グラウンドで、どんなやりとりがあったのか、私には知る由もない。でも、泥門デビルバッツが神龍寺ナーガをくだした。モン太くんの執念と、セナくんの挑む心、十文字くんのふんばり、栗田くんの心の強さ。どんな状況でも諦めなかったみんなの、そして、どんな努力も欠かさなかった蛭魔の、ひたむきさが、神龍寺の十連覇をぎりぎりで阻止した。去年の蛭魔に教えてあげたいよ。こんなところまできたよ。随分遠くまできたよ。ねえ。沸き立つ観客席、つんざくような歓声の中で、ひとり涙を流す。勝った。勝った。下馬評を覆し、大差をつけられた前半をものともせず。ねえ、やったよ。そう思うと、体中がからからに乾いてしまうくらいに泣けた。

「みんなっ」

 初戦を終え、みんなでこの後の試合を観戦する輪の中に混ざる。激闘を制した彼らの、やりきった顔が眩しい。おめでとう、と声をかけてまわり、ハイタッチをし、一番向こうにいた蛭魔のもとにたどり着く。いつもどおりの飄々とした表情。その視線はもう次の試合に向けられている。

「…蛭魔」
「なまえ」
「おめでとう」
「…おう」

 右手をあげたら、マシンガンを担ぎなおした蛭魔がパチンと手のひらを当ててくれる。こんな高揚感に包まれているのは人生で初めてかもしれない。
 次に行われるのは太陽対白秋の試合だ。地区大会ではすべての投手に大怪我を負わせている、という前情報がはいって、私はこわさを隠しきれない。この試合、どんな試合になるのだろう。蛭魔の隣で見ていたけど、圧倒的だった。声が出せない。試合は太陽の棄権で終わったものの、心ない観客の暴言で観客席は恐怖に包まれる。フェンスをものともせず乗り込んできた峨王くんに、私と姉崎さんと鈴音ちゃんを庇うようにした蛭魔がスタンガンを取り出す。西部の陸くんの機転でその場はおさまったものの、白秋は強い動揺を与えて去っていった。
 恐ろしさを飲み込めないまま試合は進み、西部と王城が勝ち進んだ。泥門の次の対戦相手は王城だ。神龍寺に続き、避けられない強豪との対戦に心臓が休まらない。時間も時間、みんな筋肉痛がで始めたのもあって、今日は打ち上げなどもなく解散になる。駅から家までの道を蛭魔と歩く。

「蛭魔…」
「あん?」
「神龍寺に…勝ててすごく嬉しいんだけど、だけど、なんかこわくなっちゃったよ」
「クリスマスボウルに行くってことは、そういうことだ」
「…うん。なんか…ドキドキがおさまらない」
「焦んな。まずは目の前の王城に勝つことだけ考えろ」
「…そうだね」

 私が、投手のポジションである蛭魔をどうしようもなく心配していたのはバレバレだったらしい。それくらい、峨王くんに与えられた印象が強すぎて、消せなかった。
                *
 王城の学園祭に遊び、もとい偵察に行くことになり、誘われて私もついていく。ハラハラしながらスコアボードを探しにいき、警備員に追いかけられたのも良い思い出だ。蛭魔は知りたかった情報を手に入れてほくほくしながら私と出店をまわってくれた。

「なんか良いなあ、こういうの」
「?」
「今年は全然、お祭りとか行けなかったからさ」
「夏休みは潰れたからな」
「あれはあれで楽しかったよ。いまとなっては」
「そりゃ良かった」

 きっと来年もお祭りには行けないかもしれない。チョコバナナを食べながら、蛭魔を見る。興味なさげな蛭魔はポケットに手をつっこんだまま、出店を見ていた。
 デビルバッツのみんなだって、黙って準決勝に望むわけじゃない。三日間に及ぶマスク生活を終え、ついに王城戦が始まった。観客席にいる私にできることなんてなにもない。ただただ、祈るだけだ。勝ちますように。勝てますように。試合を見ているといつも思う。おとこのこってすごいなって。強くて、逞しくて、すごいなって。彼らはいま、おとこのことしての強さすべてをアメフト注ぎ込んでいる。とても健全な使い方だ。あんなに、ぶつかって、走って、転んで、倒されて。それでも、まだまだ諦めることなんか知らないつよさで。どっちが勝ってもおかしくない試合だった。それくらい、みんな全力を尽くしていた。体も、心も、なにもかも、拮抗していた。それでも、そんな切実な試合を、制したのはデビルバッツだった。去年は秋大会一回戦負けだったチームが、ここまできたんだ。ここまで。
 泣いて、笑って、拍手で選手たちを讃える。蛭魔の夢が、みんなの夢になっていく。そんな過程を見てきた。少し離れたここから。
 帰ってきて一番に抱きついた背中は満身創痍で、それでも活力に満ち満ちていた。蛭魔は、私が腹にまわした手をぽんぽんを叩く。

