私はいま、定期券内のショッピングモールにいる。コーヒー専門店を目下捜索中だ。蛭魔は無類の無糖派で、コーヒーがブラックなのはもちろんのこと板ガムも当然辛口ミント味だ。そんな彼が家で飲むコーヒーを探していた。私はといえば、蛭魔が信じられないと苦虫を噛み潰したような表情をするくらいの甘党で、コーヒーには大さじ一杯の砂糖と、コーヒーと同じ量の牛乳をいれて飲む。蛭魔に、それはコーヒーじゃなくてコーヒー牛乳だと言わしめた飲み方だ。壁一面にずらりと置かれたコーヒーのドリップバッグたち。それぞれの名前とフルーティーとビターの目盛り、ローストの種類なんかが書いてあるカードにひたすら目を通す。彼はどれが好みだろうか? 迷いに迷ってインドネシア産のものを半ダース、エチオピア産のものを半ダース買って店を出る。次はフードコーナーだ。夕飯の買い出しをしなくては。
 一年のときからずっと、蛭魔は放課後部活で、早く帰ってくることなどない。母親と険悪で蛭魔の家に逃げている私は、自然と家事をするようになった。家賃代わりともいえるし、朝は遅く帰りは早い私がやるほうがどう考えても効率的だからだ。蛭魔はいまひとり暮らしで、私ひとり転がり込んでも問題はなかった。お父さんがどうしているのかは知らなかったけど、お母さんは蛭魔が中学を卒業すると同時にデザイナーとしての拠点を海外に移し、ついでにほぼ移住してしまった。
 煮込みハンバーグとサラダとコーンスープに必要な材料をカゴに入れ、レジを通る。ショッピングモールは大きくないけれど駅直結で、降り出した小雨に打たれることはなかった。電車に乗る。家の最寄駅と蛭魔の家のそれは同じだ。入り浸りだした頃は、泊まらず家まで歩いて送ってもらっていたが、母親と大喧嘩した日はじめて泊まってから、それなりの頻度で泊まるようになった。私の家は、倦みと疲れに満ちていて、いるだけで息が詰まる。蛭魔とは中学からの付き合いで、たぶん唯一の女友達だ。私はずっと、片想いしているけれど。
 最寄駅に着く。雨はやっぱり降っていた。おりたたみ傘を差して、買ったものを濡らさないように気をつけながらはやあしで蛭魔の家を目指す。民家がまばらになり、鬱蒼とした木々が見えてきたらもうすぐだ。門扉を過ぎ、合鍵でドアを開ける。防犯システムを止めて、靴を脱いだ。傘を玄関に置いて、長い廊下のつきあたり、ドアを開けたらリビングで、私はソファーに濡らさないよう気をつけていたスクバを置く。リビングの隣のダイニングが見える対面キッチンにまわりこんで、買ってきたものを冷蔵庫や棚に詰め込んだ。時間は十六時半すぎ。蛭魔が帰ってくるのは二十時近いだろう。とりあえず濡れた制服を脱いでハンガーにかけてカーテンレールに干す。持ち込んである部屋着に着替えて、ケトルのスイッチを入れた。紅茶の茶葉をお茶パックに詰めて、蛭魔は使わないティーポットに放る。マグカップに大さじ一杯の砂糖を入れて、お湯が沸くのを待った。早く蛭魔に会いたかった。高校は違うから、最後に会ったのは今朝だ。めちゃくちゃ最近だ。でも、会いたかった。
 最近の蛭魔は忙しい。なにせ、私たちは二年になったばかり、新一年生が入ってきたタイミングだ。新入部員を捕まえるために躍起になっているだろう。つい先日も、ものすごく足が速い一年生が入部し、数日後にはマネージャーも入ったと言っていた。春大会の一回戦を見に行った私も驚くスピードの持ち主で、蛭魔がどれだけ待ち望んでいた存在だろうと胸が締め付けられた。けれど、その揉めたすえに入部したというマネージャーの存在が気がかりでもあった。観客席からでも分かる、美人な子だった。思い出してため息を吐く。ケトルがお湯が沸いたことを知らせてくれて、私はこの劣等感と嫉妬をしまい込んだ。
 ガラスのティーポットに熱湯を注いで、色が濃くなるのを待つ。蛭魔、全然、女っ気なかったのになあ。またそんなことを思って悲しくなった。フランボワーズの香りの紅茶が、めいっぱい濃くなって、私はそれをマグカップに注ぐ。大量の砂糖が溶けて濁っていく。牛乳もたっぷり注げば完成だ。リビングにマグカップを持っていき、ローテーブルに置いて、私はソファーに沈んだ。うまくいかない。なにも、うまくいかない。上を向いて涙がこぼれるのを阻止した。蛭魔、早く帰ってこないかな。そんな思いは、一瞬で打ち消す。無理だ。練習があるもの。ミルクティーを飲んでまったりしたら、宿題をして、明日の授業の用意をして、夕飯を作らなきゃ。そんなことを考えていたら、スクバの中のケータイが震えた。見てみると、蛭魔からの着信だった。今日も泊まると伝えてあるけれど、一体どうしたのだろうと、慌ててボタンを押す。

