現パロ/夢はまどろむ改題
ついていない日はとことんついていない。まず、朝一でサーと喧嘩をした。朝帰りしたサーのコートから、アルコールや煙草の匂いの他に濃い香水の匂いがしたからだった。仕事や会食を理由に放っておかれる日が続いていたせいで嫌味ったらしい口調の私を、サーは面倒くさそうに一瞥し、付き合いだ、と冷たく言い放った。その言葉の温度の低さに私の怒りはみるみるうちに萎んで、目の前が真っ暗になった。瞬きと深呼吸で回復した私は、何も言わずにサーにあてがわれている部屋に戻って、今度デートで着ようと思っていたコーディネートで出かけたのだ。
朝起きて何も食べていなかったので、ランチをしたことがあるカフェでモーニングを食べた。店員があまり丁寧でなくて良い気持ちにはなれなかった。ふわふわのパンケーキを食べながら、一日どうするかを考えた。帰りたくなかったから、午前は映画を観ることにした。会計をしようとしたら、カードが使えないと言われ慌てて現金で払った。
思えばこのときに、引き返せば良かったのかもしれない。サーは今日だって、朝から仕事だ。どこだかに視察に行くだとか言っていたような気がする。帰ったって会うことはないのに。けれど私は拗ねたまま、計画を続行した。
巨大な商業ビルに入る映画館で、とりあえずホラー物を観てみた。びっくりはしたけれど、怖いかと言われると微妙な映画だった。その次に恋愛物を観てみた。ありきたりなラブストーリーではあったけれど、いまの私には観ていられないような甘さに胸焼けがした。私もこんな、映画みたいな素敵な恋をしてみたかったと思いながら映画館を出た。
気を取り直して、デパートの最上階でランチをした。店員の対応は良かったけれど、近くの席のマダムたちの声が大きすぎて最悪だった。ショッピングをしようとお気に入りのショップに行った。見つけた可愛いワンピースの色がピンとこないまま鏡を見ていると店員が寄ってきて、人気のブラックとベージュは早々に売れてしまったと言う。今度は可愛い台形スカートを見つけた。しかし、試着してみるとウエストが緩くて腰まで落ちてきてしまう。ワンサイズ小さいものがないか聞くと、これまた売り切れていると言う。私は完全に意気消沈して、何も買わずにショップを出た。イライラを堪えながら一階のコスメカウンターに行き、香水を探した。テスターをいくつも嗅ぎ、クラシックローズのものとイランイランが強いものを買った。サーのコートにまとわりついていたような香りだった。
いざ外に出たら雨が降っていた。聞いていない。そのうち止むだろうと思い、いつものダイニングバーに入って、お酒を飲んだ。カウンターで白ワインを飲んでいたら、離れて座っていた男がしつこく声をかけてきて辟易した。あまりにもうんざりした顔をしていたのか、サーとよく来る店だからか、私は奥のビップルームへ案内され、ふかふかのソファーに座りクッションを抱きながらサービスされたチーズの盛り合わせを食べた。革の鞄を濡らしたくなくて、雨が上がるのを待っているつもりだったけれど、どうやら状況は悪化しているようでバーは客が少なく、来る客は皆一様にびしょ濡れの傘を持っていた。屋敷までは歩くか車しかない。傘なんてあるわけもなく、どうせタクシーを呼ぶのならもう少しここにいようといままさにワインをボトルで頼んだところだ。
今日は本当についていない。朝から嫌なことばかり続いた。こんなことなら、ずっと屋敷にこもっていれば良かった。元凶であるサーは愛情表現に乏しいし、愛されている実感をもたらすものはいつも物質だった。だからせめて、誰よりもサーと時間を共にしたい。でも昨日、サーは私が起きているうちには帰らなかった。だからか、昨日サーと一緒にお酒を飲んだ女が羨ましくて仕方なかった。溜息は尽きない。帰りたくもない。まだ夜は始まったばかりだった。もし、サーの方が先に屋敷に戻っていて、まだ私が帰らないと聞いたら、どう思うだろう? 少しは心配をするのだろうか。別に気にもとめないのだろうか。そんな甘いことを考えたけれど私の中で答えはすでに出ていて、悲しみをごまかすように生ハムを頼んだ。
白ワイン、生ハム、生ハム、白ワイン、と機械的に口に運んでいると、しばらく静かだったドアのベルが鳴った。ビップルームを仕切る壁にはまったマジックミラーから暗い店内に目をやると、見覚えのあるシルエットが見える。その影はマスターと二言三言交わし、こちらへ向かってきた。
「お楽しみか?」
重たいドレープカーテンを片手で避けたのは、誰であろう、サーだった。ワイングラスを持ったまま動けない私を尻目に、テーブルの上を一瞥したサーはマスターに何か注文をして中に入ってくる。
「サー…どうして…」
「さっさと視察を切り上げて帰ってきてやったのに、肝心のお前はまだ帰ってきやしねえ」
「…頼んでないし」
「朝、臍曲げて飛び出てったのはどこのどいつだったかな」
