湯の中から足を上げて、バスタブのふちにかけた。マゼンタカラーの大きな花びらがふくらはぎにはりついている。巨大なバスタブには湯が張られていて、誰の趣向か、大量の花が浮かべてある。それはむせ返るような芳醇な香りを放っていて、私は深く息を吸ってそれらを取り込む。一面の窓ガラスの向こうには、美しく手入れの施された庭が作り物のような色合いで白んでいた。ふう、と息を吐く。メイドが運んできた、ブランデーグラスを手に取る。ベリーの粒がいくつも浮かぶスパークリングウォーターをピンクのストローで吸い込む。体温の上がった体に、冷たく冴えた感覚が喉から落ちていった。バスタブのふちに頭を乗せて、天井を見上げる。シャンデリアが眩しくて目を閉じた。気分は、浮かない。
手早く髪と体を洗い、バスルームから出れば案の定メイドがふたり待っていた。いつもそうだ。いつも彼女たちが私の身の回りの世話をする。彼女たちは無言で、ひとりはふかふかのタオルを、ひとりはふわふわのバスローブを持ち、私のもとにやってくる。
「こちらをお召しください」
肩にかけられたバスローブに腕を通す。いつもの巨大な鏡の前に座らせられ一通りのスキンケアの後、ふたりがかりで長い髪にドライヤーを使う。彼女たちは表情を変えることなくそれらを済ませ、私の髪を緩く巻く。
「お食事をご用意してございます。お着替えを済まされましたら、お出でくださいませ」
「…はい」
揃って頭を下げて彼女たちは出て行く。私はバスローブを脱いで、下着を身につけてワンピースを纏う。イスにはかけずに、鏡の前で薄化粧をしてそこを出た。
「…相変わらず大げさじゃない?」
「最上級のもてなしだ、ご気分は?」
「…良くも悪くもない」
彼はいつもの笑い方で肩を震わせる。彼の寝室にはもう一通りの料理が並んでいた。私は仕方なく、彼の向かいにかける。シャンパングラスをつまむと彼もそうして、かちん、とグラスを合わせた。私が小さな声で乾杯と言ったことが面白かったのか、彼はまた笑って、私は眉をひそめる。
私が彼とこういう関係になったのは、もう何年も前のことだった。彼に声をかけられて、断ることなんてできるはずもなく、ずるずると名前もつけられないような間柄のまま。彼に呼ばれると、まずメイドたちにバスルームへ連れていかれるのだ。身を清めるこの儀式はその後に起こることを否が応でも思い出させる。
食事のほとんどを彼に食べてもらい、デザートにありつく。これだけは、結構お気に入りなのだ。
「ナマエ」
「なあに、ドフラミンゴ」
「うまいか?」
「ええ、最高よ」
これを食べ切ったら。またあの、甘美で恐ろしい時間がやってきてしまう。薬でも仕込まれているのではと勘繰ってしまうほど、うっとりする時間。いつか、この正気さえ失ってしまうのではないかと思う。彼が私の名前を呼ぶだけで、私の体は私のものではなくなってしまう。
「ナマエ」
そっと、デザートスプーンをテーブルに置く。その手が震えた。いままで食べた、どのデザートやスイーツよりも甘ったるくて、中毒になるその声が私の名を呼ぶ。恐る恐る顔を上げる。鋭利な口角が、私の心臓に突き刺さる気がする。がたん、と彼が席を立って、私の座る椅子を引く。残っていたシャンパンを飲み干して、私は立ち上がる。
…
目が覚めると、隣に彼はいなかった。柔らかくて軽い掛布がすっぽりと私を覆っている。部屋の向こうで、水の音がする。きっと彼がシャワーを浴びているのだろう。起き上がって部屋を見渡すと、そのままだったはずのダイニングテーブルが綺麗に片付けられていた。代わりに、ミルクとオレンジジュースのデカンタがグラスとともに置いてある。これもいつものことだ。ベッドにかけたまま掛布を抱いてぼうっとしていたら、彼がバスルームから出てきた。腰にタオルを巻いただけの彼が、私に笑いかける。
