アラームで起きてリビングへおりれば、蛭魔はダイニングで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。

「おはよ、蛭魔」
「ハヨ」
「よく寝れた?」
「おかげさまで」

 昨日のことを思い出して、言葉に詰まる。顔をそらしたら、カーテンの開いた大きな窓から朝の日差しが差し込んでいた。まぶしい。ああ、秋大会が、始まるんだ。そんな晴れやかな気持ちが、胸にあふれる。

「蛭魔、始まるね」
「…始まるな」
「楽しみだなあ」

 当事者の蛭魔は、どれほどの重圧を感じているのだろう。でも私は、ここまで頑張ってきた蛭魔の集大成が見られるのだと思うと、ふしぎとこわくはなかった。だいじょうぶ。蛭魔ならきっと、だいじょうぶ。そんな甘ったれた想いが、あった。
 今日は特別な日だから、朝食にトーストとスクランブルエッグ、サラダにコーンスープを作る。バターの香りがぺこぺこのお腹にしみる。

「蛭魔」
「ぁん?」
「なにごともさ、絶対始まるんだよねえ」
「どーした、急に」
「私たち、もう前に進むしかできないんだなあって」
「…」
「どんなにこわくても、一発勝負でも、でももう、やるしかないんだよね」
「…そーだな」
「頑張って、蛭魔。絶対に、後悔しないように、頑張って頑張って頑張り尽くしてね」
「…言われなくてもな」
「ずっと応援してるよ。ずっと…ずっと」

 ずっと。
 蛭魔は、しみじみしてる私を見る。私も蛭魔を見ていた。朝の光が、金髪に跳ね返ってキラキラしている。秋大会からも、クリスマスボウルからも、逃げられやしない。日々は必ず進んでいって、必ずその日が訪れるのだ。誰かの夢を破いてでも、叶えたい夢があって、蛭魔にはちゃんとその覚悟が、ある。
 そう、私たちは前に進むしかない。後ろを振り返ったって、なにも変えられない。私たちのこのいびつな関係も、もとに戻ることはない。それでも、どこにいても、どんなふたりでも、蛭魔のことを応援していたいよ。

「ずっと…な」
「うん」
「ちゃんとずっと、見てろよ」
「もちろん」

 清々しい空気の中で、私は蛭魔と、そんな約束を、した。愛してるよ、の代わりに。そんな、安請け合いをした。秋のある日。
               *
 開会式を終えて、試合会場に移る。デビルバッツは、とびきり部員が少なかったけど、けど、負けてない。胸にいっぱいの温かさを抱えながら、バスに乗るほどじゃない距離を歩いた。隣には蛭魔がいる。大丈夫。前だけ向いているその横顔に、そう唱えた。
 まさかのセナくんが試合に間に合わないという事態に見舞われたものの、デスマーチの成果をまざまざと見せつけたデビルバッツの快勝で一回戦が終わる。正直にいうと、ホッとした気持ちが、ないわけではない。なにがあるかは、分からない。試合中はずっと、神様に祈るみたいに両手を握り締めていた。
 今日の夜は、蛭魔が大好きなカレーとポテトサラダにしよう! イモがかぶってるけど、気にしない。そう思って、先に会場をでる。蛭魔にメールをしてから、最寄駅までバスと電車を使って、スーパーに寄って蛭魔の家に帰った。うきうきしながら、ソファーにもたれる。

「なまえ」

 肩をゆすられて目を開けた。そこには蛭魔がいる。は、と気づいた。寝ていた。夕飯も作っていない。

「いま何時!?」
「六時」
「ぎゃあ! 夕飯! 作らなきゃ」
「落ち着け」

 がば、と背もたれから背中を離せば、蛭魔がとん、とそれを戻す。シャワーを浴びた後らしく、蛭魔はほかほかだ。夕飯の前に言わなくちゃいけないことがあると思い出して、肩にのったままの腕を掴む。

「蛭魔!」
「なんだよ、元気いっぱいか?」
「初戦突破おめでとう!」

 バネで立ち上がってその体に抱きつく。今度は逃げなかった蛭魔の、筋肉のやわらかさを頬で堪能した。すぐに、メイクがついてしまうことに気づいて離れようとしたけど蛭魔がぎゅうと片腕で抱きしめ返してくれて離れられなかった。蛭魔、どれだけ嬉しかっただろうな。ずっと、この瞬間を待っていたんだ。もちろん、デビルバッツはまだ全員揃ったわけじゃない。でも、ここまでこれたことだって、めちゃくちゃに嬉しいはずだ。待ち望んでいたはずだ。ずっと頑張っていたの、知っているから。両腕を広くなった背中にまわして強く強く抱きしめる。良かった。ほんとうに、良かった。まだまだ、夢を見ていられる。

「…なまえ」
「なあに」
「そろそろ離せ」
「どうしよっかな」
「勃つ」
「ん?」

 不穏な単語が聞こえて顔をあげた。じいっと、私を見つめる蛭魔と、見かえす私。蛭魔が、抱きしめてくれていた右手で背中をぽんぽんと叩いた。私は、離れる。黒いTシャツに、うっすらファンデとチークがついていた。

