私はひとつだけ母に嘘をついた。蛭魔のことを、彼氏だと言ったのだ。体の関係があることを、私は隠すことができなかった。だから、そう言わざるをえなかった。蛭魔には、絶対言えないと思った。私は言葉を尽くしたけれど、母といえば諦め半分でいまの生活を了承してくれたようだった。援交や悪い仲間を作るよりはマシだそうだ。それでも、母に無理にでも引き戻されなかったのは御の字という結果だと思う。問題は、母が蛭魔に手紙を書いたことだ。封はされていなかった。彼氏、とか、付き合っている、だとかいう言葉があったらどうしよう、と私は手紙を盗み見た。直接的な言葉はなかったものの、全体的に見れば娘の彼氏に宛てた諸注意の手紙とも読める。私は諦めて、それを蛭魔に渡すことにした。
*
月日は流れ、私はやっぱり、家と蛭魔の家を行ったり来たりしながら生活していた。けれど、前より心は軽い。母を裏切っているような罪悪感は小さくなった。手紙を受け取り、中を見た蛭魔は、私に、よくやった、と笑ってくれたし、これで一件落着と安心したものだ。
けれど神様は残酷だった。七月二十日、七月の学期末テストと模試を終え、はればれとした気持ちで応援に行ったデビルバッツ対エイリアンズの試合は、デビルバッツの惜敗に終わった。蛭魔の弄した策は、部員みんなの頑張りと負けん気でもってエイリアンズを苦しめたものの、一歩及ばず、エイリアンズのみんなのパスポートは粉砕され、デビルバッツは日本退去となった。私はかみなりに打たれたようなショックを受けていた。地力の差を考えれば、予想できた結果だったかもしれない。でも、すぐに受け入れることができなかった。客も立ち去り始め、まばらになった観客席、呆然と座り込んでいたらケータイが震えていることに気づいた。こんなときに、そう思いながら画面を見ると、蛭魔からだった。グラウンドを見るとケータイに耳を当てた蛭魔と目が合う。
「…はい」
「つーわけだ。俺たちはアメリカに行く」
「なんで…どうして、」
「そういう約束だ。言ったろ、溝六も拾いに行くつもりだって」
「ひるま、」
「…ついてくるか?」
「行けるものなら行きたいよ」
「…」
「でも私、部外者だよ。他校生だもん。それに、夏期講習、申し込んじゃったし…行けないよ」
「…泣くなって」
「…泣かせないでよ」
「…わりーな」
「…謝らないでよ、」
「とにかく、家のことは頼んだぞ、また連絡する」
「うん…気をつけてね」
「ああ」
「バイバイ」
ぷち、と通話が終わる。蛭魔を見ながら話していたら、栗田くんが気づいてくれて泣きながら手を振ってくれた。振りかえすと、それに気づいた部員のなんにんかがぺこりと頭を下げたから同じようにした。帰ろうとしたら、主務だという男の子に声をかけられて、空港まで一緒に行くことになる。躊躇う私に、でも蛭魔さんの彼女なんですよね? と聞かれて耳を疑った。どこからそんな情報がでまわっているのか。でも、私は否定することも肯定することもできず、曖昧に笑うことしかできない。行きましょ、と言われ、断ることができなかった。
みんながシャワー室を使っているなか、姉崎さんと、使ったタオルをまとめてクリーニングに出したり、これは蛭魔の脅迫手帳が効いているらしく、取りにきてくれたし、クリーニングが終わったら部室前に置いておいてくれるらしい。乗ってきたバスで部員みんなの家をまわって荷物を取りに行くらしく、そのルートを決めたりと、よそよそしい空気が流れながらもふたりで作業をする。そのうちに、シャワーを浴びたみんながでてくる。支度を済ませたみんなは、まじかよ、という顔でバスに乗り込み、家をまわっては荷物を持って戻ってくる。バスは空港まで、空港内で小腹を満たして、私だけがみんなを見送る。手をふる私に、手を上げて背を向けた蛭魔。みんなも、それぞれに手をふって、ゲートの向こうに行ってしまう。その背中を全部見届けて、泣きながら空港をでて蛭魔に貰ったお金でタクシーに乗った。
