ぴょん(下)
ずいぶん長く眠った感覚があり、身体全体が心地よく痺れている。
机に突っ伏して寝ていたわりには首にもダメージは少ないようだ。意識がだんだんと冴えてきて周りの声が聞こえてくる。「お疲れ様です」「ああ」「この後どうしますか?」「俺はまだ教室に残るよ」近くで男子たちが会話をしているようだ。●●の頭の半分はまだ温かい泥のような無意識の領域に留まっている。顔を上げずに●●は様子を伺う。どうやらこの会話は●●のすぐ近く、というより隣で行われているらしくはっきりと聞こえてきた。「今の授業の内容をまとめておきたいからな」「さすがカイザー!」「俺たちは邪魔にならないように先に行ってますね」「ああ」今の会話の中に錬金術よりも驚くべき単語が含まれていた気がする。●●の知る限りではカイザーと呼ばれている男はこの学園で一人しか居ない。そんな学園のトップに君臨し「デュエル・アカデミアの帝王」と呼び慕われているあのカイザーが、自分のすぐ隣に。寝起きで温まっているはずの体温がサッと冷える。授業中の居眠りがあろうことかカイザーに目撃された。このまま寝たふりを決め込むか、すぐに起きて
しかし先ほどの会話を思い起こしてみるとカイザーはしばらくこの場に留まるらしい。授業の内容をまとめる、と言ってた言葉通り隣からはカリカリとペンを紙に滑らせている心地の良い音が聞こえている。ちらりと●●は目を細めその姿を盗み見る。背筋は天井から糸が張っているのかと思えるほど綺麗に真っ直ぐと立てられ、横顔も宮廷お抱えの芸術家が造った美人を模した彫像のように端正だ。横から見ているだけでこんなにも美しいのだから正面から見たらどんなに、と寝起きの冴えた頭で考えているとカイザーが不意に●●のほうを向いた。目線がぶつかり合い、ばちりと化学反応のように光った気がした。カイザーは一度見て視線を外すと、二度目は更に大きく目を開けて数回瞬きをした。そして小さく首を傾けながら「起きたのか?」と言った。ばっちり目が合っている。合ってしまっている。しかしどうにも「そうです起きました」とも「おはよう」とも言えず、●●はひたすらなんと言おうか悩み、冷や汗が額にぷつぷつと湧き出る。ほんの数秒のやり取りが永遠にも感じられるほどに●●の思考は停止してしまっていた。そんな●●をまだ眠たそうと思ったのかカイザーは「まだ眠いなら寝ていていいぞ」と言った。●●はカイザーの言葉を飲み、そっかまだ寝ててもいいのか、と再び目を閉じた。しかし、そんな訳にはいかない。これ以上失態は晒せない。勢いに任せて●●はがばりと起き上がった。あまりにも勢いがあるものだったのかカイザーは「おお」とすこし驚いたような感心したような声を出した。
「よく眠れたか?」
カイザーに弟がいるようなことは風の噂で聞いたことがあるが、まるで本当に兄のように優しく温かい声でカイザーは言った。いつも遠くで背中を見ている帝王の姿がこんなにも間近にあることに驚きが隠せず、●●は小さく頷くことしか出来ない。カイザーの慈しみに溢れた目と柔らかい表情があまりにも眩しく、カイザーの顔を直視出来ずに、目線を逸らせた。
「もう少しで終わる。」
そうか終わるのか。何が? ●●は首だけで教室を見渡した。いや授業が終わっているだろうことは起きた時にはわかっていたし、終わるとは、何が終わるのだろうか。何が始まっていたのだろうか。どうやらまだ脳みそが眠っているらしい。●●はカイザーの何かが終わるのをただ待つしかなかった。
授業が終わり、学生も教師も誰もないカイザーと二人だけの空間になっている教室がとても恐ろしく、とても嬉しく、とても特別なものに思える。いつも取り巻きが親衛隊のようにカイザーに付き従っているため、こうやって二人きりになどにはなれないし、女子の間でも人気の高いカイザーに近づこうとすら思ったことがなかった。人格者のカイザーのことだ。きっとこの場で話しかければ彼は快く返してくれるのだろう。仲良く、なれるのだろうか。
●●の心の中に、手に届かないものを漠然とあこがれるような想いが生成される。ほんの少し手を伸ばせば彼に触れてしまえる距離である。とんでもないことを考えていた●●は一度大きく息を吸って静かに吐き出し、自分を落ち着かせた。ふとカイザーが「よし」と何かをやり切ったような声を出して、頷いた。みんなの憧れの的のカイザーもそんな声出すのかと思いつつ、終わったのかと●●はカイザーのほうを向いた。カイザーも●●のほうを向き、また目が合った。どきりと●●の心臓が跳ね、苦しくなる。そんな●●の胸の内など知る由もないカイザーは「ありがとう」と言って、書き終えたノートを閉じて●●に渡した。あまりにも自然すぎる流れに、●●は思わずカイザーからノートを受け取った。何故ノートを渡されたのかわからないが、表紙には間違いなく●●本人の文字で「錬金術」と書いてある。
「クロノス教諭に呼び出されていたから助かったよ。」