隣にかけたサーは葉巻を咥えて火をつける。ノックの音がして、マスターが赤ワインのボトルとグラス、トマトがたっぷりのサラダとローストビーフを持ってきた。テーブルに広げられたそれらを、私は拗ねながら見る。お気に入りのワインをグラスに注いだサーは、それを私の方に寄越した。私は顔も見ずにグラスを静かに合わせる。
「で? 楽しい一日を過ごせたか?」
核心をつくような嫌味ったらしい言葉を聞いて、私は泣きたくなった。全然楽しい一日じゃなかった。ワイングラスをつまんだまま、一向に口を開かない私をサーは一瞥する。そして溜息をひとつ吐いて、私のグラスに白ワインを注いだ。
何もかもが最悪だ。朝、私を軽くあしらったサーだって、私が訴えを行動に移してようやっと時間を作る気になったのだ。黙っていたら永遠に、私はひとりの昼を過ごし、ひとりの夜を過ごすのだろう。そう考えたら全然楽しくない。何もかもに、悪意と敵意を感じるくらいだ。
「…いつまで拗ねてるつもりだ」
サーはそう言って、サラダを取り分けた。きっとトマトを早く食べたいのだ。取り皿ふたつに野菜を盛り、片方にトマトをたくさん載せる。私はトマトが好きでないから、必ずサーにあげていた。
「…最悪の一日だったよ」
サーは笑うだろう。私はそう思った。自分を振り回す私が、うまくいかない一日を過ごしていたのはさぞかし面白いだろうと、思っていた。けれどサーは、トマトを飲み込んだ後、ほう、とだけ言った。続けろ、ということだ。私もサラダを少し食べ、白ワインで喉を潤してから朝から夜までを振り返った。
サーが私を放っておいて女といたのに開き直って傷ついたこと、モーニングに選んだ店の店員の態度が良くなかったこと、ホラー映画は驚かすだけで怖くもなく恋愛映画は幸せいっぱいで見ていられなかったこと、ランチに選んだ店は客の話し声が大きくて嫌だったこと、可愛いワンピースは黒がなくて、気に入ったスカートは小さいサイズがなくて、香水を嗅いでいたらサーのコートからしたような匂いのものがあって買ってしまったこと、雨が降っていたからここに入りカウンターで飲んでいたらナンパがしつこくてビップルームに案内してもらったこと。サーは早口に話す私に、適度に相槌を打ちながら聞いていた。
「何もかもが最悪。こんなふうに生きるくらいなら、死んだほうがよっぽどマシよ」
私が過剰気味にそう吐き捨てたとき、またノックの音がした。今度は私の大好きなアヒージョとサーモンのマリネと厚切り肉の盛り合わせが運ばれてくる。サーは、マスターが出て行くまで何も言わず、ローストビーフを噛んでいた。
「…悪かったな」
アヒージョの海老をフォークで刺したとき、サーが、ぽつりと言った。驚いた私は体ごとサーに向けてその様子を窺ったけど、サーはいつも通りの怖い顔をしたままフォークで肉を突き刺していた。聞き間違えたとも思えない明瞭さで、私は戸惑う。サーも謝ることがあるんだ。そう考えながら海老を咀嚼し、オイルに濡れたサーモンを狙う。
「なんでわざわざ、そんな香水を買った?」
「…サー、好きなのかと思って」
その言葉で、私はやっと不明瞭だった私の気持ちを見つけて、泣きそうになった。どんなに突き放されても、邪険に扱われてもサーに好かれたいだなんて、健気すぎる。図々しくも自分でそう思った。サーは小さく舌打ちをする。伸びてきた片腕が、私の背中を過ぎて腰を抱き寄せた。惨めで、寂しくて、傷ついていた私は涙を堪えながらワインを煽る。
「…来週どっかで休みを取る。どこに行きたい」
語尾の上がらない言葉に、それでも私に行きたい場所を聞いていると思うと堪えきれずに涙がこぼれた。嬉しいような、悔しいような、切ないような、色んな感情が綯い交ぜになって、返す言葉が見当たらない。ごまかすようにワインを口に含んで考えた。
「どこにも行きたくない」
「…」
「クロコダイルと一緒にいたい」
「…そうか」
「…どうして急に気が変わったの。朝聞いたとき、私のことなんて見向きもしなかったのに」
彼は何も言わなかった。何も言わなかったけれど、弁解も開き直りもしなかった。何か言って欲しかったけど、これ以上は望まないことにした。
またノックの音がして、さりげなく涙を拭う。マスターが、ミートパエリアとシーフードピザとラムステーキを運んでくる。ここまで運ばれたメニューが、どれも私の好きなものであることに気づいて彼を見た。けれど、彼は涼しい顔をしてピザをカットしている。私はバゲットをアヒージョのオイルにたっぷり浸した。おいしい。
「食べ過ぎるなよ」
「…うん」
それはデザートがある、という意味でクロコダイルがよく使う言葉だった。もう厚切り肉は少し冷めていたけれど、脂身がなくて食べやすい。ここのミートパエリアは豚肉の味が染みていてお気に入りだった。取り皿に分けられた分を、もくもくと食べる。沈黙が痛かった。けれど、何も言わない彼の言いたいことはなんとなく感じていた。それが嬉しいと思う気持ちと、簡単にそう言い切れない気持ちとに揺れながら、私は静かに食事を続ける。