廊下を走る音が響く。図書室にいた私は眉を顰めて扉を睨んだ。教室ではいま、まさに講義の最中であろうに。

「ナマエ!」

派手に音をたてて、扉は外れるかという勢いで開いた。片手で扉を押さえたままの先輩は、赤い髪を乱したまま私を見る。

「…先輩、ここは図書室ですよ」
「シュタインが帰ってきた」

どこから走ってきたのか、少しばかり乱れた呼吸の先輩は私の注意を無視した。しかしいまはそんなことも気にならない。手元の本が、ぱらぱらと勝手に進んでしまうことにも気づかず、私は言葉を失った。

「シュタインが、帰ってきた。マリーと一緒に、いまこっちに向かっているそうだ」

そんな私の状況を察したのか、先輩は繰り返した。どんな反応をすれば良いのか分からない。私は、黙って視線を先輩の目から下げた。手元の本は、読んでいた文章と繋がらないページを開いている。

「そう…ですか」

角を机に当てて本を立て、私は読んでいたページを探した。けれど、文字の羅列はさっぱり頭に入って来ない。まるで意味のない記号のように、私に何も与えない。

「いいのかよ、それで」
「先輩、ここは図書室です」
「お前しかいないだろ!」

先輩は怒っている。それもそうだろうとは思う。分からなくはない。煮え切らない私たちを、先輩はやきもきしながら見ていたことだろう。待ってて、と言い残した彼が、変わらない保証なんてない。いまさら会いに行って、私が邪魔者になっていたら、どうすればいい?

「ナマエはシュタインを信じてないのか? あいつが、なんでお前に待ってろなんて言ったか分からないのか?」
「分からない。フランケンのことなんて、私はちっとも分からないよ!」

ぱたん、と本を閉じた。少々乱雑だったことを反省した。そうだ。彼のことが分かったことなんて、あったろうか。私のことはなんでも見透かして、でも私はなんにも見えなかった。はぐらかすように、哀れんだような優しい目で彼は私を見つめる。

「もっと、自信を持てよ!」

そう怒鳴った先輩は、がつがつと靴音を慣らしながら私に近づく。司書が、そろそろもの言いたげに私たちを見ていた。そんなことも気にせず、先輩は私の腕を取る。その力の強さに、私は少し怯んだ。どうして先輩は、そんなに躍起になるのだろう。
結局私は、引きずられるようにして図書室を後にした。先輩は無言だった。だから私も、何も喋れないでいた。正面玄関前には、シドとミーラの後ろ姿が先にあった。

「…ナマエ」

振り向いたミーラが何か言いたそうに、先輩に腕をひかれる私を見る。けれどそれは名前を呼ぶまでに止まった。彼女らに並んだ辺りで、私は腕を解放された。どんな顔で迎えればいいのかも分からない。盗み見た先輩は眉間に皺を寄せて真っ直ぐ前だけを見ている。ミーラの手が、そっと背中に触れた。私は前を見れず、ヌードベージュのパンプスの爪先を眺める。

「…来たぞ」

シドが、小さく呟いた。逃げたい衝動に駆られるも、ミーラの手がそれをさせない。ちらりと見上げた先に、ふたつの人影が小さく見えた。耳の奥で鳴り止まない鼓動。震える両手を擦り合わせていたら、背中の手はそのままに、ミーラの片手が私の両手を包んだ。

「ナマエ」

先輩の手のひらが、頭を乱暴に撫でる。意図が読めず見上げたら、視界の端に、彼らが、見えた。

「…フランケン、」

学校では、名字で呼ぼうって思っていたのに。
マリーが私を見て微笑んだ。それから、隣を歩く彼の背を押す。殆ど同時に、ミーラも私の背を押した。

「え、ミーラ、」
「行ってこい」

一歩、つんのめるように踏み出した私は、数メートル先にいる彼を見る。立ち尽くす私と、長い足で地面を蹴った彼。踏み出した一歩は、あっという間に私を彼のすぐそこへ連れて行った。

「ナマエ、」

懐かしい匂い。柔らかい髪が擽ったい。肩に載る額。私の名を呼ぶ、その声。自分勝手な強さで、腰と頭を抱えた手のひら。
ずっと、この日を待っていた。
待ってたんだよ。

「…フランケン」

名前を呼びながら、彼にすり寄る。閉じた瞼の隙間から溢れた涙は、目の前の白衣に吸収されていく。

「…寂しかっただろ、ごめんな」

泣きじゃくる私の頭を撫でる手。優しい指先を、ずっと、待っていた。

「もう、ナマエをひとりにしないから」

指先が髪を掻き分けて、誕生石の輝く耳朶に唇が触れた。彼が私の体につけた、唯一の傷。治癒を邪魔するピアスだって、彼がくれた。

「だから、俺と、結婚してくれ」

耳に直接流し込まれたかと錯覚するくらい、その言葉は頭を満たした。彼の額が触れた肩も、腕の巻きつく背中も、指先が触れる髪すら僅かな震えを感じる。いつだって、私のことを見透かしていたくせに。

「泣かないで、ナマエ」

あやすように、彼の声が何度も何度も名前を呼んだ。それに混ざって、ごめんね、好きだよ、と呟かれる。
もっと早く、言えば良かったんだね。先輩の言葉が蘇る。もっと、自信を持てよ。

「…フランケン」
「うん?」
「私も、ずっと好きだった」

やんわり肩を押したら、彼は少しだけ離れた。至近距離に見える私はいま、どんな顔をしているだろう?

「だから、ええと、」
「…結婚してくれる?」
「…はい。私で良ければ」
「俺は、ナマエだから、したいと思うよ」
「うん、ありがとう。私も、フランケンとじゃなきゃ嫌」

肩越しに、マリーと目があった。自然と滲み出たように、笑ったら、彼女も微笑みを返してくれた。

「…フランケン、もう行かないと。死神様が待ってる」
「…ああ」

ゆっくり離れた私たちは、少しだけ見つめ合う。それから、彼はマリーを呼び、私は振り向いて先輩を見た。先輩は笑って言った。言った通りだろ。上がった口角は、多分そう伝えたかったのだと思う。
もう離れたくなくて、離したくなくて、触れた手のひらはあっという間に私を捕らえて離さない。






やっとハピエン