ああ、それで。弛み切ったバネのように●●は何度も頷いた。しかし何のことかはわかっていない。何故学園の帝王たるカイザー亮が自分などに感謝をしているのかまったく理解できず●●は、起きる前の遡行を始める。確か、今日は朝起きて、一時間目から錬金術の授業で実験ではなく座学のほうだから絶対寝てしまうな・と思っていた。遅刻こそしなかったが物凄い眠気に襲われていて、前の席だと指されそうだから一番後ろのこの席に座った。でも友人は結局授業には来なくて、座学ならテストの内容も出てくるかもしれないから、せめて本のタイトルとか人物名とかそういうのだけはノートに書いて後で見せてあげよう・と思った。そしたら、友人が、隣に来て、自分は朝から頑張って授業に出ているのに寝坊か、とすこしムカついて、ノートを書く番を、任せ、た。そして、寝た。
嫌な記憶の糸がスムーズに解かれしてまい、●●は血の気が引く。ぐるりと目だけを回して隣に座るカイザーを確認するように見る。相変わらず端正な顔つきですこし口角をゆるめながら●●を見ている。
「ご、ごめん、なさい。」
「何故謝る?」
学園の宝であるあなたにノートをとらせてしまうなんて。しかも授業中自分が居眠りするために。言葉にこそ出なかったが●●の目が泳ぐ。カイザーに何故と問われ「ノート、とらせ、ちゃって」と区切りながらなんとか言葉にした。きょとんとした顔のカイザーが目をぱちくりとしている。見たことのないカイザーの顔に●●の心臓はばくばくとうるさく鳴った。なんだか今日のカイザーは不思議な存在だ。
「最初の授業の内容がわからなくなるところだったから、お互い様だろう。」
カイザーは唇をほころばせながら「ありがとう」ともう一度言った。カイザーの「もう少しで終わる」という発言は●●が頼んだ寝ている間の授業のノートのことだったのだ。頭の上から巨大な岩盤を押し付けられたように●●はずっしりと理解した。●●はカイザーから渡されたノートを何気なく後ろから開く。そこには自分の文字ではない、速さが伝わる整った文字が行儀よく並んでいた。重要そうな単語には、定規を使って丁寧なラインが引かれている。ただの授業のノートのはずがとても綺麗な現代アートを見ている気分である。授業のノートなど自分が書くときは1、2ページしか書かないが、とても丁寧に書かれたノートは数ページに渡っていた。美術館で絵画を楽しむような感覚に浸っていると、カイザーがすっと立ち上がった。ああ、そうかまだ1時間目だもんな、と●●は思う。同時に次の授業はなんだったかと考えているとカイザーが「次は体育だったな」と言った。考えていることがわかるのかと今度は●●が目をぱちくりとさせた。
「着替えがあるから急いだほうがいいかもしれないな。」
「たしかに。」
●●は素直にカイザーの言葉に同意する。そして、席を立って後ろを向きそうなカイザーに●●はやっとの思いで「ありがとう」と伝えた。カイザーは優しみが滲んでいる笑顔で「こちらこそ」と言った。後光が差しているようにカイザーはきらきらと輝いて見える。そんな眩しいカイザーを見ることがつらくなり、●●はノートに視線をずらす。活字のようなカイザーの文字が書かれているページの隣に、自身が寝ぼけながら書いた虫が通った跡にも見える文字が並んでいる。こんな不格好な文字も見られたのか、と恥ずかしさがモンスターのように襲ってきたが、ひと際目立つ蛍光ピンクに目がいった。誰だかもう覚えてもいない人物名にまるで推しているアイドルのようにハートが書かれている。なにこれ。●●の心の中にカオスが生じ、マクロコスモスのように広がっていく。そして、その人物名の下に丁寧に定規で引かれた矢印の先端があり、その引き始めの先を目で追うと達筆な文字で「好きなのか?」と書かれていた。
「ッ!!」
思わず声にならぬ声が●●の口から漏れ、盛大に心臓が跳ねた。●●から聞こえた変な声にカイザーはすこし首を傾げたが、特に気にも留めず何事もなかったようにスタスタと後ろの扉に向かって歩き出した。カイザーとの夢のような空間が終わる悲しみが●●の心を靄のようにじんわりと包むが、今は羞恥と驚愕が重石のように●●の身体を下敷きにしていた。そして扉に手を掛けたカイザーが「そういえば」と何かを思い出したかのように言った。いろいろな感情が交じり合う●●はゆっくりと後ろを振り向く。
「前髪に寝癖がついているぞ。」
センターで分けられた自分の前髪を、つんと引っ張ってカイザーは言った。
「直したほうがいい。」
どことなく諭すようにやんわりとした声だった。そう言い残して颯爽とカイザーは教室を出て行った。●●はカイザーの残したノートと共に、広い教室に取り残された。天井に備え付けられているエアコンがぶんぶんと音を立てている。風が跳ねているらしい●●の前髪をぴょんと揺らした。
この事実に慣れようとするには時間が大分必要である。
◎おむすび丸さん、リクエストありがとうございました!長くなってしまって申し訳ございません。でも初めてGXキャラの夢小説をちゃんと書きました。まさかそれがカイザーだったなんて…。なんでも挑戦してみるもんですね!これからも仲良くしてください〜!!(2025.4.15)