Can I take a rain check?
今日はどうしてかいつものように振舞うことが疲れてしまった。
Wは大会運営のスタッフたちやファンとも会話すらしたくなかった。とある大会のゲストとして参加をする仕事があるがどうにも話がうまく進まない。だからと言ってイラついているわけにもいかない。チャンピオンになると多方面からスポンサーの話が舞い込んでくるが全部が全部自分の思い通りに進むような仕事ではないことも理解している。そのはずだが偽りの笑顔を続けるのがどうしてか疲れてしまった。
そんなWではあるがファンがそれを察知するかと言えば別の話でここぞとばかりに群がり、サインと撮影、握手などを求めてくる。断りはしない。出来ない。ほんのすこし休憩のために待機室から席を立てばすぐにファンに囲まれる。あろうことか大会運営スタッフですらファンだと明かしサインを求めてくるのだ。
「ファンサービスは僕のモットーですからね。」
偽りの笑顔は崩さない。誰にも気づかせない。疲れていることすらも、すべて気づかせてたまるものかとWはひたすらファンサービスに応じた。数分の出来事のはずなのに連続で起きるとずいぶんと時間を取られてしまう。誰にも気づかれないように舌打ちをするとほんの少しの綻びから素の自分が出てきそうになりすぐに口元を緩める。窓に反射して映る自分の姿がとても滑稽に見えたのは気のせいだと信じたい。
午前の打ち合わせからずっとこのような調子だ。
打ち合わせに入れば話が合わず、今回のイベントのために雇ったマネージャーを通して伝えるが大会側は折れようとはしない。休憩のために席を立てばファンに囲まれる。サンドイッチなどの軽食しか食べられていない。それも水分補給と言ってすこし離れた間に頬張る程度だ。その間にも撮影スタッフが来れば食事をしている風景すらカメラに収められるため常に気が抜けない。見学のファンなんかもいれば手を振ってやり、どこで何をしていてもファンサービスは忘れない。
大会のゲストなどではなくむしろ自分が大会に出場し、勝ち進んでいくほうが簡単で楽だ。とWは思う。自分が負けるはずがないのだから。しかしそう頻繁に東極エリアチャンピオンがデュエルをするものではないらしい。デュエルでチャンピオンになっているのに大きい大会に出たのはほんの数回程度だ。これからもこのようにチャンピオンとして振舞っていくのかと思うと頭痛がした。
いつもは思わないようなことが次々に頭に浮かぶ。早くいつものWに戻らなければ。しかし黄色い悲鳴を上げて囲んでくるファンたちは「いつものW」として認識しているようだ。それならばいいとまた笑顔を作り、サインをする。今日も何枚サインを書いたのか握手をしたのか覚えていない。右手がじんじんと痛み、腫れている。ドローができるぐらいの痛みであれば大したことはない。問題はこの右手ではなく、晴れない自分の心だ。ほんの少しでいいから一人になる時間が欲しい。
Wは意を決して「すこし一人になる時間をいただけますか」とマネージャーに言った。すると何度も何度も壊れた人形のように首を縦に振り承諾が貰えた。そりゃそうだよな、とWの黒い思考が巡る。お前がうまく大会運営側と話をつけられないから俺はこんなにも疲れているんだ。怒りにも似た感情がWの頭に漂ってきたが、こんな思考とは裏腹にとても爽やかな笑顔を作り「ありがとう」と伝えた。
もう時間は夕方になっていた。帰ろうと思えば帰れるが大会の日付が月末と決まっているから早めに決めておきたい。見送ってくれたマネージャーが「雨が降りそうだから」と傘を差しだしてきたが咄嗟に出た右手のことを考えてやめた。代わりの左手を伸ばすことすらも億劫になっていることには驚いたが、この際雨に打たれて頭も右手も冷やしてしまったほうがいいのかもしれない。
裏口から外へ出ると案の定ファンたちが出待ちをしていた。大型のバスが止まっていることをいい事にファンを避けながら外路地へと急いで抜ける。ビルのダクトなどがむき出しになっているが今までの場所よりも何倍も居心地がよかった。やっと一人になれたとため息をひとつ着き、空を見上げるとどんよりとした曇天が広がっていた。低気圧のせいでズキズキと頭痛がする。なんでよりにもよって疲れている今日が雨なのだとWは足元にあった空き缶を蹴飛ばした。軽く蹴った空き缶はころころと転がっていき、路地を抜けた先のビルの玄関で跳ね返ってまたWの足元へと戻ってきた。それをぐしゃりと踏みつけると、Wの頬にひとつ雫が落ちた。
