泥濘の逆転(下)
●●の目が力なく開かれる。
何度かぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、そのまま上を向き、万丈目の顔を見た。●●の視界に頬杖をしたまま見下ろしている万丈目が映る。状況が飲み込めず「え」と驚きの声が漏れた。●●の頭は寝起きにしてはやけに冴えていて、先ほどまでの万丈目への悪戯を思い出す。まさかバレていたのかと冷や汗が一滴、●●の額に流れた。
「お、おはよう。」
「何がおはようだ。ひとの膝の上ですやすやと寝おって。」
ふんと鼻を鳴らす万丈目の表情に先ほどのことはバレていなさそうだな、と●●は思う。王者のように見下ろしている万丈目の顔がどことなく赤いところを見ると、胸の中では勝ち誇ったように顔が輝いた。そしてふと万丈目の頬に目をやると、先ほど彼が寝ている間につけた三日月型の爪痕が薄らと残っているのを見つけた。●●は思い出したかのように当たり前に万丈目の頬に今一度人差し指を突き立てた。その瞬間に「わ」と腑抜けた万丈目の声が聞こえる。そのままぐりぐりとドリルのように万丈目の頬を掘削する。痛みがあるのか恥ずかしさからなのか耳までも真っ赤にさせて「やめんか」と万丈目は唸った。それでも●●は掘削する手を止めない。万丈目の忍耐の目盛が着々と上がっていき、漏れ出すと「しつこい!」と大声を張り上げて決壊した。同時に●●の手も乱暴に握り、退けさせる。寝起きの万丈目の手はポケットの中に置き去りにされたカイロのようにじんわりと熱い。暖かさが妙に心地良く●●の目蓋がまただんだんと閉じられていった。その目を見て「寝るな寝るな」と万丈目が制止しようと握る手に力を入れる。すると、●●が眉間に皺を寄せながら「キス」と言った。
「え、」
万丈目の顔から色が消えた。たった二文字の言葉が聞き取れなかった。正確には聞き取れていたがなぜこの場でその単語が聞こえたのか万丈目の脳は理解ができなかった。しかしもう一度●●が「キス」と言ったことにより、万丈目の顔に赤色が戻った。体温も焼かれているように熱く、顔は火が噴き出してしまうように更に熱い。万丈目は誰の目から見てもわかるように動揺していた。必死に言葉を探しているが「は」「う」「え」と言葉にもならない音ばかりが口から漏れている。●●はくつくつと喉の奥で笑いながら、繋がれたままになっている万丈目の手を自分の口元へと誘導した。そして「ちゅ」と小さく万丈目の手に唇を寄せた。
「なッ、き、貴様、え、」
口を開けたまま万丈目は動かなくなった。真っ赤のまま口を開けている万丈目はポストのようだ。そのヘンテコな姿に●●は満足して、手を離すとゆっくりと余韻を残しながら起き上った。ぱちりと目が合うと歯を見せてにかっと笑う。万丈目が「なんだ」と声を絞りほんの少し対抗をした。
「キスって口かと思った?」
「な、」
不適な笑みの●●の顔が万丈目の胸を焦がす。何か言い返してやろうと思うが、いい手札がない。万丈目は脳内迷路をぐるぐると彷徨う。
「授業サボっちゃったね。」
●●が黒板の上の時計を見ながら言った。その言葉で先ほど万丈目が一瞬思ってしまったことを思い出す。●●と二人だけの広い講義室がとても静かで、授業中ということもあり更に音が学園から消えている。だからこそ己の心臓の音がより鮮明に激しく聞こえる。何故こんなにも心臓が五月蠅く跳ねるのか。目の前の女をどう思っているのか。どうしたいのか。万丈目には答えが出せない。●●の唇が触れた手の甲の辺りからじくじくと万丈目の心をえぐる。
「お前は、何がしたいんだ。」
万丈目の口から己も予期しない言葉が溜息のように出た。
「言えない。」
●●は相変わらずカラカラと笑っている。その●●の笑みを見て、すっと熱が冷めていくのを万丈目は感じた。言われた言葉を反芻する。「言えない」とはどういう事だ。万丈目に浮かんだ疑問を口の代わりに目が●●に伝える。
「だって、まだ違うから。」
数秒ほど前の笑っている●●は居ない。突如として言いようのない悲しさ、切なさ、寂しさが万丈目の周りを竜巻のように取り巻いた。
「まだ、とはどういう意味だ?」
「んー、まだ違うんだろうなあって。」
「訳がわからん。」
「訳が分かるようになったら、教えるよ。」
俯き笑う●●の肩の髪がさらりと流れた。一本一本が綺麗な白い光を放って流れ星のように揺れている。頭の上から後ろ首にかけてなだらかに手入れされている髪はとても寝起きとは思えない。美しい輝きを拡げている。女の髪を絹と表現した小説を読んだことがある。ふとその表現は●●の髪にはぴったりだな・と万丈目は思った。たしかその小説は恋愛の描写が含まれていて、初めからその女を好きだったわけでない男が、ふとした時に女の美しさに気付く内容であった。女の瞳も宝石に例えられ、まさに今見つめている●●の瞳も。万丈目の心臓は一気に大きく収縮した。苦しさすら覚える心臓の動きに思わず制服の胸元を強くきつく握る。爪の表面が制服と擦れ、ぎゅうと小さな悲鳴のような音が出た。理由のわからぬ涙が着々と万丈目の眼球を潤し、奥を熱くする。気を緩めると零れてしまいそうになるのを奥歯を噛み締めて耐えた。
●●の二つの宝石がきらりと万丈目を映して輝く。そして薄く彩られた唇が、全てを見透かしたかのように「わかった?」と言った気がした。万丈目の耳に●●の声は聞こえてはいない。しかし確実に唇は気付かせようとしているように見えた。まだ夢の中なのかもしれない。万丈目の思考は泥濘に沈んだ。沈む心地よさを幸福と感じ、どうせ夢ならばと●●の頬に自分の人差し指を突き立てる。驚いた●●が「わ」と頓狂な声を上げて、万丈目に振り向いた。同時に万丈目の指が深々と●●の頬を貫いた。●●の瞳がしっかりと万丈目を捕らえ、虹彩に顔が映る。そのことを確認し、満足すると万丈目は指を離した。●●の頬には三日月型の爪痕がはっきりと刻印されている。何故いきなり人差し指を突き立てられたのか困惑する●●にくつくつと笑うと「わかったか?」と万丈目は言った。
「なにが?」
●●は目を丸くして、弱り切ったように眉を寄せる。
「訳が分かるようになったら、教えてやろう。」