月が高い夜、空から兎が降りてくる。見上げた今日の月は、左下を少し削がれながらも円に近い形をしていた。梅雨入りしてからどんより重たい雲に覆われた空に、久しぶりにそれは顔を覗かせる。宇宙で海賊やってる、という言葉はどこまで本当なのか分からないけど、確かに不思議な人ではある。小さな小さな月を眺める。手ぶらでいいから降りて来ないかなあ、と毎日思う。今日は久しぶりに月が見えたから。降りて来ないかなあ、私の愛しい兎さん。指紋をつけないようにと触っていなかった窓ガラスに、こつん、と何かが当たる。訝しく思い視線を下げた。塀の上にしゃがんだ人影に驚いて、私は慌てて窓を開けた。
「どーしたの、浮かない顔しちゃって」
「神威さん!」
せっかく神威さんは小さな声で喋ってくれたのに、私はびっくりしたまま名前を呼んでしまい、慌てて手のひらで口を覆う。塀を蹴る音が聞こえて、神威さんが窓枠に足をかけた。海賊にはこれくらい大したことでないらしい。
「や、久しぶりだね」
「お、お久しぶりです」
上がって、と言いかけたのを神威さんが遮った。あまり時間が無い、と言う。寂しいけど仕方がない。左手で窓枠の上部を掴んでいた神威さんが、右手を差し出す。よく洋菓子が収められているシンプルな四角い箱。
「なまえにあげる」
「いいの? ありがとう」
「地球の食べ物じゃないから口に合うか分からないけど、美味しかったよ」
「うん、とっても嬉しい」
良かった、と目を細めて笑う神威さんを見ていて、私も渡すものがあることを思い出す。ちょっと待って、と声をかけ、テーブルに神威さんからのお土産を置き鏡台の引き出しを開けた。
「この前、京都に行ってきたんです。蓮華王院本堂」
「うん?」
香り袋と一緒にしまっていた御守りを取り出し、窓枠に座り足をぶらぶら揺らす神威さんの元へ近づく。
「それで、神威さんの分も御守り、買ってきたんです」
手、出して、と言えば神威さんは白い手のひらを寄越す。文字が読めるように神威さんへ向けて、濃い紫の御守りを載せた。
「…身代守?」
「はい。神威さんの身に何かあっても、この御守りが代わりになってくれますようにって」
神威さんはぎゅっ、とそれを握り締めた。それから、私の上半分の髪を留めていた髪留めに触れる。艶々光る中に見たことのない花を閉じ込めたそれも神威さんがくれたもの。
「ありがと、なまえ。嬉しいよ」
「本当ですか? 良かった」
「それにこれ。…似合ってるよ」
「ありがとう。神威さんがくれるもの、素敵なものばかりだから」
神威さんは御守りの収まった右手を、握ったり開いたりしている。少し寂しそうに笑う神威さんと見つめあったまま、どうしていいか分からないでいると、下から神威さんの名前が呼ばれた。
「…もう行かなきゃ」
「…また、待ってるね」
「うん、近いうちに来るよ」
「…うん、気をつけてね」
するりと神威さんの左手が頬を滑り、音もたてずに地上に降り立つ。見えたのは、揺れた薄桃色の三つ編み。見事に着地した神威さんが手を振っていたから振り返す。迎えにきていた男の人に会釈されて、私も頭を下げた。大股で遠ざかっていくふたりが見えなくなってから窓を閉める。お土産の箱の中には、ケーキやプリンアラモードに似たものが入っていたから冷蔵庫にしまった。もう寝よう、と髪留めを外す。飾りがしゃらん、と小さく鳴って、少しだけ泣いた。
*
「みてみて、御守りだって」
「…良かったじゃねえか」
「俺の身代わりになってくれるんだって」
「…また会いに行ってやれよ」
「しかもこれ、なまえの匂いする」
紐を掴んで目の前に持ち上げる。歩く速さに合わせてふらふら揺れるそれから、僅かに漂う香り。身代わり。俺の、身代わり。
「あー、もういっそ連れてきたい」
月を見上げて呟いた言葉に、阿伏兎は何も言わなかった。
こんなはずじゃなかった