開けば火村の指が入り込んでくる。歯を撫で歯茎を撫で、そのまま口内に入り上あごを擦られる。
「んぁ」
 恐る恐る舌で舐め、火村の汗の味に背筋がぞくりとした。唾液を絡ませゆっくり誘うように指を舌で撫でる。
「っ…ぁ…ぃうら……」
 再び動き出した肛門に差し込まれた指は、俺の中の熱をだんだんと押し上げていく。まだ快楽は拾えない。しかし何故か胸の奥が熱くなって、これが気持ちいいということかと私は甘く声を上げた。


 それから今日までの間、火村は二度私を抱いた。
 年が明けて数日、私の部屋に新年の挨拶という名目で来て一度。一月の終わりの今日、大阪に用があったと言って私の部屋を宿代わりにして一度。夜の数時間だけまるで恋人のように抱き合って、目が覚めれば笑ってしまうほどいつも通りだった。
 昼間、彼に触れたいと思うことはない。あの唇に触れたいと思うことも、熱い情をかけられたいとも思わない。ただ今までと同じように友人として隣にいるだけだ。それ以上を望んだことなんてなかった。それなのに。
 あの夜の数時間、私の心にあるのは彼への恋慕なのかもしれない。

 いつでも火村から与えられるそれに私は溶かされるだけだった。一瞬でも嫌がるそぶりを見せれば手を止める癖に、既に私の体の全てを手に入れたかのように俺の心を翻弄していく。男との経験なんて初めてであるのに、火村は私をたった数回でまるで娼婦のようにしてしまった。
「きみは、俺をどうしたいんや?」
 二度目に抱かれた時、私は火村にそう聞いた。理性を手放す寸前の、蕩けてしまいそうな思考の中で、必死に。火村は小さく笑って私の頬を撫でる。
「さぁ、どうだろう。どうされたい?」
「べつに」
 君にされることで精いっぱいで、どうもこうもない。そう呟けば、火村は蕩けるような笑みを私に向けて首筋に噛みついた。
「んぁ」
 ジワリと広がる熱に思考が食いつぶされる。
 きっと私がここで一言「好き」と言えば火村は応えてくれる。そんな予感はずっとあった。しかし今の私にあるのこの特別な感情は、朝になれば友人に向けるものに戻ってしまうだろう。友愛という自分の中で大きなものに融けて、消えてしまうのだ。

 朝になって目を覚ました火村は私を寝室に押し込んで、帰っていった。
「また、来るよ」
 そう言った火村は、やはり笑ってしまうほどいつも通りだった。



「いらっしゃい」
「おう」
 二月も中頃に差し掛かったその日、火村は夜の十時近くなって私の部屋にやってきた。外は酷く寒いらしい。
「入試はどうや?」
「まあ、順調だよ。明日は久しぶりに休み」
「そんな日にこっち来てよかったん?」
 火村が来る時間に合わせて用意していた蜂蜜入りホットミルクを差し出すと、火村は小さく礼を言ってマグカップを手にした。
「別にいいだろ。それともバレンタインに作家先生は何か用でもあったか?」
「ああ……」
 明日はバレンタインだったな、と思いつつ、私は肩をすくめて自分のホットミルクを一口飲んだ。私には物足りないくらいの熱さだが、火村にはちょうどいいだろう。
「来週一本締め切りがあるだけや。君の言うような色っぽい予定はあらへんよ」
「そうかよ」
 火村の表情は何とも読みづらい。甘く温いホットミルクを飲んでいるはずなのに、何か嫌なものでも口に入れたかのようにもごもごとしている。

 なんとなく、今日も抱かれるのだろうな、と思った。火村は適当なことを言っているが、恐らく火村はここに私を抱きに来ている。
 ここ数年、こんなにも頻繁に顔を合わせることなんてなかった。その意味を、私は正しく理解しているつもりだ。

 私は早々にマグカップを空にし、立ち上がる。食事は済ませてきているはずだから、火村はこの後シャワーを浴びるだけだ。明日の食材はどのくらい残っていたか、と思いキッチンに向かおうとする。
「風呂、入るやろ。さっき追い炊きしといたから、まだ温かいはずや。タオルはいつもの」
「アリス」
 私の言葉を遮るように、火村が私の名前を呼んだ。私が振り返ると、火村は手元のマグカップを見つめるだけで、私の方を見はしなかった。
「お前は、聞かないんだな」 火村が呟いた。
 私は首をかしげながら、何をと問う。
「俺の、バレンタインの用を」
「聞いたやろ。休みなのに、ここ来ててよかったのか、て」
 私の答えに火村は何も返さない。彼は飲みかけのマグカップを机に置くと立ち上がった。
「……シャワー借りる」
「どーぞ。ちゃんと温まってこい。風邪ひくで」
 火村は何も言わずに浴室へ向かった。
 何を言いたかったのか、わからないままだった。しかしそれを問い詰めるような立場に、私はない。火村は私に、何を聞いてほしかったのだろう。


