戦争孤児である私が、なんの気まぐれかジャッジ様の手でジェルマ王国に持ってこられ、召使いとして働いていることは人生最大の不運だったと思う。王族は、自ら以外をヒトと見做さぬような人たちでその機嫌ひとつで大怪我を負うこともあれば、死んでしまうことだってあった。
ジャッジ様は恐ろしい人ではあるけれど私たちのことなどそもそも眼中にないし、イチジ様もそれと同様、王族としてのプライドが高く召使いである私たちに興味すらない。ヨンジ様も恐ろしいことには代わりがないけれど、その他の人に比べればまだ幼さというか、善も悪もない無邪気さが強く、大きな子どもと思えるときもあった。一番厄介なのが、ニジ様であった。
「おい、ナマエ!」
「っ、はい! ニジ様…いかがなされましたか」
「シーツに皺が寄ってるぞ」
「も、申し訳ございません」
「召使いのくせに、こんなこともできねえのか」
長い廊下につけられた窓の数は膨大で、私は朝からひたすら窓枠の掃除をしていた。時刻は昼前、今日は二階分の掃除を予定していて、ようやく半分が終わろうとしていた。内側は埃を払えば良いものの、外側の窓枠はどうしてか茶色いゴミが溜まるのだ。脚立の足元にお湯を汲んだバケツと、それにかけられた雑巾、私は脚立に立って背伸びをしながら窓の上に雑巾を滑らせていたら、突如背後のドアが開きニジ様が大きな声を出した。今日のベッドメイクは私の担当ではなかったが、反論することは許されない。雑巾を握ったまま脚立を下りて、ニジ様の正面に立つ。
私はどうやら目をつけられてしまったようで、ニジ様は私を名前で呼ぶようになった。召使い女、と言うと私以外にも振り向く人があるからだ。
「申し訳ございません」
私は雑巾を両手で握ったまま頭を下げる。左肘の辺りを、思い切り掴まれて身を縮めた。ニジ様は、よく暴力を振るう。自らの力が、人を傷つけることなど容易いものであると知りながら、ニジ様はその手に力を込める。痛い、と言うことも許されず、私は下を向きながら骨が折れるのではと思うほどの力を耐える。申し訳ございません、を繰り返しているとふと力が抜けて、腕が解放された。痺れたように力の入らない腕をこらえながらニジ様を見上げる。
「三時のチョコはお前が持ってこい」
「はい、かしこまりました…大変申し訳ございませんでした」
ニジ様はくるりと踵を返して自室に戻ってしまう。ドアが完全に閉まるのを待って、私はその場に崩れ落ちた。腕が痛い。今日こそ殺されるのでは、とも思った。なんでこんな目に遭わなければならないのだろう。涙を堪えながら立ち上がり、窓掃除を再開した。
三時にニジ様のお部屋におやつをお持ちするために昼休憩を返上して窓掃除を終わらせると、まだ余裕があった。同僚が取っておいてくれた昼食を食べようと温めている間に左袖をまくる。肘の辺りにはくっきりと赤い手形がついていた。溜息を吐いてそこをさすっていると、隣の厨房で夕食の仕込みをしていた同僚に声をかけられた。
「ニジ様にやられたの?」
「そうなの…シーツに皺が寄ってるって。今日は私が担当じゃないって知ってるはずなのに…」
「どうしてナマエにだけきつく当たるのかしら」
「分からない…」
隅でひとり遅めの昼食を摂っていると、ニジ様のおやつの支度が始められる。本当は別の召使いが伺う予定だったが、ニジ様に命じられた旨を話すと快く交代してくれることとなった。私がニジ様に目をつけられているのは、周知の事実だった。ジャッジ様は分からないが、イチジ様もヨンジ様もご存知でイチジ様こそ何も言わないもののヨンジ様にはからかうように絡まれることが増えてさらに肩身が狭い。
食器を洗い、洗面所を使ってからニジ様の紅茶の用意をする。スイーツ担当のコックがたくさんのチョコが載ったケーキスタンドをワゴンに載せる。甘い匂いが立ち上る。一秒たりとも遅れてはならないので、早めに厨房を出た。コックたちが、気をつけてね、と私の背に声をかける。行きたくない気持ちが私の足を重くさせたけれど、幾度も懐中時計を確認しながら部屋に向かい、時間通りにドアをノックした。
「入れ」
「失礼いたします」
ドアを開けてワゴンを中に入れる。ニジ様は窓際の椅子にかけていた。目の前のテーブルにケーキスタンドを用意し、紅茶を注ぐ。そつなく支度を終えた安堵に漏れそうになった溜息を飲み込んで一礼し、立ち去ろうとしたのをニジ様が阻む。
「ナマエ」
「はい、ニジ様」
「そこに座れ」
