※現パロ、ドフィがひどい男
「お前は俺を愛していないのか?」
「理想の俺しか愛してくれないのか?」
「どんな俺でも愛してはくれないのか?」
「俺はナマエを一番愛してる」
「ナマエ」
どの口がそんなことを言うの、と私は思う。女物の香水、胸板に残るキスマークの跡。私だけを大切にしてくれない男は嫌いよ、と言えれば良かったのかもしれない。
けれど、サングラスの奥の目があまりにも悲壮の色をたたえていて、私は何も言うことができなかった。
愛していれば、なんだって良いの? そう聞けば良かった。あなたの愛って、なに? そう聞けたなら。
彼は私の右手を両手で握る。冷たい、大きな手だ。その手が、行かないでくれと強く訴えている気がした。
「俺はどんな俺でも愛して欲しい。そうじゃなきゃ、」
緩やかに目が覚めた。いつかの夢を見ていたようだ。続く言葉を再生しなくて良かった。私のこころはそれを拒否したのかもしれない。こんなグッドタイミングで目が覚めるなんて。
相変わらずベッドにはひとりだった。彼はよく悪夢を見るらしく、夜は私より遅く寝て朝は私より早い。
彼が何度も過ちを犯して、幾度目かでようやっと、私はそれが試し行動なのだと気がついた。私に愛されているか、彼は定期的に試さないと信じられなくなるのだろう。私は定期的に浮気をされ、それを、彼を愛しているからというただそれだけで許し続けてきた。
この頃、よく考える。愛ってなんだろう。私たちのいう愛ってなんのことなんだろう。もしそんなものがあるのなら、雨に打たれて汚れて滲んで、ひび割れたところを無理やり修復された形をしているに違いない。
ベッドから上体を起こしてそんなことを考えていたら、唐突にドアが開いた。
「よう、ナマエちゃん、そろそろお目覚めかと思ってな」
彼はもうすっかり着替えも済んでいて、サングラスの奥で目を細めている。軽薄な口調。そんなふうに囁かれる愛は本物なのだろうか? そう思ってしまうようになってから、あんなに焦がれていた彼すらいまは知るのが怖い。ひとりでいるときは、別れたほうが良いのかもなどと考えるのに、彼がいるとなぜかそんな考えが吹き飛んでしまう。それは、恋より愛に近い予感がする。私を試してでも愛を確かめることに固執する彼を、どこかで憐んでいるのかもしれない。
「…ナマエ?」
「…ああ、ごめんなさい。ぼーっとしてて」
「…そうか。朝食の用意ができてる」
私は返事をしてベッドを降りる。顔を洗って、髪をとかして、簡単に身支度するのをドアに寄りかかって待つ彼。
彼はなんだって持っている。リゾート産業や不動産業などと手広く展開している大企業の社長で、四十に手が届きそうな若さでありながら未婚。寄ってくる女性がひとりやふたりでないのは当然のことだ。
だというのに、なぜ彼がこんな私に執着するのかはさっぱり分からない。彼は私を愛していると言う。でも、どこをどう愛しているのかは聞いたことがない。愛の言葉は、甘く、柔らかく、弾けそうな軽さだった。彼はあくまでもうまく喋っている、表層を取り繕っているような違和感を否めない。
彼の愛に対する執着について、私は理解しきれないでいた。愛されたい。裏切られたくない。どんな自分でもまるごと愛されたい。そんな子どものような一面が、恐ろしくもあった。育つにつれて嫌でも知ることとなる、人の心の移ろいやすさや二枚舌の存在について、彼はとにかく拒否しているように見えた。それでいて、人とはそんなものだと絶望しているようにも見える。
朝食を食べながら、彼は色んな話をする。取引のこと、友人のこと、ファミリーのこと、今日の予定。
私は、彼の試し行動が最近なりを潜めていたのをずっと気にかけていた。彼がいま教えてくれた今日のパーティーで、何かあるかもしれない。そう思うだけで、朝食の味がしなくなった。
「ナマエ、愛している。イイ子でいてくれ」
「…ん、いってらっしゃい」
軽いキスをして彼を見送る。私はさながら籠の中の鳥だ。彼と別れられたらどうなるのだろう。いや、彼と別れることはできるのだろうか。
そこまで考えて、いつか彼に言われた言葉を思い出す。どんな俺でも愛して欲しい。そうじゃなきゃ、サヨナラだ。さよなら。私は彼とさよならしたいのだろうか。分からない。なにも分からない。ただ、サヨナラという言葉が私を縛る鎖になったことは間違いない。事実、サヨナラが怖くて何度も私は彼の不貞を許した。遠くにあるときは、それが私に降りかかっても平気な気がするのに近くにあると途端に恐ろしくなる。彼との別離はそんなふうに思えた。私も彼に依存しているのだろうか。私は彼を愛しているのだろうか?