降ってきたか、と空を見上げると先ほど見た曇天は真っ黒な雨雲に居場所を追われ、泣いていた。びゅうと冷たい速い風が吹いている。もう戻ろうかとも思ったがまだ一人の時間を堪能していない。雨に濡れてもどうせ替えの服もあるしシャワーも浴びれば済むことだ。そう結論付けてWは歩いた。
目的地はない。ただ先ほどいた場所よりは遠く、静かで、できれば人が少ないところ。あたりを見るとここは寂れたオフィス街であった。ハートランドシティのようなきらきらと光に反射しているビルが立ち並んでいるオフィス街ではない。ただ長方形で鈍色のコンクリートが並ぶだけである。玄関の入り口はあれど、外から入っている会社の表札を見るがどんな内容の仕事をしているのかさっぱりわからない。使ってみたかっただけだろう意味の通じない英語の会社名、すこし宗教感がある意味深な会社名、ただ名字の後ろに会社とだけとついている会社名、エトセトラ。一体どんな奴らがどんな思いで働いているのかWにはまったくと言っていいほど検討がつかない。
雨はずっと降っている。先ほどはポタポタとしたたる数滴だけでそんな雨にはなっていなかったのに、今ではしっかりとした大雨へと成長をしていた。頬の傷がじんわりと痛みとも痒みとも言えない不快感をWに与える。頬に張り付く髪も鬱陶しい。髪を耳にかけながら、ビルのガラスで自分の姿を見ると決して東極エリアチャンピオンの男には見えなかった。薄暗い空気によって顔色すら悪く見える。右手も痛みがだんだんと増してきた。
「ハッ。」
自嘲的な笑いをするとガラスの自分も同じように嗤った。ほんの数分、傘をささずに歩いただけで見事な濡れ鼠がそこには居た。このままばっくれてやろうか、とまた普段は思いもしないことが頭を過る。恨めしそうに己の姿を睨みつめていると背後から女の声がした。
「あの、」
こんな薄汚れた場所にもファンは、女は来るのかとガラス越しにその女を一瞬睨み、すぐに振り返ると笑顔で「なんでしょう?」と訊いた。なにか、と訊いてはいるがどうせまたサインなんかを強請られるに決まっているとWは女を見る。ここらへんの鈍色のビルのように暗い色のタイトなスカートと申し訳程度に水色のチェックの入ったベストを着ていた。首元には大きめのスカーフが巻かれている。あまり雨に濡れていないところを見ると先ほど覗いたビルのようになんの仕事をしているかわからないここら辺のビルの事務員、もしくは受付嬢なのだろう。
大方、自分が歩いているのを見つけてわざわざこの雨の中駆け寄ってきたってワケね。ご苦労なことで。
心の中で女を嗤うが「どうぞ」と差し出された傘に思わず作った笑顔が崩れた。
「は、」
自分からこんなにも腑抜けた声が出るものなのかとWは数度大きく瞬きをした。目の前の女は再度傘を差し出し、思わずその乾いた傘を受け取った。受け取った右手がじんじんと脈打つが、そんなことより女の行動が理解出来ずにいた。なんと対応すればいいか考えあぐねていると、女はさらにタオル地のようなふかふかとしたハンカチも取り出してWの左手に握らせた。
「風邪引いちゃいますよ。」
女は優しく笑った。そして何事もなかったように「それじゃ」と踵を返した。
Wの考えていたシーンには一切含まれていない一連の流れに困惑しつつ、女を引き留める。
「待って、」
「?」
Wの声に、女は止まり振り向いた。
「ぜひお礼をさせて頂きたいのですが。」
とびっきりの笑顔を作り、Wは言う。水も滴るいい男、という諺が日本にあるのを知っている。その諺が見合うぐらいのいい男だということも知っている。地位も。借りなんて作るのは御免だ。ファンか定かではない女ではあるが、飛びついてくればいい。思わず戸惑いを与えられたことが苛つきに変わり、挑発的に真っ直ぐに女の目を見ると、クスッと肩をすくめて笑った。そして、
「また今度。」
ただ一言だけそう言った。そのまま雨の中を進む女の背中を見ていると、ドッと雨の激しさが増した。風も吹き、目を閉じると目の前にいたはずの女はもう消えてしまっていた。女を引き留めるために伸ばした腕が空しく雨を掴む。雨で溶けたのかとあり得ないことを考え、受け取ってしまったハンカチで目元を拭う。ふかふかとWの目元を優しく包み込み、そして香水なのかわからないが優しい花のような匂いがした。鈍色の制服を着ていた女とは思えない鮮やかで華やかな花柄のハンカチはどうにも自分には似合わない。ガラスに映る自分にさえも笑われているような気がしてWは舌打ちをすると激しい雨の中をこれまた女から受け取った傘を差して歩き出した。
