王城戦のあと、みんなは一度学校に戻るから私はさきに蛭魔の家に帰った。今日は桜庭くんのおかげで観客席は満員御礼、私は蛭魔が確保してくれていた最前列の端でなんとか観戦できた。結果は残念だったけど、気になったのはそこじゃなかった。お弁当くらいなら、私も作れるのにな。あの子に、足、テーピングさせてたな。そんなことばかりが気になってしまった。せっかく、蛭魔が試合にでてるのに。
 荷物を置いたらすぐ帰ってくるだろう。私はソファーにもたれて、蛭魔のアメフト雑誌をパラパラ見る。蛭魔、かっこよかったな。蛭魔のパスを捕れるひとがいたら、もっと楽しくアメフトできるだろうにな。そんなことを考えていたら、玄関のほうから音がした。雑誌をローテーブルに置いて、玄関に向かう。

「蛭魔! おかえり!」
「おー、たでーま」
「蛭魔、今日もすごかったね」
「負けたから意味ねーよ」
「そんなことないよ。すごかった」

 ぽんぽん、と頭を撫でられる。こういう距離になれるまで、どれくらいかかっただろう。中二のとき同じクラスで、隣の席になって、栗田くんやムサシが仲良くしてくれるようになって、それからついでに話してくれるようになって。ぽーっとしていたら、私をとっくに追い越していた蛭魔がふりかえる。

「なにぼーっとしてんだ」
「あ、ごめん」
「ジンジャーエールあったか?」
「あるよ! ちょっと待って」
「シャワー浴びてからで良い」
「分かった!」

 蛭魔は二階への階段に足をかけて私に聞く。冷蔵庫の中は把握しているから取りに行こうと廊下を進んだ。蛭魔は自室へ向かって、すぐおりてくるだろう。リビングを通り越してキッチンへ。巨大な冷蔵庫を開けて、買い置きしてあるジンジャーエールのペットボトルを確認して扉を閉めたら、蛭魔がリビングにきた。スタスタとキッチンを通り過ぎてユーティリティースペースへ。洗濯物を洗濯機にぶちこんで、スライドドアが閉まる。それを見送って、グラスに氷をいれ、ジンジャーエールを注いだ。私には、ジンジャーエールは難しい味がする。同じように氷をいれたグラスにサイダーを注いで、ローテーブルへ持っていく。
 十分とかからずにシャワーを浴びた蛭魔が、タオルで髪をがしがし拭いながらでてきた。入れ替わりに入って、洗剤と柔軟剤を入れて洗濯機のスイッチを押す。

「ジンジャーエールだしたよー」
「サンキュ」
「体、痛い?」
「ちょっとな、ま、大したことねーだろ」

 どっかりソファーに座って、ジンジャーエールをあおる蛭魔の隣、少し距離を置いて座る。冷えたサイダーを飲みながら、隣を盗み見た。なんでもない、顔をしている。本当は、色々思うところがあるんだろうな。私には、分からないけど。もちろん、負けて悔しい気持ち、いっぱいあると思う。でも、勝てる可能性がある最後の一秒まで、蛭魔は前だけ見てるから。そのまなざしに、私ははにかむ。

「ね、今度は私がお弁当作ろうか?」
「見てたのかよ」
「そんな手のこんだものじゃなければ作れるよ」
「気にすんな。なまえは何もしなくて良い」
「そっかあ…」

 気にしてない、ふりをした。なにもしなくていい。悲しかった。私にはなんにもできない。私なんていらない。そんなふうに受け取ってしまった自分に、自分で否定する。そんなこと言ってない。大丈夫。本当は今日の試合を見て言いたいことがたくさんあったけど、家でくらいゆっくりしたいかな、と勝手に思って話題を考える。蛭魔は組んだ足の上にノートパソコンをひろげ始めてしまった。

「あ、そういえば、この前、新しいコーヒー買ってみたんだ。飲む?」
「飲む。どこのだ?」
「いつものコーヒーショップ。インドネシアのとエチオピアのがあるよ」
「おすすめは?」
「えーっとね、」

