数日は使いものにならなくて自分でもどうしようかと思ったけど、くよくよ悩んでも私にはどうしようもできないことを理解してふっきれた。私にできることなんてなにもない。蛭魔に慰めてもらったのも、間違いだったのだといまなら分かる。背水の陣で戦っているのは蛭魔なのだ。なんでそれが分からなかったのだろう。本当に私は私のことしか考えてなくて嫌になる。日米戦は蛭魔に席を取ってもらったけど、正直複雑だった。見に行けば、姉崎さんも目に入ることになってしまう。普段、ふたりのやりとりを見ないで済んでいるのに、きっと試合どころじゃなくなってしまう。私はデビルバッツを応援しているのか、蛭魔に焦がれているのか、分からなくなってしまう。
「私、迷惑になってないかな」
「…どうしたんだ、急に」
「蛭魔には、アメフト頑張って欲しいからさ。私が負担になってたら、嫌だなって」
「別に、なってねーよ。むしろ家事やってもらって楽になってるしな」
「良かった。労働力にはなれてたみたいで」
「…」
蛭魔はなにか言いたげだったけど、開いた口からはなにも言葉が出てこなかった。私は、どうしたいんだろう。どうなりたいんだろう。蛭魔。ずっと影ながら応援していれば良かったのかな。高校が別になったときに、すっぱり諦めれば良かったのかな。もう、なにが正解なのか分からなくなっちゃったよ。
私はまず、目の前に迫っている六月の模試で結果を出さなきゃいけない。蛭魔は日米戦を大差で勝たなきゃいけない。私たちは、私たちなりに譲れないものがあった。私は放課後も寝る前もひたすら勉強、蛭魔は放課後は部活で寝る前はNASA高校の分析。私たちは同じ空間にいたりいなかったり、でもやることはそれぞれで会話もそうなかった。いまもリビングのローテーブルで勉強する私と、ソファーにかけてノートパソコンをいじりながらたくさんの資料と向き合っている蛭魔の間には、お互いを気にするような空気すら流れていない。
「なまえ」
「…なあに」
「模試が終わったらよ、母親と話したらどーだ」
「なに、急に」
私はシャープペンを置いて、ふりかえった。本当に急に、唐突に、いつもは話を聞いてふーんと言うだけの蛭魔が踏みこんできたことに驚きを隠せない。けれど、蛭魔は私を見ようともしないで、資料を繰っている。
「心配してんだろ、間違いなく」
「それは…そうだと思うけど」
「俺が行っても門前払いされそーだしな」
「…これは私の問題だから、蛭魔にどうにかしてもらおうとは思ってないよ」
「…どいつもこいつも、そんなんばっかだ」
蛭魔は自嘲気味に笑って持っていた紙を放り投げた。きっと、ムサシのときのことを言っているのだ。蛭魔はただでさえ色んなものを抱えこんでいるのだ。私のことまで、背負わせるわけにはいかない。確かに、母も蛭魔の顔が見てみたい、というようなことを言ったこともある。けれどそれは、本当に見てみたいわけではないのだ。親の顔が見てみたい、と同じニュアンスだと思っている。つまり、皮肉だ。
「ママが…私のために頑張ってくれてることは分かってるよ」
「…」
「でも、ひとりぼっちはもう嫌なの」
「…」
「それでもひとりで頑張れば良かったのにさ、蛭魔のところに逃げたらすっごく居心地が良くて、帰るに帰れなくなっちゃった」
「…なまえ」
「もちろん、蛭魔のせいじゃないよ。私が弱いだけ」
「…俺は突き放せば良かったのか?」
「…そうかもしれない。でも、蛭魔は優しいから、そんなことできないでしょ?」
ああ、なんて驕りの過ぎる発言だ。私を絶対受け入れてくれるなんていう、その自信は一体どこからきたのだろう?
