ふわふわの掛布にくるまれて目が覚めた。まだ眠いのにまぶたが持ち上がったのは、頭を撫でられる感触に起こされたからだ。目をやれば、もうジャージに着替えた蛭魔がベッドに座っていた。私が気づいたのにも関わらず、頭にのせられた手のひらはゆるゆると動いている。だめだよ。勘違いしちゃうよ。

「ひるま…おはよ」
「はよ」
「もう走りに行くの?」
「おう。五時だ」
「もう少し寝る…」
「…体、辛くねえか?」
「…ん、大丈夫だと思う」
「そーか。また起こしてやるよ。おやすみ」
「おやすみ…」

 もう一度頭を撫でた蛭魔の手が離れていく。行かないで。そう言いたかったけど、蛭魔の邪魔をしたくなくてやめた。ぱたん、と扉は閉まる。
 昨日、私たちは初めて体を重ねた。意外にも、体に異変は見られない。彼を受け入れたそこが、少しじんじんと違和感を覚えているくらいだ。体の感覚を探って、ようやく冴えた頭が、ことの重大さを思い出した。ああ、やってしまった。途端に心臓が耳もとでうるさく鳴りだす。蛭魔、なんて思っただろうか。でも、さきほどの蛭魔は普段の蛭魔とさして変わりなかったように思える。なんなら、優しいくらいだ。
 昨日、すべてが終わったあと、私がさきにシャワーを浴びて、スキンケアをやり直している間に蛭魔がシャワーを浴びた。ぼうっとしながら長い髪にドライヤーを使っていた私を見かねて、蛭魔が髪を乾かしてくれたんだ。私なら表面が乾いたら諦めてしまうところを、丁寧に丁寧に、内側の髪まで完全に乾かしてくれた。勘違いしそうだよ。やめてよ。そう思いながら、気だるさに目を閉じていたことを覚えている。
 やめよう。蛭魔が帰ってきて起こしてくれるまで、もう一度全部忘れて寝よう。今日はきっと授業に身が入らないだろうから、せめて、寝不足は避けたい。目を閉じてすべてを振り切る。ふりきる。ふりきる。

「なまえ、おい、」

 ゆさゆさと揺すられて目を開けた。水もしたたる蛭魔がいる。まだ、アラームは鳴っていない。時計を見ようとして、六時ちょい前だ、と蛭魔が言う。アラームは六時に鳴る。掛布をのけて、起き上がった。前髪を指で梳かしながら、足を床につける。

「蛭魔…おはよう」
「はよ。起きたか」
「うん…」

 あくびをかみ殺して蛭魔のあとについて部屋を出る。私だけ隣の部屋のクローゼットから制服を出して着替えた。それからリビングにおりる。蛭魔はコーヒーを飲もうとお湯をわかしていた。
 なんで、いつもどおりなんだろう。私たち、すごいことしちゃったんだよ? 蛭魔にとってはなんでもないことだったのかな。私には、人生で一番緊張した瞬間といっても過言ではない。でも、いつもどおりなら、それはそれで良いのかもしれない。なにもなかった。なにもなかった? そんなわけにはいかない。だって、蛭魔は私の処女を切ったと宣言したくらいだ。
 もだもだ考えながら歯みがきをして、トイレにいく。拭いたら、わずかな血。生理がきたのかと思ったけど、本当にかすかで、そのあと拭いてもつかない。なんでだろう? と考えて、昨日処女膜を破ったからかな、と思い至る。
 トイレからでてリビングに戻ったら、蛭魔が声をかけてきた。

「なに、難しいカオしてんだ」
「ん…ちょっとだけ、血が出てた」
「そりゃそーだろ、昨日もついた」
「なんか…へんなかんじ」

 なにについていたのかは聞かないことにして、私は下腹を撫でる。蛭魔はなんてことないカオで昨日のできごとについて語る。私たちの関係は、なにも変わってないみたいな空気が流れていた。なにも、変わっていないのかもしれない。セックスしても変わらない仲って、どんな仲だと思ったけど、変わらないなら変わらないで良かったのかもしれない。私、これからも蛭魔の近くにいられる。いつものように家に上がり込んで、いつものように一緒に寝て。セックスしたのに蛭魔は、なにも言ってくれない。好きとか、好きじゃないとか。でもそれは私もだ。こわくて、なにも言えない。それでも、私は蛭魔のいちばん、いちばん近くにいたい。

「ん、コーヒー牛乳とパンできたぞ」
「ありがと」

 ダイニングテーブルに、蛭魔が用意してくれたコーヒーとトーストが並ぶ。私は、コーヒー牛乳にマーガリンを塗ったトースト。蛭魔はブラックのコーヒーにプレーンのトースト二枚。寝起きの頭でそれをもぐもぐ食べる。これを食べ終わったら、蛭魔は行ってしまう。ちらりと蛭魔を見ると、ばっちりと目が合ってしまった。なに? と聞いたら、別に、とつまらない返事。お互いが、お互いを探り合っているような、まなざし。それでも、コーヒー牛乳はいつもと同じ味だ。