あの雨の日から無事大会のイベントも終わり、仕事の話もこちらが希望した通りの流れで進み事なきことを得た。
ただ一つ気がかりなのはその時雇っていたマネージャーの「そのハンカチ、ブランドものですよね」という一言であった。可愛らしい花柄の、見るからに女物のハンカチを不思議そうに見ながら言っていたのを覚えている。ブランドもの、と聞き一体お幾ら万円なのかと興味本位で調べてみると一枚三千円ほどらしい。ものによっては五千円のものもあるのだと知り、金額としては大したものではないがハンカチに数千円か、と思うと確かにブランドものと言っていいのかもしれない。お礼を断られたこともあるし、見つけ出して借りを返してやるという気持ちがWに芽生えた。
今日はあの雨の日とはくらべものにならないほど良く晴れた日である。あの寂れたオフィス街には相応しくないほどからっとした晴天だ。再びこんな場所にくるとは思っていなかったWは大股に歩き、女を探す。似たようなビルばかり並んでいるため一筋縄ではいかない。
歩くスピードを緩め、会社名を覗いてはここではない。ここではない。と繰り返し進む。変な英語を使っていた会社名やら宗教っぽい会社名を見たのはどの当たりだったか。まずそのビルを探したい。そしてそこからまたなんとなく歩いて雨宿りがてら立ち止まっていたところであの女と会ったのだ。
そして数軒ビルを覗く奇行を繰り返して、やっとあの変な会社がたくさん入っているビルを見つけた。中には入らず、外からしっかり確認する。間違いない。そしてそのまま少し歩いたはずだ。Wはまたもしかしたらあの女から声を掛けられるかもしれないとゆっくりと歩く。傘とハンカチを渡され、引き留めようと思ったときにはもう居なかったのだからきっとこの辺りのビルに務めているはずなのだ。最初見たときも雨には濡れていなかったことからも頷ける。
Wは当たりを見渡す。しかしどんなビルに入って行ったのか会社名は何というのか全く情報がなかった。諦めかけたとき背後からまた女に呼び止められた。会えた!と笑顔で振り向くとそこには見たこともない女とその後ろにも数人の女たちがいた。Wの笑顔を浴びて、女は黄色い悲鳴を上げる。そして一人がサインを強請ると、それに続いて後ろの女たちも握手やら撮影やらと言ってきた。WはすぐにチャンピオンのWを作り「喜んで」とファンサービスに応じる。それを見てかビルの上からも撮影をしている者や声を掛けてくる者たちがいた。きちんとそれにも応じ、手を振る。この騒ぎに乗じてあの女も顔を出さないかと目で探してみるが居なかった。それどころかあの制服を着ている者たちもいなかった。
ふとWは目の前のサインを書いてやっている女に「深いグレーのような色の制服を着ている会社を知りませんか」と尋ねてみた。サインを受け取り上機嫌だった女はすこし間の抜けた顔したが知らない、と言う。その隣にいた女も同様に首を横に振った。すると別の他の女たちがそういえばと、Wの真隣のビルを指差した。その指先を追うとそこには薄い張り紙が一枚張ってあった。
「告示書、ハートランドシティ裁判所において破産宣告がされ当職が破産管財人に適任されました。本件建物及び建物内の一切の機械・動産は、当職が占有管理するものになり、みだりに立ち入り、あるいは搬出等する者は、法令により処罰されます。以上。」
Wは張り紙を読み上げた。張り出されたであろう日付は奇しくも先月末の、大会のイベントが行われた日であった。ファンサービスに満足した女たちが散り散りになっていく中、Wはただ一人そのビルを見上げた。太陽が燦燦と輝き、逆光で目が眩む。右手で光を遮ると、じんわりと痛みが戻ってきた。本当にこのビルがあの女の勤め先なのかも定かではない。嘘というより思い違いの場合もある。しかし張り紙が張ってあるガラス窓のWは「ここだぞ」と笑っている。そんなあり得ないことを頭で思い浮かべながら、ズボンの中の花柄のハンカチをくしゃっと握り潰した。
Wの考えていた筋書きはこうだ。ハンカチを返し、すこし高めのディナーでも奢ってやる。いい気分に女がなってきたら「自分としたことが傘を忘れました」と道化を演じ、再び会い傘を返す。そして女が三度目を要求して来たら笑顔で言ってやるのだ「また今度」と。
◎お題箱からいただいた設定で書いてみました。「W、ずぶ濡れのWに傘貸す女性、W探すけど見つからない」というなんともいい感じのお題に筆が乗ってしまった。W書きやすいけど書いているうちに大丈夫かな?ってなるので大丈夫でしたでしょうか。 ありがとうございました〜!