「ナマエは俺を困らせる天才だね」

長い指が髪を掻き上げる。白衣のポケットからつまみ出した造花の髪留めで髪を留められれば、視界が開けた。うん、可愛い、と笑う彼がなんとなく気に食わなくて顔をそらした。こんなもので機嫌を取ろうなんて、その手には乗るか。

「そんな顔しないで」

屈んだ彼が覗き込むように顔を傾けたから、私はさらに顔をそらす。視界の端に映るのは、微笑んだまま溜め息をつくシュタイン。指先が頬に触れる。

「マリーとは何もないよ」
「あったら別れる」
「俺にはナマエだけだよ」

そうやって。そうやって、優しい言葉で許してもらえると思ったら大間違いだ。
どうしたら許すかなんて、自分でもよく分かっていないけど。けど、嫌なものは嫌だった。訪ねる頻度はぐんと低くなって、それでも偶に会いにいけば、少しずつ勝手の変わっている彼の研究所。少しずつ失われていく私の居場所。だんまりを決め込む俯きがちな私の、頭を優しく撫でる手のひらは誰のもの?

「…マリーに出て行くように言おうか」

判断を私に委ねる言葉はずるい。仲良くしている彼女に嫉妬しているのは良心が痛む。本当なら、私の恋人に近づかないでって言いたい。けれど、プライドが許さないし公私は弁えるべきだとも思う。
色んなところで屈折した感情は、どこへもゆけず私を醜くする。彼の心を疑うのも、自分が酷く醜く愚かな生き物に見えてならないからだ。どちらにも良い顔なんて、気が狂うんじゃないかってくらい、難しくてできやしない。

「…いい」

搾り出した声はいかにも拗ねた子供で、私はまた自尊心を失う。わがままだけど、独占欲が強いけど、それでも分別くらいはまだあるんだって、思っていたい。

「…いいの?」
「いい」
「ナマエが出て行って欲しいって思うなら、そう言うよ?」
「いい」

首を横に振る。なんだか酷く自分が莫迦みたいで嫌になった。ふたりを信じられない自分にも、嫌になる。

「ナマエ、」

ぽんぽんとあやすように触れる手のひら。素直に喜べない自分が、嫌でたまらない。

「ごめんね」

なにが、と反射的に飛び出そうになった言葉をなんとか飲み込む。見上げた先の、彼の優しい顔に良心がずきずき痛む。

「嫌な思いさせて」
「私、私の方が」
「そんなことないよ。ナマエは優しいから、すぐ我慢するのに」

気づいてやれなくてごめんね、と呟く優しい声が痛くて目をそらした。優しくなんてないのに。手のひらにされるがまま、頭を撫でる手は止まず、胸板に押しつけられるように引き寄せられて、自責の念ばかり募る。

「ナマエは悪くない」

首を横に振ったけれど、彼は多分、微笑んだまま。泣きそうなのが悔しくて仕方なかったけど、喉の奥が張り裂けそうなくらい痛かった。

「ごめんね、愛してるよ」

堪えきれずに涙が零れて、震える肩を強く抱く手のひらが温かくて、次から次へと溢れて白衣に染みていく。声を上げないように、最後に残った僅かな自尊心がそれを必死でせき止める。ゆるゆると腕を曲げて髪留めに触れた。柔らかい偽の花弁。

「…これ、ありがとう。とっても嬉しい」

やっと、言えた。