私が高校に入学したときには既に、中禅寺先生は結婚していた。けれど私は最初に先生の授業を受けた瞬間から、いまのいままで、そしてきっとこれから先も先生が好きだと思う。恋だとか愛だとかとは違う。もっと神聖な、川底まで見透かせる水のような、青より緑に近い海原のような、清純さを称える感情。儚く美しい母や姉、厳しくも優しい父や兄へ抱くような、柔らかい好意。それらによく似ている。

「中禅寺先生!」
「ああ、みょーじ君か。…卒業おめでとう」
「有難う御座います!」

珍しく先生が口角をやや上げている。それだけで私は酷く嬉しい。

「帝大に進むとは、先生も鼻が高いよ」
「またまたぁ」
「本当に、そう思うよ」

家族に認めてもらえたときのような充足感が胸を擦る。先生は優しい。表情に乏しく、いつも不機嫌に見えるけれどそんなことはないのだ。先生はどんな質問へも確かな解答をくれる。だからこそ私は勉学の楽しさを学び、帝大に受かったのだと思う。

「有難う御座います。先生が誉めてくれるなんて珍しいですね」
「優秀な君のことはいつも誉めていたと思うけどなあ」
「そうなんですか?」

気付かなかった。勿体無いことしたなあ、と冗談に聞こえるように発した。それは勿体無い、と先生も調子を合わせるようにふわりと返す。ざあ、と桜が風に揺れる。花びらはあまり視界を占領しないけれど、先生がよく見えるからその方が良い。

「先生、また分からないことがあったら聞きに来てもいいですか?」
「優秀な教授が沢山いるのにかい?」
「私の中で、一番の先生は中禅寺先生ですから」

笑った、気がした。初めて見た気がした。視界を奪うように風が凪いで、花びらが舞い、黒髪が乱される。ああ、邪魔を、しないで。先生は拒絶するだろうか。私の些細な賭け。恋でも愛でもないと思う。信仰心に近いかもしれない。強いていうなら憧憬だ。名前なんて必要ないけれど。

「構わないよ。いつでもおいで」

ぽんぽん、と先生の手が触れる。やっぱり母に誉められたときのような、父に認められたときのような、もどかしくて擽ったい感情だ。後ろから私の名を呼ぶ声が小さく聞こえた。惜しいとは思わない。そんな狭隘な感情じゃない。

「もう行きなさい。みょーじ君を呼んでいるようだ」
「はい。…中禅寺先生、」
「なんだい?」
「いままで有難う御座いました!」
「ああ、」
「たまに会いに来ます!それじゃあお元気で」
「みょーじ君こそ、身体に気をつけて、しっかり勉学に励みなさい」
「はい!」

一瞬よりは長く、先生を見詰めて、私は踵を返した。手を振る友達に手を振り返す。彼女たちと校門へ歩を進めながら、一度振り返る。桜色の中で黒く存在を示す先生はまだそこにいた。手を振る。小さく振り返してくれたのを見届けて、私は思い出深い高校を後にした。