 私はそう言いながらキッチンへ向かう。入り浸りだした頃はあんまりものがなかったキッチン。いまは私が使いやすいように改造中だ。ドリップバッグを詰めてあるカゴをおろして説明文を読む。インドネシア産は深煎りで甘味とコクがあって、エチオピア産は最標高エリアで採れたものでオレンジのようなさわやかさがあるらしい。悩む。悩むついでにケトルにミネラルウォーターをいれてスイッチを押す。うんうん悩んでいたら、蛭魔がノートパソコンを置いてやってきた。対面キッチンの向こうに立つ。

「そんなに悩むか?」
「どっちが好きかなあって」

 ドリップバッグをひとつずつ渡す。蛭魔もそこに書かれた説明を読んで、こっち、と片方を私に渡し、もう片方をカゴに戻す。選ばれたのはエチオピア産のもので、オレンジの気分だったのかな? と思いながらコーヒーカップとマグカップを取った。

「私も飲んで良い?」
「コーヒー牛乳をか?」
「そう! 砂糖大さじ一杯と牛乳たっぷり!」
「よくそんなもん飲めんな」
「甘くなきゃ飲めないもん」

 ケトルからごぼごぼ音がする。蛭魔は、おこちゃま、と言いながら今度は私の頭をくしゃりと撫でてソファーに戻っていく。あの長い指先が好きだ。全部好きだけど。蛭魔はクォーターバックだから手とか指とか爪を大事にしている。蛭魔が試合のビデオを見ているとき、私が爪を切ることもあるのだけど、だからとても緊張する。きれいに揃えて切って、爪保護コートを塗る。マニキュアみたいなものだ。手持ち無沙汰にそんなことを考えていたけどケトルが私を呼ぶ。個包装のドリップバッグのパッケージを開けて、口を開いてカップにセットする。沸いたばかりのお湯を少量注ぐ。二十秒ほど蒸らす。ふわりとコーヒーのすがすがしい香りが漂ってきて、息を吐いた。どうしてコーヒーは気持ちを落ち着けてくれるのだろう。またお湯を注いで、私のにはたっぷりの砂糖と牛乳を足す。それから思い立って、私が買ったかわいい小皿にクッキーをのせて、それらをトレーにのせてリビングに戻る。

「おまたせ」
「匂いが甘い」
「蛭魔のは甘くないよ」

 蛭魔の前にコーヒーカップを置く。私もソファーに座って、両手でマグカップを包んだ。牛乳がたっぷり入っているからぬるい。一口飲む。甘い。けれどその奥に、オレンジの風味を感じる気がする。ハイバックのソファーにすっぽり埋もれてまた一口飲んだ。落ち着く。日曜のこんな時間に、蛭魔が家にいるなんてめずらしい。昨日のうちに宿題を終わらせておいて良かった。今日はもうゆっくりするだけだ。あ、洗濯が終わったら、乾燥機に移して、しまわなきゃ。
 ちらりと隣を盗み見る。CMみたいに優雅な動作で、蛭魔は片手でキーボードを叩きながら、片手でコーヒーカップを取った。ゆっくり口をつける。一口飲んで、長い息を吐く。

「どう?」
「悪くねえな」
「良かった」

 おいしいねえと言ったら、俺とお前じゃ飲んでるもんがちげぇと返される。そういう軽口すら愛おしくて、やっぱり口角が上がる。リビングには、ぱちぱちというタイピングの音。私がクッキーをつまむ音。そんなゆるやかな夕方が過ぎていた。

「夜はどっか食いにいくか」
「え?」
「作るの、だりーだろ」
「どっちでも良いけど…」
「せっかくめかしこんでるしな」
「制服で見に行くわけにもいかないじゃん」
「どっちでも良いけどな。食いてーもん考えとけ」
「ありがと」