「メイクついちゃった。落ちるかな」
「中性洗剤か、なまえが使ってるクレンジングオイル」
「さすが蛭魔!」

 でも、蛭魔はそのあたりをぺっぺと払うだけで脱いではくれない。着替えたらやるか、と私は夕飯を作ろうとキッチンに向かう。

「今日の夕飯は?」
「蛭魔の大好きなカレーとポテサラ! あとふつーのサラダとコンソメスープ」
「…好きっつったか?」
「ちがうの?」
「…ちがわねえけどよ、」
「ちょっと待っててね!」

 とりあえず時間がかかるのはカレーとポテサラだ。ノートパソコンを開いた蛭魔を見てから、じゃがいもを取り出す。とにかく、たくさんのイモの皮を剥かなくては。
 一時間もしないで、宣言したとおりのメニューができあがる。できたよー、と呼べば、蛭魔はすぐにソファーからダイニングへやってきた。

「段取りの良さは母親ゆずりか?」
「数こなしたの!」
「それもそーか」
「はい、初戦突破祝いに蛭魔の好きなものたんまり召し上がれ」
「イタダキマス」

 手を合わせた蛭魔がスプーンを取る。カレーにいくかと思いきやポテトサラダだ。蛭魔はこれが好きらしく、たんまり作っておいたから明日お弁当でも作ってあげようかなとか考える。私の作るポテトサラダはめずらしく母のレシピだ。食感がちがうからきゅうりとにんじんはなし、魚肉ソーセージにコーンだけのシンプルなものに、隠し味。

「隠し味でも使ってんのか?」
「ん? どれ?」
「ポテサラ」
「ふふん。使ってます」
「ふーん」

 興味なさげに蛭魔がカレーをつつく。誰の、ポテトサラダと比べてるんだろう。コンビニのお弁当だと良いけど。

「ねえ、蛭魔、明日から私、早起きしてお弁当作ってあげるよ」
「できんのか?」
「やる!」
「俺は構わねーけどよ」
「やったあ! 頑張るね!」
「体壊すなよ」

 日が、落ちていく。長い長い一日が終わる。蛭魔が、目の前にいるのがなんだか信じられないようで、まだ一勝なのに嬉しくて嬉しくてふわふわしていて、現実味がない。でも、まだまだ。まだまだこれからだ。蛭魔を見ていたら手が止まっていて、目が合った蛭魔に早く食えと促される。目分量で作っているけど、ポテトサラダは今日もいつもの味だ。明日のお弁当はどうしようかな、そう考えながらカレーを食べる。
 夜ご飯も終わって、お風呂に入ってまったりしていたら蛭魔に早く寝るぞ、と声をかけられた。きょとんとして蛭魔の顔を見るけど、すぐにそういうことだと気づいて頷いた。さっさと寝る支度をして、手を繋いでベッドに向かった。
 アラームが鳴って、目が覚める。時計を見た。五時だ。ちゃんと起きられたことにホッとして、もう隣に蛭魔がいないことに気づく。早いなあ。階段をおりれば、ジャージ姿の蛭魔が玄関にいた。

「おはよー。走りに行くの?」
「ハヨ。おう、行ってくる」
「気をつけてねー」
「おー」

 蛭魔を見送って、リビングに向かう。外はもう明るい。まだ眠いけど、お手洗いにいって顔を洗って歯磨きをして、キッチンに立つ。前にキッチンを発掘していたときに見つけたお弁当箱をだして、寝る前に予約したご飯が炊けているのを確認する。今日はお弁当に入れられそうなものが少ないから、冷蔵庫のなかをひっかきまわしておかずを用意する。仕切りとしてサニーレタス、昨日のポテサラ、だし巻きたまごを焼いて、ウインナーはタコさんに、買ってあった豚ロースを生姜焼きにして、お弁当に詰める。ついでに、私のお弁当も作る。蛭魔のために頑張れば頑張るほど、楽しくて頬がゆるむ。
お弁当が完成して、冷ましている間に洗い物をしながらパンを焼いていたら、蛭魔が帰ってきた。シャワーを浴びている間に、コーヒーをいれて、葉野菜をちぎってミニトマトを切る。