 冷蔵庫を確認して卵があと一つしかないことに気が付いた。夕飯に食べたんだったな。だが明日の朝、買いに行けるとも思わない。
 私は簡単に着替えるとテーブルにコンビニに行ってくるとメモを残す。財布と鍵だけをもって、私は部屋を出た。
「さむ……」
 外に出たことを早速後悔していたが、ここで帰るのも嫌だと思い最寄りのコンビニへ向かう。震える両手を合わせながら、マフラーや手袋が必要だったなと思った。
 コンビニは店員が一人いるだけでがらんとしている。カゴを取って目的の卵を入れる。何となくコンビニスイーツを見て、おいしそうなモンブランを見つけてそれを二つカゴに入れた。飲み物も、と思って見たが、気になるものも必要なものも見つからずやめておく。レジに向かいながらスナックのコーナーを見回し、レジ横のカラフルな陳列台に目が行った。
 バレンタイン。
 あくびを噛み殺している店員は、冴えない男がバレンタインのチョコレートを見ていることになんて興味もないらしい。それをいいことに、私は陳列台の前まで行くと、じろじろとそれらを見てしまった。
 コンビニにも様々なチョコレートが置かれるようになった。名の知られた有名なものから、私の知らないものまで。
 義理という名目で毎年いくつかのチョコレートをもらうものの、自分でこうやって見たことはなかった。今時男からチョコレートを贈ることもあるらしいが、残念ながら私に贈る相手はいない。

 そこまで考えて、今私の部屋に残っている男のことを思い出した。
 そろそろ風呂から上がって私のメモを見ている頃だろう。髪を乾かしているかはわからないが、ソファで残りのミルクでも飲みながら私を待っているはずだ。

 私は会計を済ませてコンビニを出た。


 帰る道は何となく足取りは緩やかだった。寒さに慣れたわけでもなく帰りたくないわけでもなく、ただ何となく。
 火村はバレンタインに――正確には前日だが――私を抱きに来た。それの意味に何となく気付きながらもはぐらかしたのは私の方だ。
 未だに私は自分自身の感情に名前を付けられずにいる。少なくとも彼に抱かれているときの夜の私は彼に恋をしているのかもしれない。それが終わってしまえば、昼の私の中に火村に対する恋心はもう見つからないのだ。
 しかし昼の私の感情も、確かにあの日から変わってしまった。夜の燃えるような熱い恋とは違う、昼の緩やかな温いこの気持ちが何なのか、私にはまだわからない。

 私は卵やモンブランと一緒に買ったそれに思いを馳せる。

 出会って既に十年以上が過ぎていて、今更新しい関係が私と火村の間に築かれるとは思っていない。きっと私のこの感情は、その長い期間で芽生えた友情の延長なのだろう。ただあの夜の数時間だけ、それが一気に育って、日が昇ると同時に戻っていく。そういうものだと、なんとなく理解した。


「ただいま」
 一人の時なら絶対に口にしないそれを小さく溢しながら部屋に入ると、火村がリビングから顔を出した。私につられたのか、火村はおかえりと言ってから私のもとへやってくる。彼の頭はまだ濡れたままだ。
「何を買ってきたんだ?」
「卵と、モンブランと……」
「モンブラン?」
「そ。あとは…」
 私は靴を脱いで火村の正面に立ってから袋の中をがさがさと漁る。取り出したそれに火村が目を見開いた。
「お前、それ」
 私はそれを無視して小奇麗な黒い小箱を開ける。中のそれを一つ口に入れ、
「アリス……? んぅ」
 夜の味のする唇に噛みついた。
 小さく開かれた唇の隙間から舌を滑り込ませ、彼の口にそれを突っ込む。一瞬驚いたように固まった火村をよそに、私は舌を絡めてゆっくりとそれを溶かしていった。鼻先を擦り小さく音を立てて唇を離し、彼の口の端を茶色く染めるそれをぺろりと舐めとる。
 未だにぽかんと私を見つめる火村の表情が面白くて、くすりと笑ってしまった。数秒して火村がポツリと呟く。
「これ、チョコレート?」
「そう」
「俺に?」
「ん、きみに」
「なんで……」
「きみがそれを聞くんか?」
 また笑って見つめていると、火村の手が黒い小箱に伸ばされた。中のチョコレートを一つ掻っ攫うとそのまま私の口に突っ込んでくる。
「ひむ……」
 私が何かを言う前に、その唇は火村に塞がれてしまった。さきほどより形の残したチョコレートが俺と火村の口を行き来して、どんどん小さくなっていく。苦い夜の味が段々と甘く融けて滲んでいく。
 繰り返される夜と昼によって徐々に育つ自身の感情にようやく気づいた。この感情はきっともっと育って、私を塗り替えていくのだろう。
「ひむら」
 甘い唇が離れ、それと同時に甘い声が漏れる。瞬く間に手からコンビニの袋を取られ、玄関横の棚に置かれてしまった。文句を言う前にコートを脱がされ腰を抱かれ、顔中に数回触れるだけのキスを落とされる。
「お前からキスしてくれたの、初めてだな」
「そう、やったっけ」
 くすぐったくて身を捩るが、腕の拘束が緩むことはない。私はそのまま引き摺られるようにリビングに連れ込まれた。ソファにたどり着きそのまま押し倒される。
「アリス、良いだろ?」
「今までそんな聞いたことないやん」
「いいだろ、今日からは」
「今日から?」
「そう、今日からずっと」
 蕩けるような笑みにこちらが恥ずかしくなってくる。こんなに喜んでもらえるとは思わなくて、私は驚きながらも気分が良かった。
「きみからは、ないん? チョコレート」
「あるって言ったら、受け取ってくれるか?」
 私の回答など予想済みのようで、火村は機嫌よさげに私の首筋に吸い付き笑う。あ、痕付けてる。
「もちろん。きみの口移しならなお嬉しいな」
 ふざけてそう言えば火村はまた声を上げて笑う。私は早くと急かすように、その甘い唇に噛み付いた。

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