彼があからさまに不機嫌になっていたことを思い出していた。溜息をひとつ吐いて、この関係が自然消滅することを願う。小さな部屋の、小さなキッチンで私は数日前のことを思い出しながらウィスキーに搾るレモンを切っていた。レモンの、あの甘酸っぱい香りが切り口から広がる。余った分は小瓶に入れて、ハチミツに浸す。それを冷蔵庫にしまい、グラスに氷をひとつ入れてウィスキーと炭酸水を注ぐ。薄切りのレモンを搾って、氷とグラスの隙間に落とした。指先についたレモンの香りが離れない。
懲りないなと思う。思い出したように、彼はあの話題を繰り返した。ドフィと呼べ。私が断ることを分かっているはずなのに、といつも思う。私はいつも同じ文句でそれをはね除ける。昔の女と同じように呼ぶのは嫌よ。
いまさら、そんな惨めなことができるのだろうか。私には絶対にできない。それは絶対に私を幸せにはしない。グラスを持ったまま、ソファーに深く沈み込んでいた。蛍光灯が眩しい。カーテンを閉め忘れた窓の外はもう濃紺に沈み、果てに見える小さな月だけが白くくり抜かれている。窓がカタカタ鳴った。風だろうか? そう考えたところで体中に恐ろしい予感が触れた。ドフラミンゴが近くにいる。強張った体のままそう直感したその瞬間に、玄関ドアを誰かがノックした。

「ナマエ」

グラスの水面が揺れていて、私は手が震えているのを自覚する。地獄の底から聞こえたような声に私はまた絶望した。ウィスキーをひとくち煽る。これっぽっちもアルコールを感じられないまま、その液体は喉を滑り落ちた。

「ナマエ」

逃れられないことを察して、私は震える手でグラスをテーブルに置く。カーディガンを羽織っているのに寒い気がした。恐ろしい気配のやまないそこへ向かい、ゆっくりとドアを開けた。遥か上にある顔。見上げた先では、ドフラミンゴが鋭利に笑っている。笑っているけれど空気が重くて、震えがおさまらない。それでもどうにか、短い言葉をしぼり出す。

「…わざわざどうしたの」
「顔が見たくなってな」
「…うそ」
「嘘じゃねえよ」

彼が一歩踏み出す。距離を置きたくて一歩下がる。最後に会ったときのことを思い出して、まじまじと顔を見つめるけれど、そんなこと忘れてしまったのではないかと思うほどいつも通りで、それはそれで怖かった。
ドフラミンゴがこの家に来ることは少なかったというのに、さも当たり前のように小さな家の、ふたりがけのソファーにどっかり掛ける。私がひとくち飲んだだけのレモンハイボールに気づいた彼が、ためらうことなくそれに口をつけた。

「…ドフラミンゴ、」
「座れよ」
「…あなたひとりで定員オーバーよ」
「ナマエ」

彼が自らの太ももを叩く。座れということだ。私はためらう。ドフラミンゴがもう一度私の名を呼んだ。今日呼ばれた中で一番、恐ろしい色をしていた。彼の飛ばす気配だけで、心臓を体ごと握り潰されるのではないかと思うほど強くて、唾を飲んだ。

「おれが手荒なマネをする前に言うことを聞いてくれ」

怖くて仕方がないのに、言葉だけが優しくて本当に困る。彼はいつもこうなのだ。私たちを、私を、どうにでもできるだけの力や権力を持っていながら、そしてそれをちらつかせながら、けれど決して行使することはなかった。私にも。侍らせているたくさんの女たちにも。
私はそろそろとソファーに近づく。なんとかソファーに座りたかったけれど、思った通りそんなスペースはなくて立ち尽くした。彼はもう一度、自身の太ももを叩く。私は小さく溜息を吐いて、その手に従った。椅子のように安定したそこに座ると、すぐに彼が腰に腕を回す。簡単に振り解くことができそうな力加減なのに、絶対にそんなことできやしないという絶望に打ちひしがれながら彼の顔を見上げた。濃い赤のレンズの向こうを、私は一度も見たことがない。

「どうしてもおれの女になる気はないのか?」
「そんなこと、私、言われた?」
「頑なにドフラミンゴと呼ぶだろ」
「あなたの女になるには、ドフィと呼ばなければならないの?」
「…そうとは言わねえ」
「言ったでしょ、昔の女と同じようにあなたを呼ぶ気はないわ」
「強情だな」
「これ以上惨めになりたくないだけ」
「…分からねえな」