「…俺は俺のやりたいようにやる」
「うん。そうして。これからも、ずっとずっと」
「…」
「そうだよね、早めに、色々どうにかしなきゃだよね。ママのことも、志望校も」
「…最京の看護学部だろ」
「…むりだよ」
「無理じゃねえ、勉強しろ」
「…」
「高校は離れたけど、大学は同じとこ行くんだろ」
「…それ、それさ、本当に一緒で良いのかな?」
核心に、触れてしまったと思った。でも、勇気がでなくてまわりくどい言い方しかできなかった。賢い蛭魔なら、私の言わんとしていることくらい分かるよね? 分かってるんだよね?
「良いだろ。なんか問題でもあんのかよ」
「…蛭魔が、良いなら、良いけど」
蛭魔が、なにを考えているのかさっぱり分からなかった。けれど、私は、はっきり聞くことができなかった。私たち、これから、どういう関係になるの? どういう存在になるの? 姉崎さんの気持ち、気づいてる? 私のことどう思ってる? どうして、抱いてくれるの? 聞きたいことはたくさんあった。たくさん、たくさん、あった。けれど、ひとつも言葉にできなかった。私は臆病で、こわがりで、卑怯で、どうしようもない。
「とにかく成績がズバ抜けて良けりゃ、返済不要の奨学金も、入学金と授業料の免除も受けられるかもしれねえ。俺も手伝うから勉強しろ」
「…分かった」
私は、親にも相談せず、先生にも相談せず、友だちにも相談せずに、第一志望校を決めてしまった。心臓がうるさい。もちろん、第二、第三もちゃんと決めるけど、けど、決めてしまった。こんな、恋心だけで。でも、志望校がどこだろうと勉強しなきゃいけないことに変わりはない。そう言い聞かせて、重大な決定をかすませようと努める。
「母親、説得すんのも、模試の結果が良ければ良いほどやりやすいだろ」
「…うん」
「理数系苦手だって言ってるけどな、考えるな。機械的に解け。それでなんとかなる」
「…分かった」
蛭魔が、どうして急にこんなことを言い出したのかは分からないけど、模試はもう目の前だ。中間テストはとっくに終わって返却も済んでいる。無事、特進クラスを維持できる成績だったし、廊下に貼り出された順位表にも名を連ねることができた。けして、男の家でぐうたらしているわけではないのだと示すことができたと思う。
「アメリカ戦までには、ケリつけてこいよ」
「…なんで?」
「もやもやしながら応援なんてできんのか?」
「…確かに」
のちのち、蛭魔の口車に乗ってしまったことに気づくのだけれど、私はなんの疑問も抱かずに頷いた。模試の結果が返ってくるのは七月中旬なはずだ。とりあえず模試が終わって、自己採点をしてから母に連絡をしようと、決めた。私ももう逃げている場合じゃない。向き合わなきゃ。背中を押してくれた蛭魔のためにも。
*
よくよく考えたら、母と話し合うにはもっと早く連絡をするべきだった。なにせ母は日勤と夜勤を掛け持ちしているのだ。シフトがでてから連絡したところで、時間を確保できないだろう。そんなことに気づいたのは模試が始まってからだった。問題用紙に答えを書き込みながら解答用紙を仕上げ、ひと息つく。今回の模試は国数英だ。現代文はぶっつけ本番ということにしたおかげで、苦手な数学に時間がふれたのも良かった。最後の見直しをしていたら、監督が終了を告げる。終わったら蛭魔に採点してもらおう、と模試終わった記念に友だちとカフェに入った。
「なまえ、第一志望、最京にしたんだって? やるじゃん」
「うん…。やれるだけやってみる」
「まだ一年あるしね、みんなで頑張ろ」
友だちとフラペチーノを吸いながら話すも、試験の時間が長く問題も多く、三人とも疲弊していた。当然、すぐさま採点をする気にはならず、冷たい飲み物でいくらか潤った私たちは早々に解散し、私は蛭魔の家に行く。電車を寝過ごしそうだったから気合いで起きていて、今度は気合いで家まで歩く。着いたら、ソファーにダイブしてやる。そう思いながら。