彼はどんな自分でも愛されたかった。私に愛されたくば、不貞行為はダメだというのはすれ違いだった。
きっと彼は今夜私を試す。出勤の支度をしながら、憂鬱以外のなにものでもなかった。それがどんな気持ちの発露なのかは分からなかった。ただ、まだ愛しているから傷つくのかもしれない。他の女と比べられることを恐れているのかもしれない。愛した男の体が、誰かに汚されることに耐えられないのかもしれない。
夜は外食をしてくると、住み込みのお手伝いさんに告げて私も仕事に行く。彼は反対しているが、仕事を辞めてしまうと後には戻れないような気がしていた。
…
定時で上り、適当なお店で夕飯を食べて彼の豪邸に帰る。パーティーのために着替えにきた彼とは入れ違いだったとお手伝いさんから聞いた。さっさとお風呂に入り、これでもかとスキンケアをしてあとは寝るだけの状態で雑誌をめくったり、小説を開いたりする。落ち着かない。いま彼はなにをしているのだろう。こんなに気になるのは愛なのか執着なのか、はたまたそれ以外のなにかなのか?
何時に帰る?と連絡を入れても既読にすらならない。部屋の明かりを消して、無為に月の光を受けながらしばらく時間を持て余していたら、うつらうつらとしてきて私はそれに抗うこともせずに瞼を閉じた。ひとりで寝るのは楽で良い。誰にも気遣わずに済むから。
冷たい手が、頬を撫でて、私は目を覚ます。ゆっくりゆっくり瞼を上げれば、ベッドに腰掛けた彼と目が合った、気がした。彼は暗闇の中でもサングラスを外さない。その手から、むわ、とこもった香水やその他の、複雑な匂いがした。
「また…」
「許してくれるだろう?」
俺を愛しているなら。そう続く言葉が何度私を傷つけただろう。ほとんど寝ていた頭が、起こされたイラつきを彼へのそれに変換して言葉が私の口から出ていく。
「どうしてそんなことをするの?」
「お前が嫌がることをしても、俺を愛しているなら耐えてくれるはずだ」
「どうしてそう思うの?」
「…お前なら…ナマエなら、」
彼はそこで言葉を切る。彼を失いたくない一心で耐え続けてきた。受け入れ続けてきた。けれどいつの間にかその失いたくない一心を見失ってしまったように思う。これはいつまで続くんだろう。こんなくだらない関係はいつまで終わらないのだろう。彼の胸から香る、華やかなローズの香水はとても良い香りで、さらに胸が張り裂けそうになる。
「俺を裏切らないと信じたいからだ」
「私を裏切ってでも?」
私がここまで口ごたえすることを予想していなかったように、彼はまた黙る。彼が何より恐れている裏切りを、私はいつも甘受している。なぜ裏切られたくないのか。愛した人がその程度だと思いたくないのか。裏切られたときの、深い傷口を覗きたくないからなのか。私はいつも裏切られている。そして、傷だらけだ。
冷たい手が、私の体温を吸って、まるで私みたいだった。
「…いいよ。好きにして。それが、ドフィの望む愛なんでしょう?」
「…ナマエ」
どうにも私からは壊せなくて、彼は傷つけるだけで壊すこともなくて、この愛はどこまでボロボロになっていくんだろう。傷跡がへこんでふくらんで、あかくてしろくて、いまにもちぎれそうで、そんな愛はまだ誰かに大切にされるのだろうか。
そして思う。私が幸せになれる場所ってどこなんだろう? 彼という鎖が絡みついた私が。
涙が、横を向いたまま流れた。鼻を横切り、目の下を滑り落ちていく。
それを見た彼はカッとなったように私を仰向けに転がして、片手で首を掴んだ。