「はい」
「なまえ、もう着いたか?」
「うん、お邪魔してるよ」
「そーか。今日は早く帰る。七時前ぐらいだな」
「部活は?」
「この雨で長いことやって風邪でもひかれたら困るからな、早めに切り上げる」
「そっか。分かったよ。夜ご飯作って待ってる」
「おー、悪ぃな」
「ううん、」
「じゃ、それだけだ。切るぞ」
「はーい、気をつけてね」
「おう、じゃーな」

 ぷつ、と通話が終わる。たったこれだけでも、好きで好きでたまらない。ケータイを握り締めたまま、それを噛み締めて、窓の外を見ようと立ち上がった。ずっと考えごとをしていたせいか気づかなかったけれど、雨は私が打たれたときよりも激しくなっていた。ばたばたと窓ガラスを叩いている。アメフトは雨でもできるけど、確かに雨の日の練習で体調を崩したら元も子もない。もう十七時を過ぎていて、私はとりあえず宿題と支度を後回しにして夕飯を作ることにした。
 炊飯器のスイッチをいれて、ひき肉とハンバーグの素を使ってできたタネをフライパンにのせ火をつける。蛭魔は華奢なほうだけど、しっかり育ち盛りの男子でよく食べる。フライパンには大きめのハンバーグふたつと、それなりのハンバーグがひとつ。焦げ目をつけている間に、ちょっと良いところのコーンクリーム缶を小鍋に投入し、同じ量の牛乳とコンソメ少々を足す。ぐるぐるかき混ぜて弱火で温めればあっという間に完成だ。ハンバーグに焼き色がついたらひっくり返してまた少し焼く。じりじりしてきたら、デミグラスの煮込みソースを加えて弱火にして放置だ。ここまで用意してからやっと、宿題のワークをローテーブルに出し、鞄の中の教科書やノート、ワークに資料集などを明日のものに入れ替える。蛭魔の家には何から何まで持ち込んでいるし、家から徒歩十分の距離で、足りないものは取りに行ける。友達以上居候未満だ。時計を見る。蛭魔が帰ってくるまであと一時間くらい。だと思う。ハンバーグとコーンスープの火を止めて、またソファーに埋もれる。蛭魔はどういう気持ちで、私を受け入れてくれているのだろう。少なくとも嫌いではないはずだ。可もなく不可もなく、でもないと信じたい。むしろどちらかといえば、好意を持ってもらえていると思っていた。でも、私も蛭魔も何も言わないから、私たちの関係はよく分からないままだ。だからこそ、最近出現した美人マネージャーが、すごくすごく引っかかった。私の中の何かが、ざわざわと騒いで落ち着かなかった。嫌な予感しかしなかった。負の感情に飲み込まれそうで、私は冷めたミルクティーを飲んだ。きりかえて、宿題をやろう。終わったら、サラダの用意だ。
 母子家庭の私には、私立という選択肢はない。最初から、蛭魔たちと同じ学校にいくことはできないと決まっていた。公立一択。それも、定期代がかかりすぎない近さの。手に職をつけて、ひとりでも自立できるようにしなさい。それが母の口癖だった。もうしばらく会っていないような気がする。私はもう一年ほど蛭魔の家に入り浸りだし、母は私のために日勤だけでなく夜勤にも積極的に入っているからだ。私のために頑張ってくれている母に申し訳ない気持ちはもちろんある。それでもひとりきりの家の空気に耐えられなかった。むなしさが充満しすぎている。テーブルに置かれた、夕飯代のお金を見るだけで気が滅入った。
 はっとして、時計を見る。嫌なことを考えてしまっていた。時計の針はいくぶん進んでいて、私は宿題を後回しにしてサラダを用意することにした。冷水で洗った何種類かの葉野菜を、絞って水気を切りながら千切る。蛭魔の分にだけカットしたミニトマトを並べて完成だ。私の料理なんて、全体的にこんなもんなのだ。ダイニングテーブルにランチクロスを敷き、箸とスプーンを置く。これで準備は終わり。あとは蛭魔が帰ってくるのを待つだけだ。ソファーでミルクティーを飲んでぼーっとしていたら、ぴろん、とケータイが鳴る。蛭魔からで、学校を出た旨のメールだった。蛭魔は徒歩通だ。あと十五分もかからないだろう。ミルクティーを飲み干して、フライパンと小鍋を弱火にかける。マグカップを洗ったら、いつでもこい、だ。
 あ、迎えに行ったほうが良かったかな、と思いたち、蛭魔に電話してみる。