「…はい、ニジ様」
椅子はニジ様の目の前にある一脚しかなく、床に座れという意味でなければ、と私はその椅子に浅くかけた。心臓が早鐘を打つ。次は何を要求されるのだろうと、ニジ様を伺い見た。ニジ様は紅茶をひとくち啜り、チョコをひとつ取って口に放り込んだ。
大きな窓からは空と海が見えた。今日は天気も良く、海も穏やかだった。明るすぎて白っぽい空に海の濃い青が際立って、波打つ度に太陽を跳ね返してキラキラと美しい。
「ナマエ」
「は、はい、ニジ様」
余所見をしていたことを咎められるかと、肩を竦めるもニジ様は私の方に顔を向けたまま何も言わなかった。ゴーグルの奥がどうなっているかを、私は知らない。
「チョコは好きか」
「え…はい、大好きです」
「好きなの食え」
「えっ?」
「一回で聞けねえのか」
「あ…いえ…でも、こちらはニジ様のおやつですから…」
「そのおれが食えって言ってんだろうが」
「はい…いただきます…」
苛立つ口調にそれ以上食い下がることができず、震える指で一番近くにあったチョコを一粒摘まむ。恐怖で乾いた口の中にそれを入れた。外側のチョコに歯を立てると、割れ目から甘酸っぱいソースがこぼれ落ちた。イチゴ味だ。
「わ、すっごいおいしい…です、ニジ様」
「フン、当たり前だ。おれが食うチョコだぞ」
「ありがとうございます。ご馳走様でした」
かけたまま頭を下げると、音がして顔を上げた。ニジ様が私の前に本を一冊置いた音だった。白い本は表紙に美しい花の写真が印刷され、その上には金色の文字が繊細なフォントでそれが詩集であることを示す。
「これは…」
「読め」
訳が分からずニジ様の顔を見るも、その鼻先はもう窓の外に向けられていた。言うことを聞かねばまた暴力を振るわれることは目に見えていたので、私はそのハードカバーの本を手に取り、表紙を開いた。白い紙に、黒い文字が並んでいる。
私は一番最初の詩を読んだ。その言葉を読み上げるだけで、瑞々しい春の景色が目に浮かぶようだった。鮮やかな風景の描写と、それに呼応するような滑らかな心の揺れが読み取れる詩で、噛み締めるように言葉を辿り、余韻に口を噤んだ。
「続けろ」
「はい、かしこまりました…」
私が詩集を読み続ける中、ニジ様が紅茶を飲むときの食器の音とか、チョコを咀嚼する音なんかだけが部屋にあった。毎日仕事に追われ、王族の対応に心をすり減らしていた私には久しぶりに心安らぐ豊かな時間だった。日々生きるだけではおおよそ用いることのなさそうな抽象的で曖昧な言葉が本の中に散りばめられていて、私はニジ様の命で読んでいるということも忘れるように音読を続ける。この国では、この本の中にあるようななだらかな海岸や、風の通り抜ける花畑などはない。四季を語る言葉はあっても、語る人はいない。ここはとても特殊な国だ。国民のほとんどは作られた人間で、それはもう国民とは呼べないのではないかとすら思う。自分が人間だということすら忘れるような毎日に、鮮やかな絵の具を落とされたような時間なんていつぶりだろう。
私はニジ様が止めるまで読み続けた。本はまだ、半分以上ある。
「素敵な詩集ですね」
「…おれには分からねえな」
「…ではなぜ…」
そこまで言って続きを飲み込んだ。もしかして私への嫌がらせかもしれない。あまり深く突っ込んでしまうと、機嫌を損ねるかもしれない。私は本につけてあった黄色の紐を、読み上げたページの次のページにはさんで本を閉じた。
「おまえは本を読むのが得意だと聞いた」
「えっ、そんな…ことは…」
「まぁ、悪くはねえな」
ニジ様はもう冷めているであろう紅茶を自分で注いでひとくち飲んだ。そして、まだ残っていたチョコを顎でさし、食え、と言う。小さく返事をして、また近くにあったチョコを食べた。指の熱で溶けるほど柔らかいチョコで、汚れた指先を舐めてハンカチで拭う。
「残りはやる、好きに食え」
「えっ…そんな、ニジ様」
「続きは明日読め」
「…かしこまりました」
ニジ様はペーパーナプキンを何枚かこちらに放った。困ります、と言えたらどんなに良いか。しかし食べずにいても怒りに触れると思い、手前のものを口に入れた。例えば外で、甘い紅茶を飲みながらこれを食べたなら、きっともっとおいしく味わうことができただろうと思う。いくらチョコがおいしくても、これでは生きた心地がしない。それでもせっかくだし、と何個か食べていたら、ニジ様が鼻で笑った。私は恥ずかしくなって目を伏せる。