「どんな俺なら愛される? なあ、教えてくれ。ナマエは、どんな俺なら愛せるって言うんだ」
「そのままのあなたよ」
腕を伸ばして、サングラスを外す。年甲斐もなく、感情を露わにした目が私を見ていた。
どこで間違ったのだろう。どこで間違っていなかったら、彼はこんな顔をしなくて済んだのだろう。私はこんなに傷つかなくて済んだのだろう。この愛が迷路に迷い込むこともなかったのだろう。
彼の家に女が住んでいることなど、みんな知っている。それでも寄りつく女たちがいて、抱かれる女たちがいる。私がどう言われているのか、思われているのか、何もかもが怖くて彼に干渉できなかった。彼の世界に入ることができなかった。彼には彼の世界があり、私には私の世界があり、世界はほんの僅かしか交わらないというのに。右手の薬指の指輪には、なんの拘束力もない。そんなこと分かっている。戻ることも、進むこともできなかった。分からなかった。どうすれば、健全な、こんな苦しみからかけ離れた関係を築けたのか、もう分からない。
「あなたは、私を傷つけたいの? 私を愛しているの? どっちなの? なにをしても許してくれるってだけで、私にしたの?」
涙声が、彼の瞳より悲壮で、惨めで、きっとこれはもう彼にとっては別れ話で、私たちはいま傷ついて死にかけている愛を目前に置いて話し合っている。どっちが息の根を止めるかを、話し合っている。
首に置かれた手が重い。重いけれど、それだけだった。締めてくれれば良いのに。もう、殺してくれれば良いのに。
「…違う」
「私はそんなに信じられない? それなのに愛してるだなんて言うの? どこかの女を抱いた体で私を抱くの?」
「ナマエ、違う…違うんだ、」
雑に胸ぐらを掴まれて起き上がらせられた私の体を彼が加減もせずに抱く。くるしい。そう言ってもお構いなしで。彼は短い頭髪を私に擦りつけるように首を振った。彼の向こうに不恰好な月がいた。雲はない。
「ナマエ、分かった」
「なにを」
「結婚しよう」
「…は?」
「これで安心だ。俺は他の女を抱かなくて済む。ナマエも傷つかなくて済む」
言葉を失うとはこのことだ。私たちはそんな話をしたことがなかった。彼は分からないが、私は意図的に避けてすらいた。何がどうしてそうなるのか。そして、情緒とか、思慮とか、とにかくそういうのが欠けている。彼の心の問題はそれで解決するとは思えなかった。結婚したって不貞行為は可能だし、契約を交わしても彼が私の気持ちまで縛れるわけじゃない。そんなこと分かっているはずなのに。そんなこと。
「良いと思わないか?」
「わか、らない…」
「どうして」
「だって…」
「だって?」
「結婚したからって、ドフィが、私を裏切らない確証がない」
「ナマエが永遠に俺のものなら、ナマエの愛を試す必要もない。ナマエ、信じてくれ」
彼はそう言って、私にキスをする。別れ話になると思っていたのに、こんなに話が飛躍するなんて思ってもいなかった。私たちは愛の話をしているのではなかったのか? 愛と結婚は、べつものだ。
そう分かっているのに、なにが正解なのか分からない。どうするべきなのか分からない。また裏切られるかもしれない。契約は縛れるものと縛れないものがある。彼はそれを理解しているのだろうか?
でも、でも。いままで幾度も裏切られてきたのだから、そんなこと、もう良いのかもしれない。甘い香りの胸に抱かれて私は、すべてから目を閉じた。私にはひとつ確かに分かっていることがあった。きっと、また裏切られても、それでも私とこの愛は、その傷と痛みに耐えられるだろうってことを。