「あ、蛭魔?」
「おう、どうした?」
「傘持ってるの? 迎えに行こうか?」
「おりたたみ持ってる、気にすんな」
「そっか。良かった」
「もー着くぞ」
「ほんと? 早いね、待ってる」
「おー」

 電話を切って、タオルを取りに行く。玄関に向かって、ドアを開けば蛭魔が門扉を過ぎてきたところだった。黒い傘に、銃器の入った大きな鞄。金髪は相変わらず重力を無視したままだ。

「蛭魔! おかえり!」
「たでーま」
「今日もお疲れさま。はい、タオル」
「おー」

 おりたたみ傘の水を切って振って、私の置いた傘の隣に置く。タオルを渡したら、蛭魔はとりあえず鞄を拭いていた。

「とりあえずシャワー浴びる?」
「そうする」
「ご飯用意しとくね」
「今日のメニューは?」
「ハンバーグとサラダとコーンスープ」
「食えそうなメニューではあるな」
「たぶん大丈夫だと思うよ」

 蛭魔の皮肉を笑って流して、キッチンを目指した。蛭魔は二階の自室に行って荷物を置いてくるだろう。ぐつぐつと音をたてるフライパンと小鍋。火を止めて、食器棚から皿を取り出す。コーンスープを器に移していたら蛭魔がおりてきた。キッチンを覗き見た彼はニヤリと笑って、悪くねーなと言う。そのままシャワーに向かった蛭魔の背中を視線だけで追いかける。悔しいけど、好きだ。神様は相当腕によりをかけて蛭魔を作ったに違いない。蛭魔をかたちづくる全てが完璧だった。それに加えてあの頭の良さだ。彼はずっと悪魔とあだ名されていたけど、いかにも悪魔に違いない。そうでなかったらこんなにも私を惹きつけて離してくれない理由がない。
 烏の行水でシャワーを終わらせてきた蛭魔は、夕飯が並んだダイニングテーブルにつく。両肩にタオルをかけて、いつもしっかりセットされている髪は洗いたてでサラサラだ。

「さー、召し上がれ!」
「イタダキマス」

 蛭魔といると、それだけで頬が緩んでしまう。私はそれを隠しもしないで箸を持つ蛭魔を見ていた。迷うことなくハンバーグを割って、食べている。それが、どれだけ幸せなことか。ひとりきりの食卓を思い出しては、向かいに蛭魔がいる事実を噛みしめる。それは私に幸せをもたらし、けれど、心には影を落とす。母親との確執。それは、まだなんにも解決していない。

「食わねーのか? フツーにうまいぞ」
「あ、食べるよ。ていうか、素使って作ってるから、まずくなりようがないよ」
「なんかあったか?」
「…ううん。なんにもないよ」

 蛭魔の家に逃げたって、なんにも解決していない。それでも、ひとときの安寧を手に入れてはいた。けれど、その安寧すら、揺らぎそうになっている。もし、蛭魔に、好きな人ができてしまったら? 私はもう家に行くどころか、こうして傍にいることすらできなくなるだろう。居場所を失うだけでない。蛭魔への、数年分の片想いすら、終わってしまう。

「なんもねぇってカオじゃねぇけどな」
「…ほんとだよ。そんなことより、蛭魔の話聞かせてよ」
「聞いてもしょーがねぇだろ」
「良いの。部員増えていろいろ楽しいんじゃないの?」
「まあ、面白くはなってきたところだな」

 目を伏せて蛭魔は笑う。中学のときから、三人でアメフトをやっていて、去年ムサシが抜けて、それでも諦めなかった三人の、未来が明るくなりつつあるなんて、私だって嬉しいのだ。そこに私がいられたら、もっと嬉しかっただろう。なんて、叶わないことを思ったりする。きっと、蛭魔はこれからも仲間を増やしてクリスマスボウルへ近づいていくんだ。そんな予感がする。だって、こんなに頑張っているんだから。私は自然と微笑んで、ご飯をほおばる蛭魔を見た。こうして、私の知らない蛭魔が増えていく。誰よりも喜んで、応援して、背中をおしてあげたいのに、寂しくてたまらないのも事実だった。