「できたよ、お弁当」
「おう、楽しみにしとく」
「うん、おいしいと良いな」

 朝食を一緒に食べて、お弁当を持たせて朝練に行く蛭魔を見送る。さすがに昨日もセックスをしてから寝たから、まだ眠い。アラームをかけてソファーに沈む。今週は始まったばかり。でも、週末は秋大会二回戦だ。頑張る蛭魔を少しでも応援するために私も頑張ろう。今日の帰りはスーパーでお弁当のおかずにできるものを買おうと思いながら目を閉じた。
 昼休み、友だちとお弁当を食べていたらケータイがメールを受信した。見てみると蛭魔からだった。弁当うまいけど、タコはやめろ、という文面に頬がゆるむ。ニヤニヤしているのをからかわれながら、昼休みは終わっていく。授業をこなして、友だちの家の近くのスーパーでジュースとお菓子を買って勉強会を開くのは恒例だ。一緒に宿題を終わらせて、帰路に着く。電車をおりて、駅前のスーパーで細々とした食材を買って帰った。
 そんな日々を過ごしていたらあっという間に週末で、二回戦を見に行く。大きな会場で、観客がたくさんはいっている。蛭魔が、すごく遠い。勝ち進めば進むほど、遠くなっていくのかな。そのとき、私は傍にはいられない。いるのは姉崎さんだ。蛭魔を、支えているのも。夕陽ガッツ戦は、予想していたスタメンではなかったもののデビルバッツには新しいメンバーが増えたし、攻撃のパターンが増えたことで蛭魔の策も幅が広がる。どんな相手でも全力を尽くすデビルバッツが夕陽ガッツを下して、二回戦も勝利をあげた。私は本当にホッとして涙が出そうだった。
 そのあとは西部戦と柱谷戦を見るというので私はメールをして先に帰った。一緒に見たかったけど、遠慮しておいた。今日の夜は打ち上げで焼肉屋に行くらしい。良いなあと思ったけど、悲しいけど私には同席する権利もない。悲しくて、家に帰った。やっぱり誰もいない。少し勉強して、早く寝よう。明日は月曜、早起きして五時すぎには蛭魔の家に行かなきゃ。お弁当を作るのは、どこか意地でもあった。私には、誰もいないこのせまい集合住宅がお似合いなんだ。お風呂に入って、ママのパックを拝借して、ダラダラ過ごす。スキンケアを終わらせて、雑に髪を乾かして、ソファーに座った。いまごろみんな焼肉かあ、と思いながらカップ麺をすする。蛭魔からは、焼肉の誘いの電話から連絡もない。そんな、いけるわけないじゃん。アメリカのときとは訳が違う。ぼーっとしながら、蛭魔の家では見ない、つまらないバラエティで時間を潰す。今日だけ。こんな夜を過ごすのは今日だけ。明日からは心を入れ替えて、勉強を頑張らなきゃ。
 玄関で音がする。あれ、と飛び起きた。ドアを見つめていると、ガチャ、とスーパーの袋を下げた母が現れた。

「…ただいま、なまえ」
「おかえり、ママ」
「いたのね」
「…うん」

 なにげなしに、試合の後打ち上げなんだって、と言う。母はふーん、と興味なさげだ。この時間に帰ってくるということは、日勤のほうが少し残業だったのかもしれない。よく知らないけれど。

「…同じ高校に行きたかった?」
「…なに急に」
「…ううん、ごめんね」
「…ママが謝ることじゃないよ」

 どうしようもない、閉塞感。誰も悪くない。仕方ない。母が、スーパーの袋のものを冷蔵庫に詰めていく。なにか食べたの? と聞かれて、カップ麺食べた、と答える。母は適当に肉野菜炒めを作って、冷凍してあるご飯を温めて食べるらしい。

「ママは…」
「…?」
「男で痛い目見たからね」
「…パパ?」
「…そうね、だから、なまえにも、見る目のなさが遺伝してるかも」

 母が、少し笑った。私もつられて笑った。蛭魔は、どうなんだろう。分からないな。母とは気まずくて同じ空間にいることを避けていたから、こんな話をすることもなかった。もし、見る目のなさが遺伝してるなら、蛭魔はやめておいたほうが良いってことになるなあ、そう考えながら、麦茶を飲んだ。
 私の母は、自慢できるくらい美人だ。私は母に似てると言われるけど、母ほどきれいには生まれなかったと思う。でも、母は美人であることにうんざりしている。仕事中は男性患者が厄介になるらしいし、私の父親はモラハラ野郎だったらしい。美しい妻への執着が限度を超えていたのだ。父親だった人は私にあまり興味がなさそうだったのを覚えている。この頃から私は、自分の容姿が母によく似なかったことをコンプレックスに思うようになった。

「ま、付き合ってるときはちゃんとしてても、結婚したらそうでもなくなることもあるしね。分からないもんだよ」
「…そっかあ」
「勉強は頑張ってる?」
「うん。頑張ってるよ」
「それは良かった。自立していれば、すぐ離婚できるから頑張るんだよ」
「…うん」

 とおまわりな恋バナを母としていたら、二十一時を過ぎていた。明日も早起きして蛭魔の家に行く予定だし、もう寝ようかな、と母に告げる。母は、なんともいえない表情で、おやすみを言う。部屋にいって、久しぶりの自分のベッドにはいる。蛭魔の匂いは、当たり前だけど、しない。うとうとしていたら、充電中のケータイが鳴った。着信相手は、蛭魔だった。そういえば、帰ること言ってなかったな、と思いながら電話にでる。

「…はい」
「帰ったのかよ」
「…うん。明日の朝、五時過ぎに行くよ」
「…そーかよ」
「楽しかった? 焼肉」
「なまえも来れば良かったろ」
「…私は部外者だし、行けないよ」
「…」
「もう寝るよ、おやすみ、蛭魔」
「…おやすみ、なまえ」

 ぷち、と電話がきれる。これで良いんだ。私は彼女じゃないし。これで良い。試合の興奮も、焼肉に行って騒ぐことで紛れただろう。おやすみ、蛭魔、また、明日ね。