*
蛭魔から電話がきたのは三日後だった。出発直前に、何泊になるか分からないと言われていたが四十日間デスマーチをやる、という。私は当然電話口で絶句したが、蛭魔はそれどころじゃないようだった。また連絡する。そういって電話は切れた。私は、頭の中で四十日って何日間だ? とばかなことを考えた。
そして、ちょうど夏期講習が終わった金曜の夜、また蛭魔から電話がきた。
「…は? ちょ、ちょっと、もう一回言って」
「アメリカ来い」
「だから行けないって…」
「夏期講習は今日で終わったろ」
「時差把握してる?」
「してるから知ってんだよ」
「そんないきなりアメリカ来いって言われても…ママがだめって言うかもだし、そもそも私、部外者だし」
「母親はなんとか説得しただろ、ついでにアメリカ行きも許可もらってこい」
「もしかして、二十日までにママと話し合えって言ってたの、このためだったの?」
「やっと気づいたか」
蛭魔は最初から私もデスマーチに付き合わせるつもりだったのかと愕然とした。そんな私を無視して、蛭魔は会話を続ける。私は、蛭魔の家のソファーでひっくり返りそうになっているというのに。
「俺の部屋のクローゼットの中見ろ」
「え…、ちょっと待って、」
私は駆け足でリビングをでて、二階へ上がる。部屋の明かりをつけて、クローゼットの扉をひく。そこには大きなキャリーバッグが三つ。
「見たよ…。こんなに大きいの、三つも、」
「俺の机の、右の一番上のひきだしのノートも見ろ」
クローゼットを開けたままに、少し引き返して言われたひきだしを開ける。ノートが一冊とパスポートが入っていて、ノートの表紙をめくってみると、あさっての日付の飛行機のチケットがはさまっていた。そして、パスポートは覚えのない私のものだった。
「チケットとパスポート…いつの間に、」
「そのノートに部員の住所が書いてある。連絡はこっちからするから、追加の着替えを受け取って、キャリーに詰めて持ってきてくれ。それから、あとでメールするリストのものも買ってこい」
「まってまってまって。行くって言ってないよ」
「は? くるだろ」
「話についていけないよ…。アメリカだよ?」
「そうだな、アメリカだ」
「国内ならともかく…アメリカって、こわいよ!」
「安心しろ。空港まで迎えに行く。ひとりなのは飛行機の中だけだ」
「こんな大荷物で!?」
「そんな大荷物で」
「私、蛭魔にこんなむちゃぶりされたの初めてだよ」
「仕方ねーだろ、なまえにしか頼めねえんだ」
「…」
「チケットの日付はあさってだ。やってくれっか?」
「ちょっとママに相談する…電話してみるからまって…」
「おう。頑張れ」
そう言って電話は切れる。私は心臓がバクバク鳴っていた。アメリカって。そんなひょいといけるものじゃない。そもそも、ひとりだ。国内旅行すらしたことがないのに、というか、飛行機に乗ったことがそもそもないのに、そんな私の初めての飛行機がアメリカ行き? むちゃだ。むちゃだけど、やらなきゃいけないような気もしていた。
母のケータイを鳴らす。当然、でない。朝までには連絡がくるだろう。ノートをぱらぱらとめくった。住所を見たところ、全員そう遠くはない。すぐに蛭魔からメールがきて、テーピングだとかシューズだとかのリストが送られてきた。着替えも含めて、この三つのキャリーバッグに入るのか不安にすらなる。そもそも、私の着替えもだ。四十日間といっていた、残りはあと二十日と少しあるはず。蛭魔の伝えてくる情報が少なすぎて頭がパンクしそうだった。とりあえず、時間がないのは分かる。夜だけど、家に行って、冬物をしまっていた圧縮袋を何枚か取ってきて、蛭魔の家に置きっぱなしの服をたくさん詰める。二十四時間営業のドラッグストアに行って、飛行機に持ち込めるドライシャンプーやなんかも買ったほうが良いかもしれない。いつものスポーツショップが開くまで、私の心は待てるだろうか。