まだ明るい空、お腹は空腹を訴えている。けれど私はもくもくと歩いていた。合鍵で玄関を開け、教えてもらったとおりに防犯システムを止め、靴を揃えて脱ぐ。もう少しだ。廊下を進んでドアを開けたら、ふかふかのハイバックのソファー。天国にたどり着いた。私はそう思いながらスクバを放り出し、ソファーにダイブした。目を閉じれば、あっという間に夢の中。
チャイムの音で目が覚めた。がば、と体を起こせば目の前の窓には夕焼け。チャイムが鳴っていたことを思い出して慌てて起き上がると、蛭魔がリビングに戻ってきたところだった。
「あれ…蛭魔」
「ハヨ。いつから寝てたんだ?」
「分かんない…二時過ぎくらいかな」
「もう五時半だぞ」
「そんなに寝てた!?」
「俺が帰ってきた三時には爆睡してた」
「疲れてたのかな…」
蛭魔がソファーに寝ていた私の横のローテーブルにピザの箱をふたつ載せた。ふ、とダイニングのほうに視線をやれば、投げ捨てたはずのスクバがイスの上に置いてある。テーブルの上には、見覚えのある紙たち。
「蛭魔、採点してくれてたの?」
「ざっと見ただけだけどな」
「ど、どうだった?」
「まあまあだな。国語と英語はこのままいけばなんとかなるだろ。数学はもうちょい頑張らねえと厳しいかもな」
「そっか…」
「全体的に悪くはねーよ」
「…ありがと」
「そんなことより、ずっと寝てて腹減ってねーのか」
「あ、空いてる!」
「ピザ食え、ピザ」
「良いの? ありがとー!」
ローテーブルの上の箱からは良い匂いがあふれている。もう終わったことはひとまず置いていて、ピザに手をつける。蛭魔も制服のまま、隣に座ってピザに手を伸ばしていた。
「今日は随分早かったんだね?」
「おー、今日は守備の知識固めだったからな。早めに終わらせて自習だ」
「そかそか」
蛭魔もアメリカ戦に向けて策を練っているんだ。相手は強豪校、一筋縄ではいかない。私も次は七月にある学期末テストと模試に向けて勉強を続けなきゃ。その前に、母とのわだかまりの解消についても考えなくては。途端にピザが重く感じられて、手が止まる。
「なまえ?」
「うん…ママになんて言おう」
「…まあ、毎日家に帰るのがベストだろうけどな」
「そんな…」
蛭魔と一緒にいたい。どのくちが言えるのだろう。私はまだ子どもなんだから、親のもとに帰らなきゃいけない。そんなの当たり前のことだ。でも、そうしたら蛭魔とのつながりが切れてしまう。でも、このままじゃいけないことも分かっていた。
「メール、しよ…」
「おう」
母に、ちょっと話がしたいとメールと送った。もちろん、いまは仕事中なはずだ。
「ママはさ、なにに怒ってるんだろう」
「…そりゃ、帰ってこないことじゃねえか?」
「やっぱりそうなのかなあ」
「なんか言われたのか?」
「んー…蛭魔には言ってなかったんだけど、妊娠だけはするんじゃないよって怒鳴られたことはある」
「まあ…そりゃそうだろうな」
そうなのだ。妊娠で、負担が大きいのは女性側なことくらい分かっているつもりだ。学業はどうなる? 堕ろすことにだってリスクはある。 収入もないのに? 相手の男がどれだけの責任を果たしてくれる? 母が私の身を案じるのは当たり前のことだ。蛭魔はどう思っているんだろう。盗み見た横顔からは、なにも読めない。でも、私たちがしていることはそういうことなのだ。
ピザを食べ終えて、部屋着に着替えてから蛭魔と模試の自己採点をする。やっぱり蛭魔はすごいな、そんなことを思いながら次々と正答をあげていく蛭魔に、なんとかついていく。三教科の平均が七割くらいなことが分かってからひと息つく。ミルクティーを飲んでからケータイを見れば、母から返事が来ていた。