「お目覚めか、プリンセス」
「…やめてよ」
「ミルクか? オレンジジュースか?」
「…オレンジジュース」
そう言うと彼は、ティアドロップグラスにジュースを注いでベッドまで持ってきてくれる。冷えたそれを乾いた喉に流し込めば、昨日の倦怠感を振り払うようでグラスを大きく傾けて飲み干す。彼が手を出したので、空のグラスを渡す。それをテーブルに戻しに行く背中の精悍さに、目が離せなかった。あの体に抱かれる、幸福と、それが自分だけのものにはならない、不幸を、私は唾液だけで嚥下する。
「ナマエ」
差した影に見上げると、彼が屈んでベッドに手をつくところだった。そのまま、唇を重ねる。そのまま、なし崩しに彼がベッドに沈んだ。何も身に纏っていない体に、また彼が触れる。乱暴な手つきで掛布を引き剥がし、その辺りに投げて、朝の空気にさらされた体がふるりと震える。合わせた唇から舌が割り込み、逃げた私のそれを彼のそれがあっけなく捕まえ絡みつく。首筋にそえられた手が撫でるように肩を下り、腕をさすった。縋るように腕を伸ばせば、彼の手が胸に触れた。まだ明け方の余韻が残る体に、ぼうっと熱が灯る。逃れられない。そう思いながら、彼を受け入れる。
それからしばらくして、彼は私を解放した。ベルを鳴らすと昨日のメイドたちがやってきて、バスルームの用意をする。バスタブにお湯がたまったことを知らされると、彼が私を横抱きにしてバスルームへ運び、真っ白な泡が溢れるバスタブの中におろした。彼は額にひとつ口づけを落とし、去っていく。
メイドたちが、泡の中に深く沈んだ私の髪を濡らし、洗い出す。心地よい手つきに、私はまた微睡みを覚える。
「ねえ、」
「…」
「ねえってば」
「…はい」
メイドたちは、一度私の言葉をやり過ごした。喋るなと言われているの?と問えば、余計なことは言うなと申しつけられております、と機械のような音が返ってくる。
「…彼はいつもこうなの?」
「…それは…」
「…女を呼びつけるたびに、こうさせているの?」
髪を洗う指が、一瞬止まって、彼女たちは口を閉ざしたまま。両手で泡を掬って、息を吹きかける。細かな泡が、ふわ、と宙を舞い、はらはらと落ちていく。バスタブがあまりにも大きいものだから、頭まですっぽり沈んでしまいそうだ。彼女たちの無言が、何を意味しているのか私には分からなくて、目を伏せる。
「私…ドフラミンゴのなんなのか、知ってる?」
小さく呟いた言葉は、広いバスルームに少しだけ響いた。どちらかの指が顎にそえられ、上を向かせられる。顔や耳にかからないように手をそえられながら、温い湯が髪の泡を流していく。目を閉じた。細く長く息を吐き出す。丁寧に流されたあとに、トリートメントとおぼしきものを髪に塗られ、ひとまとめにされる。彼女たちが後片付けをしたり、飲み物を持ってきたり、忙しなくしているのに、私は口元まで泡につかる。彼の、感触の残る体。まだ、腰や足に彼の重みを錯覚する。目を閉じて忘れようとしていたら髪を解かれ、顔の泡を拭ってまた上を向いた。湯のかかる髪がさらりとした感触に変わったのが分かる。シャワーの音が消えると、辺りは無音に沈む。
「若様が…」
「…え?」
「…このようなおもてなしをされる方は…ナマエ様しかおりません」
「…」
「寝室にお通しになるのも…いまではナマエ様だけでございます…」
その囁くような声に私は振り返ることができなかった。声の主はすぐにもとに戻り、あちらでお待ちしております、と告げてバスルームを出た。どちらか分からないが、彼女の言葉を反芻する。そこから導き出される答えが、あまりにも私に都合の良いもので怖い。でも、無性に彼に会いたくなって、私はバスタブから出た。