*
日本の空港は日本語が通じるからなんとかなったけど、アメリカの空港はどうだろう。そう不安で仕方なかったが、蛭魔がチップをたくさん渡したのか、とても親切な職員のひとが手取り足取り手続きや預けた荷物の受け取りなんかを教えてくれたおかげで、私は大量の荷物をカートに載せてゲートをくぐることができた。あとは蛭魔たちを見つけるだけだ。
母は当然難色を示したが、じゃあ家出すると言えばすごく嫌な声で許してくれた。すぐに蛭魔に電話して、行けることを伝えれば機嫌も上々、私はとりあえず寝て、起きたらスポーツショップと部員の家巡りをすることになったのだ。
「栗田くん! パス!」
ロビーでひときわ目立つ栗田くんに、重たいカートを思いきり押して滑らせ、隣にいた蛭魔に向かってダッシュする。
「蛭魔!」
「よくきたな、なまえ」
私のずつきのようなハグをものともせずに受け止めた蛭魔は優しく笑って頭を撫でてくれる。心細さからの安心感で、なにも考えずに蛭魔にぎゅううと抱きつく。汗の匂いが懐かしい。しばらくして、蛭魔にぺっと剥がされたと思ったら、まわりには部員が全員集合していて、しかも見知らぬ顔までいた。恥ずかしくなって蛭魔のかげに隠れる。
「救援物資、到着!」
そう言った蛭魔が、カートから下ろしたキャリーバッグを近くにいた部員にひとつずつ滑らせパスしていく。空になったカートを栗田くんが戻してくれて、拠点にしているらしいデコトラにみんなで向かった。
「なまえさん、よくひとりでこれましたね」
「えっと、主務の…セナくん。もうとっても緊張したよ」
「でも、助かりました」
受け入れられたことにほっとして、みんなをみまわす。そこで気づく、みんな、私を蛭魔の彼女だと思っているんだ。姉崎さんも? 分からない。けど私は、蛭魔が否定しないならそれでも良いかという気になっていた。
私の迎えのためにだいぶ急いだらしく、みんな疲れきっていたけど、それでもデスマーチは続く。台風から逃げたり、たまにある街でシャワーを浴びたりしながら、ラスベガスは近づいてくる。私は姉崎さんとデコトラに乗り込んで、でもなにを話したら良いのか分からず、単語帳を見ながら座り直すばかりだった。けれど、全くなにもなかったわけではない。私がひたすら単語帳を繰ったり、参考書を眺めていたからか、分からないところを教えてくれたのだ。姉崎さんも、相当頭が良いことが分かった。
最初はどうなるかと思ったけれど、為せば成るもので、やっとの思いでみんなでラスベガスについた。大きなホテルに泊まることにしたけど、ホテル代も飛行機代も先生の借金返済の費用も、全部カジノで稼がなきゃならない。
「本当に大丈夫なの?」
「なまえが心配することじゃねーよ」
蛭魔はベットに転がって呻く。疲れた顔なんて誰にも見せなかったけど、部屋に入ったら気が抜けたようで蛭魔はベッドにダイブだ。デスマーチの間中ずっと銃を持ちながらパスルートを指示して走り続けたんだから当たり前だけど、それを私には見せてくれるのが嬉しかった。
「でも無事に着いて良かった。今日はゆっくり休んでね」
「…おー」
蛭魔はがば、と起き上がってシャワーを浴びに行く。私は、鞄から着替えを出しておく。すぐに出てきた蛭魔は、私の額にひとつキスをくれて、ふとんもかけずにそのまま眠ってしまった。私も、その頬にひとつキスをしてシャワーを浴びた。