私はあなたの素顔も知らないのよ。そう目に込めて、ドフラミンゴを見上げた。目が、合っているのかも分からない。彼は誰のものでもないのに、誰かのものでもある。そんなの、絶対に許せない。
目を伏せて、彼の胸に寄りかかった。ほとんど日替わりで、どこかの女がこうしている。こうして会いにきてくれるだけで、本当は喜ばしいことだった。そんなの分かっている。けれどそれでも、私は幸せになんかなれやしない。

「私、あなたといても幸せになれないと思う」
「…幸せの定義は?」
「私だけが愛されることよ」
「ならすぐに幸せになれる」
「…それはまやかしよ」

ドフラミンゴに、愛の何が分かるというのだろう。私は不遜にもそう思う。彼は、たぶん愛から一番遠い存在だ。小首を傾げた彼は、眉間にふたつ、皺を増やして私を見た。腰にかかる指が、痛い。その顔を見れずに、私は顔を伏せた。

「ドフラミンゴ…それは愛じゃないのよ」
「どうしてそう思う?」
「あなたが私に抱いているのは愛じゃなくて執着よ。私が、他の女たちのようにあなたに靡かないのが気に入らないのよ。私に固執しているだけで、それは愛なんかじゃない」
「おれの愛は、おれが決めるさ」
「…それが愛でもそうでなくても、私はあなたを受け入れられないわ」
「…理由は?」
「あなたといても惨めなだけよ…あなたたちがなぜ別れたのかは知らないけれど、私は永遠に美しい思い出を超えられない」
「なあ、ナマエ…」
「これからどれだけ一緒にいても、私はあなたたちの時間を超えることはできないのよ。私、そんなの惨めでたまらない」

こんなことを思うだけで惨めだった。彼女が私を嘲笑っているようにも思えた。彼が侍らせる女たちにも笑われているようだった。それは私が過敏になっているからかもしれない。私に自信がないからかもしれない。ドフラミンゴがどれだけ理解してくれるかは分からないけれど、私は口に出すことも憚られるような恥ずかしい気持ちを、なんとか適当と思われる言葉を探し出しては繋いでいく。
私がこの気持ちを自制して、自発的に彼から身を引く。それが私にできる唯一の強がりで、私の心の中にいる彼女らへの抵抗だった。私が健全な心で生きるためには、ドフラミンゴから離れる必要があると強く感じている。
ドフラミンゴは何も言わない。見上げた先の強面はただまっすぐ月の浮かぶ夜を眺めている。夜は何も言わない。すべての声と音を吸い込んで、辺りに沈黙を撒き散らす。夜が、終わらなければ良いのに。それか、夜が来なければ良いのに。そう思いながら、私も窓の外を見ていた。忘れ去られていたグラスの中の氷がカチン、と音を立てた瞬間、静寂は突如切り裂かれて、私は肩を震わせた。ドフラミンゴの怒気が迸っている。押さえつけられるような圧力を感じて、動けなかった。

「残念だ、ナマエ」
「…ドフラミンゴ?」
「交渉決裂だな」
「何を…」
「本当はな、ナマエの意思で決めて欲しかったんだ」

私を見下ろしたドフラミンゴは、ひどく優しい顔をしていた。まるで、私がひどいことをしているみたいだった。私が意地悪をしているみたいだった。何も言えない。心の中に、ぽっかり穴が空いてそこからすべて流れていってしまったようだった。まだ残っていた、彼の名を呼ぼうと、少し開けた口から息を吸い込んだとき、しゅるしゅる、と私の口を塞ぐように糸が幾重にも巻きついた。覚悟していたとはいえ、恐怖のあまり、私は彼のピンク色の柔らかい羽織を掴む。それを振り解くことはせず、ドフラミンゴは優しい眉間と口元のまま、私を抱え上げた。

「ナマエはおれのものだ。ナマエがなんと言おうと、もう決めたことなんだ」

含んで言い聞かせるように、ドフラミンゴは囁く。抱え上げられた両手首と両足首にも、糸がかかる感覚がして目をやった。きつく締め上げない代わりに、もがいてももがいても、それは私の自由を返してはくれない。彼の意図がよく分からなくて、縋るようにその顔を見た。ずっと笑顔のままの口角に、私は一抹の罪悪感を覚える。

「ナマエがおれを選ばなくても」

囁く声が小さすぎて、その先は聞き取れなかった。ドフラミンゴは、夜を切り取る絵画のような窓に背を向ける。同じものを見ていたはずなのに、きっと違うものを見ていたのだろう。どうしてこうなってしまったのか、私には分からない。私がどうなってしまうのか、それも私には分からない。私はあらゆる抵抗を諦めて目を閉じた。肌に触れた夜の冷気を遮るように、ドフラミンゴは羽毛の中に私を閉じ込める。