 私がそこにいるのを当たり前みたいに、話してくれるのがとても嬉しい。せっかくだしと髪を巻いていて良かった。ふたりでのんびり過ごしていると余計なことを考えなくて済む。洗濯機が鳴って、私はソファーを立つ。濡れた洗濯物を乾燥機にぶちこむ。
 リビングに戻れば、ぱたんとノートパソコンを閉じた蛭魔はそれをソファーに放って、今度は今日撮ったであろう試合のビデオをテレビで見始める。途中、ふたりで乾いた洗濯物を戻しに中断したけど、完璧にルールを覚えているわけではない私に説明をしてくれたり、私が感想を言ったりしていたら、窓の外は真っ暗だった。

「やば! いま何時?」
「八時前だな」
「早くご飯いこ!」
「なに食べたいか決まったのか?」
「えっ…と、パスタ!」
「決まりな。ほら、行くぞ」
「まってまって」

 蛭魔はさっと立ち上がってリビングを出ようとする。私もそれにならって二階へついていって、蛭魔は自室へ、私は書庫になっている部屋のクローゼットへ向かった。その部屋は天井までの本棚がすべての壁を覆い隠していて、ありとあらゆる本がみっしり詰まっている。けれど、クローゼットはなにも入っていなかったので、私の置き服やなんかをしまわせてもらっていた。カーディガンを取って、着てから部屋を出ると、ちょうどパーカーをはおった蛭魔が自室からでてきたところだった。

「お腹ぺこぺこだよー」
「俺もだ」
「いつものパスタ屋さんでしょ?」
「他にあんのか?」
「ない!」

 そんなことを話しながら玄関に向かうため階段をおりる。お目当てはふたりでたまに行く駅前のお店だ。私も蛭魔も、料理の得意でない母親を持つおかげで食にあまりこだわりがない。嫌いなものは多いけれど、味の良し悪しはあまり分からないのだ。
 そのへんを歩いていても、髪をおろしている蛭魔に泥門の悪魔を見つけられるひとはいないらしく、私たちはスムーズに駅前までやってきた。日曜の夜、ざわめきはあまり多くはない。ピークを過ぎていたのか、パスタ屋も空席が目立っていた。向かい合って座る。

「いつもの?」
「いつもの」
「おけー」

 水とおしぼりを持ってきた店員さんに、カルボナーラと大盛りアラビアータとコーヒーとミルクティーを頼む。私たちはいつもこれを頼むので、もうメニューを見ることをしなくなった。ジャズが小さめに流れる店内で、先に届いたコーヒーとミルクティーを飲みながらパスタを待っていると、蛭魔のケータイが震えた。画面を見た蛭魔は、電話にでることなくそれを閉じてしまう。

「でなくて良いの?」
「気にすんな」

 そうは言ったものの、切れたと思ったらまたかかってくる。蛭魔はひとつ舌打ちをして、またケータイを閉じようとするも、でたほうが良いんじゃない? と私が聞くと渋々といった顔で通話ボタンを押した。

「うるせーな、糞マネ」

 そのひとことで、私が固まる。お弁当のこともテーピングのことも忘れていたのに、今日の記憶が波のように私の中に押しだされてくる。落ち着こうとミルクティーをひとくち飲んで、蛭魔を見れば、視線をどこかにやりながら、ビデオがどうとか写真がどうとか話していた。

「つーか、出先なんだよ。手短に済ませろ」

 彼女に聞こえるように、大丈夫だよーと言おうかと思ったけど、もし蛭魔が私とふたりでいることを彼女に知られたくなかったら、と思い当たって黙っていた。蛭魔はめんどうくさそうな返事を何回かして、電話が終わる。

