「設楽先輩を振るなんてとんでもない女ですね」
「そうだな」
 秒針が一周したあと、設楽先輩は「本当に、とんでもない女だった」と呟いて、わたしはその声に潜む愛とか恋とかに驚いた。その女のことを本当に好きだったのだと、初めて知った気さえした。
 この音楽室は、もう、設楽先輩のものではなくなっていた。所有権はない、けれど確かにこの教室を、平々凡々なこの空間を、彼はずっと支配していた。埃の溜まったアルミサッシも、壁に掛けられた曇った肖像画も、床の軋む音でさえ、特別だと錯覚してしまうほどに。わたしにとって。だれかにとって。
 弾くわけでもないのにピアノの前に座した設楽先輩の横顔を、わたしは窓際に凭れ掛かって見つめる。外では、在校生が作った花道のなかを卒業生が通り抜けていた。設楽先輩の胸ポケットには何色の花が咲いていたっけ、とここからでは見えないそれを思う。
「聞いてもいいですか?」
「答えなくてもいいならな」
「いけず」
「なんとでも言え」
「……好きって言って良かったって、思ってますか」
 一瞬見開いた右目の臙脂は深みを増して、それからふっとゆるく溶けた。ああ、と小さな、しかし凛とした肯定がすべてで、後悔するのはわたしのほうだった。「答えたんだから何か言え」と、始めてこちらを向いた先輩の不貞腐れた声で、何も言えなくなっていたことに気づく。
「なんでお前が泣くんだよ」
「泣いてません!」
 ぎょっとしたように言う設楽先輩に、わたしは強く言い返した。しかし目頭は熱くなるばかりで、鼻の奥はツンと痛むばかりで。
 このひとの想いが本当だったこと、そして叶わなかったこと、わたしの抱いていたものの名前も同じであること、それから、これが最後だってこと。すべてを流すには足りない涙だった。
「最後まで手間のかかるやつだな」
 設楽先輩はおおきな溜め息を吐くと立ち上がり、ズボンのポッケからハンカチを出しながらわたしの前に立った。そのまま差し出されるかと思われたが、それはひどくやわらかく、わたしの頬に触れる。
 もう会えないなんて、知らなかった。考えるまでもなく、理由なんてひとつもないのだ。わたしはただの後輩で、たまたまちょうどいいところに居たから先輩の時間をちょこっと貰えただけの。
 滲んだ視界のなかで、白い花が揺らめいている。