「おめでとう、蛭魔。ありがとう、蛭魔」
「礼を言うにはまだはえーよ」
「…うん、そうだね。でも、ありがとう」

 くるりと向き直った蛭魔が、廊下に鞄を落っことして両腕で私を抱きしめた。思えば、こんなふうに抱き合うのは初めてかもしれない。蛭魔が首を曲げる。吐息が、耳にかかる。抱きしめていた腕を動かして、随分広くなった背中をかき抱いた。ありったけのお疲れさまを込めて。

「ヴィーナスフォート? なんか買いにいくの?」
「いや。白秋のマネージャーからの呼び出しだ」
「…誰が呼び出されたの?」
「セナ」
「…分かった。盗聴器仕掛けて盗み聞こうってハラね」
「よく分かったじゃねーか」

 そんなわけで、お台場デートだ。高いところから見ていた私には話し声など聞こえなかったけれど、思い詰めたようなマネージャーもろとも吹っ飛ばさんとテーブルをぶち壊した峨王くんの姿はよく見えた。

「蛭魔…。だいじょうぶなの、あれ…」
「…さーな」

 その表情がいつになく神妙で嫌な予感しかしない。どうか、どうか、白秋を西部が打ち負かしてくれますように。そんな願いは、儚くも打ち砕かれた。西部優勢に進んでいた試合も、峨王くんがキッドくんの腕を粉砕したことで、会場は途端に冷えていく。ああ。私のため息はたぶん、隣にいた蛭魔にだけ届いて静かに消えた。あんなに早くパスをしていても、ダメなんだ。目にする圧倒的な力に、足が竦む。蛭魔。思わず見上げた隣の横顔は、平静さを欠くことなく試合に釘付けだ。諦めなかった陸くんの頑張りも届かず、関東大会の決勝戦は、泥門と白秋で行われることになった。

「なまえ」
「…」
「なまえ!」
「っ、なに、」
「呑まれるな」
「そんな…こと言われても、」

 ああ、どうして蛭魔はそんなに強いんだろうね。分からないよ。蛭魔。私はこんなに怖くて仕方ないのに。蛭魔は私の手をぎゅうと握る。

「だいじょうぶだ」

 なにが、だいじょうぶなのか、全然分からなかった。それでも、その手の強さと温かさを感じていた。私はまた蛭魔に勇気づけられてしまった。また。蛭魔だって、こわいはずだ。それでも、その気持ちを置き去りにしてまで、私のことを心配してくれてる。私が強くなきゃ。私が、蛭魔を応援しなきゃ。そう思って、その手を握り返した。

「うん…だいじょうぶ」

 なんの根拠もないけれど。いまはそう言わなきゃいけない気がしていた。勝てないと思っているわけじゃない。ただ私は、蛭魔が壊されることがこわくてこわくて仕方なかったんだ。
                 *
 蛭魔が確保してくれていた最前列で、みんなの横顔を見守る。蛭魔。胸が張り裂けそうだよ。蛭魔はなにを考えてる? なにを信じてる? どこを見てる? 私には、なんにも、分からないよ。それでも、そんな蛭魔が、だいすきだよ。試合開始のホイッスル、私たちはもう、前に進むしかない。時間を、止めることはできない。祈ることしかできない私の無力さを痛感しながら、それでも、ただ、祈る。蛭魔の夢が、みんなの夢が、潰えませんように。
 私はそれを、ひどくスローモーションで見ていた。相手のチームの選手ごと、吹き飛ばされていく、蛭魔を。声も出なかった。ただ、ひゅっと息を吸っていた。でも、分かっていた。きっと、こうなること。蛭魔の姿を見ていたら、そんな予感がしていた。それでも私は、ただ座っていた。倒れたまま動かない蛭魔。タンカで運ばれていく前に、ふたりだけのハンドサイン。良いなあ。私には踏み込めない、ふたりだけのことば。握り締めた両手から血の気が抜けていく。ただただ、見つめていることしかできない。蛭魔。そう思っていたら、姉崎さんが振り向いた。観客席を見渡して、なにかと思ったら目が合う。口が動いた。