「まったく…明日で良いだろうが」
「熱心なんだね?」
「良く言えばな。悪く言うとウゼー」
「ひどいなあ」

 でも、なんだかんだ、ケータイの番号教えたんだ。私の心に、もや、と翳りが生じる。私、蛭魔の連絡先知るまでにどれくらいかかったっけ。そう思うと、彼女が本当に蛭魔の近くにいることを痛感した。胸が、ずきずき痛む。でも、顔にださないように気をつけて、頬杖をついて蛭魔を見上げた。大丈夫。私はふたりでご飯にも行けるし、同じベッドで一緒に寝ることだってできる。背中合わせだけれど。それでも、今後急速に距離が縮まるであろうことは予測できた。そして、私はそこにいない。彼女はきっと、私を知らない。中学時代、私がいた場所に、きっと彼女が収まってしまう。それがすごく悔しくて、嫌だった。彼女のことは、なんにも知らない。けれど、彼女が蛭魔をこわがっていないことは見ていて分かった。

「お待たせしました」

 よくいる店員さんが、私の前にカルボナーラを、蛭魔の前に大盛りアラビアータを置いて去っていく。フォークを使いながら、いつもはおいしく感じるのに、今日は味のしないパスタを口に放り込んだ。

「なんか…」
「?」
「蛭魔に仲良い女の子できるなんて意外」
「別に仲良いわけじゃねー」
「そーなの?」
「そーだよ。ただのマネージャーだ」

 はっきり断言してくれたことは嬉しかったけど、だから安心できるかというとそんなことはない。だって、一緒にいる時間はきっと彼女のほうが長い。朝練して、放課後も部活で、平日も土日も毎日で、私は、私は。寂しいなあ。弱いなあ。だめだなあ。そんなことを考えながらベーコンを刺したフォークにパスタを巻きつける。それを蛭魔が見ているとも知らずに。
 私は甘いカルボナーラを、蛭魔は辛いアラビアータを、特に会話もなく食べていた。

「蛭魔はさぁ、」
「ぁん?」
「いや…お母さんから連絡くるの?」
「たまにな。なまえは? 母親怒ってねえのか」
「怒ってるよ。でも、家にはいない」
「大学行きてえんだろ?」
「…うん。ママは看護の四大行ってほしいみたい」
「悪くねーだろ」
「また蛭魔と離れちゃう。蛭魔は大学どうするの?」
「いまはそれどころじゃねーが…まあ最京大だな」
「最京大…頭良すぎ。でも、蛭魔なら楽勝かあ」
「看護学部あるぞ」
「めちゃくちゃ勉強しても無理だよ」
「教えてやるから、めちゃくちゃ勉強しろ」

 嬉しくなって笑う。めちゃくちゃ勉強したって、私には無理難題だ。蛭魔がアメフトを頑張っている間、私は勉強を頑張らなくちゃいけないんだってことを思い出した。
 滑らかになった口で、最近の私の学校の話をする。家から近くて、公立でと考えるとちょっと無理をした進学校が第一候補で、中学のときも私は蛭魔に勉強を教えてもらった。おかげで、特進クラスで合格できたし、二年のいまでも特進クラスでいるのは、蛭魔がアメフトで忙しい中でも私に勉強を教えてくれているからだ。
 蛭魔が先に食べ終わって、それでも急かさずに私が食べ終わるのを待ってくれる。支払いも彼で、というか私はお金を出したことがない。仕送りもあるみたいだけど、株の配当金とやらで毎月余裕で暮らせるらしい。夜道を風に当たりながらふたりで歩く。蛭魔がいつも車道側を歩いてくれること、結構前から気づいている。私の家を通り越して、蛭魔の家にふたりで帰って、お風呂にお湯をためる。私が先に入って、蛭魔が入って、明日は月曜日、もう寝る時間だ。蛭魔は五時には起きて、軽く走ってから朝練に行く。私は八時前に家を出れば間に合うから、二度寝したり勉強したりしていた。
 ふたりで、蛭魔のベッドに横になる。背中を合わせて。でも。今日はこのまま寝る気にはなれなかった。ぐるりと寝返りを打つ。細く見えて、広い背中。重力に従う金髪。なぜか尖った耳とピアス。わずかに空いていた距離を詰めて。その背に、ぴたりと、寄り添う。ああ、壊れちゃう。そう、思った。