不倫、悲恋風味
「どちらかなんて選べない」
「…うん」
「俺は我儘かな?」
とっても、という言葉を飲み込んだ。背中に感じる彼の肌は僅かに汗ばんでいる。いつもは冷たいのにいまはとても温かい。髪を撫でる指先が心地よい。これはとても許されないことだというのに、彼は酷く優しい。平素の彼からは想像できないくらい甘く、唇が私の首筋を這う。終わらないで、と願いながら、終わらせなければ、と傷ついてる。あなたも、私のように傷ついてるの?
…
視線が痛い。喫茶店でクラシックを聴きながら文庫のページを繰っていた私の向かいに、とても苦手な人が座った。何しに来たの、という言葉は無視されてしまった。どうしていいか分からずに読書を続けることにした私を放って、榎木津はコーヒーを頼んでいた。私の頼んだミルクティーは温くなってきている。
「君はまだそんなことをしているのか」
だから苦手なんだって。ページはまるで進んでいない。本当は、読書のふりをしていただけ。視線が痛い。仕方なく榎木津を見た。
「そんなことは辞めろ、と言っただろう。忘れたのか」
「なんのことですか」
「とぼけるつもりかい」
温い、ミルクティー。舌に甘味が残る。人形のような顔が私を責める。私は視線を反らして押し黙った。
「あいつはなんて言って君をたぶらかしてるんだい」
「たぶらかしてなんて、」
「そうだろう」
静かな店内を意識して、小さな声で反論するも彼には通じない。
「彼、彼は、…選べないだけよ」
「君はそんなことを信じてるのか」
莫迦にしたような口調で彼は片眉を上げた。信じてる、というより、信じたいのだ。私は。彼は私を完全に信じさせてくれる。
「そんなものは嘘だ」
「嘘なんかじゃ」
「嘘だ。京極も、なまえには随分優しいな」
聞きたくない。
「そんな嘘まで吐いて」
言わないで。
「なまえが傷つくのは変わらないのに」
榎木津が長い腕を伸ばした。彼より柔らかい肌が頬に触れる。振りほどくも、榎木津はしっかり私の頬に手のひらを添えた。
「どうして僕にしない」
「えの、」
「どうして、僕にしないんだ」
榎木津は唐突に立ち上がった。私の手を強く引くから、嫌といえずに急いで文庫を鞄に戻して掴んだ。レジカウンターに伝票と、紙幣を置いてドアへ大股に進んだ。釣りは要らない!と榎木津が叫んで、店主は慣れたように有難う御座いました、と眼鏡を押さえた。
「ちょっと、榎木津さん、どこへ」
無言で私は走るように続いた。引っ張られる手が痛い。榎木津は路地裏に入り込んだ。
「えの、」
乱暴に壁に押し付けられる。背中が痛い。鳶色の瞳が、歪んでいる。私のせい、だなんておこがましい。どうして彼も榎木津も私に優しくするんだろう。
「僕にしろ」
思考を切り裂く声が聞こえてゆるゆると顔を上げた途端に唇が塞がれる。角度を変えた榎木津の舌が、無理に入り込むのを拒めなかった。
「っは、どうして」
「どうして?」
「どうして、榎木津さんは」
「なまえが傷つくのを見たくないからだ」
私の言葉を飲み込むようにまた唇が合わさる。都合のいい。流されている。私は。優しければ誰でも良いみたいだ。
「なまえが言えないなら、僕から京極に言う」
「…なんて?」
「もうなまえに構うな、傷つけるな」
愛してるって嘘吐くな。ああ、やっぱり。私の思い違いではなかったのか。愛してるなんて、嘘だって。私が自分に焦がれているのを知ってて。私が傷つくのも、きっと分かってて。それなのに。本当に愛してた。本当は愛してた。