「みょうじさん!」

 その口が、そう動いた気がする。わけも分からず、姉崎さんを見つめていたら、そのあたりにいたみんなが私のほうを向いた。姉崎さんの手が、こいこいとばかりの動く。眉をひそめて、え? という顔をしたのが伝わったのか、少し困ってから、下のジェスチャーをされる。分からない。分からないけど、とりあえず席を立って、観客席から出る。どこに行けば良いのか、きっと部外者は立入禁止だろうしとウロウロしていたら鈴音ちゃんが向こうから一直線にやってきた。

「なまえ姉! こっち!」
「鈴音ちゃん、」
「妖兄が呼んでるって!」
「蛭魔が?」
「急いで!」

 手をひかれて、鈴音ちゃんが会場内を滑っていくのに走ってついていけば、警備員の立っている関係者以外立入禁止のスペースにチアの衣装パスで入っていく。ぐんぐん進んで救護室にたどり着けば、中から話し声がした。私の前にいた鈴音ちゃんは厳しい顔つきのままふりかえる。

「私、応援に戻るから、」
「…うん」
「あとは、お願い」
「…うん」

 しゃ、と鈴音ちゃんがきた道を滑っていく。私は、ドアを開けようとして止まった。中で話しているのは、蛭魔と姉崎さんだ。なんだか、はいれない気がして、ドアを少し開けたまま固まった。少しだけ空間が共有されたことで、不明瞭だった声が、はっきりする。

「ヒル魔くん…」
「…なんだ」
「こんな体で行かないでよ…」
「…そんなわけにいくか」
「…ヒル魔くん、私じゃ支えにならないかな」
「…」
「…みょうじさんとは、付き合っていないのよね? ふたりとも、否定もしないけど、肯定もしないから…」
「…なんのつもりだ」
「私…、私、行かないで欲しいよ。こんなケガで、」
「なまえは、」
「…呼んだけど、」
「俺を支えてるのはなまえだ」
「、」
「俺になまえ以上はいねえ」

 いいからテーピングをしろ、と蛭魔の声をぼうっと聞いていた。力ない蛭魔の声。でも、はっきり言っていた。俺になまえ以上はいねえ。その言葉を、反芻していた。蛭魔、そんなふうに思ってたんだね。思ってくれていたんだね。涙が、でそうになって、上を向いた。蛭魔。私、全然頼りにならなくて、蛭魔に支えてもらって、励まされてばっかりで、でも、そんなふうに言ってくれるんだね。蛭魔。私も強くならなきゃ。蛭魔を支えられるように。
 意を決して、ノックをした。反応を待たずに少し開いていたドアを開ける。

「みょうじさん」
「なまえ」

 ふたりの視線が私に刺さる。自信を持たなきゃ。蛭魔が、私を呼んだんだから。上半身裸の蛭魔が、腕にテーピングをしているだけだった。手を伸ばして、汗ばんだ額を拭う。子どものように目を閉じた蛭魔の、ほほに触れた。姉崎さんは、黙って救護室をでていく。

「ひるま」
「…おう」
「…痛いね」
「痛くねー骨折なんざねえよ」
「それもそうだね」
「…なまえ」
「…ハンドサイン、私の名前もあるの?」
「…いや、」
「姉崎さん、よく分かったね」
「…そうだな」

 いま、試合はどうなっているのだろう。きっと蛭魔は聞き耳をたてているはずだ。蛭魔。みんな、強くなったね。蛭魔のいない穴を塞ごうとして、動揺している栗田くんを庇おうとして。良かったね。蛭魔。見てよ。これが、蛭魔の頑張ってきた成果だよ。

「蛭魔、」

 遠くで歓声がひびく。試合はまだ、続いているのだ。涙でうるむ、姉崎さんの目を思い出していた。ほほに落ち着いていた手に力をいれて、蛭魔の顔を上に向ける。

「まだ、戦えるでしょ」

 蛭魔が、口角をあげた。それでなくちゃ。蛭魔。私も頑張るから、負けないから、逃げないから。覇気のある声で、当たり前だ、と蛭魔が言う。そう、こんなことで、折れる夢じゃない。千切れる夢じゃない。砕ける夢じゃない。潰える夢じゃない。ねえ、そうでしょ、蛭魔。