朝、お腹が空いたものの蛭魔はまだ寝ていたので、こっそり部屋をでて、姉崎さんの泊まる部屋をノックしてみた。姉崎さんは英語が喋れるし、私が来たときに持ってきた蛭魔のお金がまだ余っているので、どこかでテイクアウトでもと思ったのだ。姉崎さんはすぐにでてきて、蛭魔がまだ寝ていることを伏せて事情を話すとみんなに声をかけてみようということになり、寝ぼけたセナくんとモン太くんと、意外と元気な十文字くんと鈴音ちゃんもくることになった。朝から営業しているカフェにはいって焼きたてのパンを頼む。みんなで食べて、きていないひとの分をテイクアウトしようということになり、まだ話したことも少ないひとたちとテーブルを囲む。
「なまえちゃんは妖兄と中学一緒だったんだ」
「う、うん」
「ヒル魔先輩に彼女がいるなんて意外っス」
主に鈴音ちゃんとモン太くんからの攻撃を受けながら、なんとか核心に触れないように話を流す。姉崎さんは会話にあまりはいってこない。
「でも、みんな気を遣わないで良いのに。部屋まで同じで」
「部屋決めはヒル魔さんがしてたような…」
「そうだったの? どうせそんな元気ないんだから、女の子と同じ部屋で良かったのに」
「…そんな元気…?」
しまった。と思ったけどあとの祭り。鈴音ちゃんが繰り返したことで、私は微妙な発言をしたことに気づく。
「いや、話したりとか! ひとりのほうがリラックスできるかなって」
「確かにそーっスよね」
相槌を打ったモン太くんとそれに頷いたセナくんはなにも気づかなかったようだけど、姉崎さんと十文字くんが私に微妙な視線を寄越した。付き合っていることになっているふたりに、体の関係があるのはそうおかしい話ではないけれど、わざわざこんな発言をする必要もなかったことに、顔にはださずに反省する。あとで、蛭魔に報告しなくては。蛭魔だって、私との交際を否定しているわけではないけれど、肯定しているわけでもないのだ。
慌てた私が、それとは気づかれないように、もうみんな起きるかも、と時計を見る。テイクアウトのパンやコーヒーを受け取ってホテルに戻った。部屋に戻れば、蛭魔がノートパソコンを開いていた。
「朝っぱらからどこ行ってやがる」
「姉崎さんと鈴音ちゃんとセナくんとモン太くんと十文字くんとモーニング。みんなの分、テイクアウトしてきたよ。はい、蛭魔の分」
「めずらしーメンツだな」
「あとはみんな寝てたの。誰かさんと同じで」
蛭魔は黙ってブラックコーヒーとホットドックを受け取った。ベッドに座って、ホットドックを食べる蛭魔を眺める。言わなくては。
「あのさ…私、みんなでモーニング食べてるときに余計なこと言っちゃたかも」
「へー?」
「蛭魔が部屋割り決めたって聞いて、そんな元気ないんだから私と一緒じゃなくても良かったのにって」
「セックスする元気もないってか?」
「セッ…でも、そう取られちゃったかも。姉崎さんとか十文字くんに」
「別にいーだろ」
「…良いの?」
「事実だしな。問題あっか?」
「蛭魔が良いなら…良いけど」
「確かめてみるか?」
「なにを?」
「そんな元気もないかどうか」
「…本気で言ってるの?」
「ゴムは?」
「…ある、けど」
念のためだ。念のため。なくて困るよりは、あって使わないほうがマシだ。蛭魔が、私に手のひらを向ける。私はかなり困ってから、でも蛭魔は引かないことも分かっていて、たくさんのポーチのひとつから、それを取って渡す。蛭魔はノートパソコンを閉じた。ひとり用のソファーから立ち上がる。
「三つも持ってくるたー、欲求不満か?」
「ち、違うよ! 念のため!」
「お望み通り使い切ってやるよ」
「ちょ、カーテン!」
私の言葉も気にせずカーテンが開いたまま、蛭魔は私を組み敷く。肩を手で押してなんとかやめさせようとしたけど、そんなものはなんの障害にもならず、蛭魔が私の首筋に吸いつく。
「やめ、跡つけないで、」
「隠しとけ」
「…あ、」
初めて私に鬱血を残した蛭魔はぢゅ、と音がした場所をべろんと舐めて、いつものように私を見て笑った。