「今日も、泊まりにきて良い?」
「俺が来んなつったことがあったか?」
「ないけど、いちおー確認」
「合鍵渡してんだから、好きにしろ」
「…うん」
「つーか、今日部活ねぇから、いつもより早ぇ。終わったら連絡する」
「分かった」

 この距離感にはにかむ。蛭魔、自分に好きな人ができたらとか、考えないのかな。合鍵を返すときがそのときなのかもしれない。私のこと、好きになってくれないかな。そんなことを考えながら、トーストを食べきる。こんな朝の時間がたまらなく好きで、大切だ。蛭魔もトーストを食べきって、コーヒーを飲んでいる。
 銃器をつめこんだ鞄をかついだ蛭魔を玄関で見送って、食器を洗う。もう一度歯みがきをしたら、ローテーブルの前に座りこんで先週の復習だ。それが終わったら、簡素なお弁当を作って、私も学校にいく。

               *

 特になんの変哲もない一日が終わる。今日は部活がないって言ってたから、友だちの誘いをパスして電車に乗ったら、また雨がぽつぽつ降ってきた。泥門前駅で降りてスーパーに寄ろうと思うも、蛭魔、傘持ってたっけ? と思いつく。電話してみよう、と駅の中でケータイを出す。

「もしもし?」
「なまえか、どうした?」
「雨降ってきたよー、傘持ってる?」
「おりたたみある」
「なんだー。迎えにいって、一緒にスーパー行こうと思ったのに」
「泥門くるか?」
「他校生は入れないよ」
「まじめなやつだなー。一回帰って、駅前のスーパーで待ち合わせるぞ」
「分かった! 終わったら連絡してね」
「おう。じゃーな、気をつけて帰れよ」
「うん。バイバイ」

 というわけで、私は鞄の中をあさっておりたたみ傘を引っぱり出し、それを差して帰る。蛭魔と一緒に買い物だと重たいものも買えるから楽だ。雨足が強くなってきて、おりたたみ傘では心もとない。早歩きで家を目指して、合鍵で中に入る。いつかのようにおりたたみ傘の水気を切って玄関に置き、リビングを目指す。とりあえずソファーにどっかり座り込んだけど、制服であちこち行きたくなかったから、重い腰を上げて、スキニーに、カットソー、カーディガンでゆるっとワンマイルウェアに着替える。宿題をしながら、ケータイが鳴るのを待つけど、たぶんそんなにすぐには終わらないだろう。気長に気長に。教科書の問題を解いて、ワークの問題も解く。二時間くらい経った、十七時過ぎ、やっとケータイが着信を知らせた。

「はい。終わった?」
「おう。終わった」
「じゃースーパー向かうね!」
「気をつけてこいよ」
「ん、分かった」

 じゃーな、じゃーね、で電話を切り、ショルダーバッグにケータイとお財布が入っていることを確認して、傘立てに何本もあるビニール傘を差してスーパーに向かう。蛭魔は雨に降られるとすぐに出先でビニール傘を買ってしまうから、家にたまっていく一方だ。見かねてなんでもない日にプレゼントしたおりたたみ傘を使うようになってからはそれも減ったが。
 ビニール傘に雨の粒がばたばたと当たる。ブーツが、水たまりを避ける。空はほの赤い。スーパーが見えてきて、向こう側に黒い傘を見つける。蛭魔だ。傘の中から手をふれば、蛭魔は片手をあげる。こういう仕草にでも惚れ直すから、だめだ。

「雨、すごいね」
「そーだな」
「夜、なに食べたい?」
「デミグラスのオムライス」
「なにそれ、かわいい」
「うるせーな。なんでも良い」

 スーパーの入り口で傘の水を切って、備え付けのビニールに入れる。蛭魔はばしばしおりたたみ傘の水を切ってから、セットの袋に入れて鞄にしまってしまう。それを見ながらカゴを取って蛭魔に持たせてみれば、なんともまあ似合わない。やっぱ私持つ、と手を伸ばしたけど、重いだろ、と避けられてしまって、ああ好き。
 数日分は持つだろう量の野菜やたまご、肉、魚なんかをカゴにいれていく。日用品やお米、家で飲む飲み物なんかは配達してもらっているから、食料品くらいかな、と店内を歩く。ぐるぐるまわる私に、ついてくる蛭魔。衛生用品コーナーにさしかかったとき、後ろから聞こえていた足音がとまったからふり返った。

「いるだろ?」

 蛭魔がそう言いながら手を伸ばした先、小さなスーパーの、おむつや生理用品なんかが置いてある小さなコーナーの端、たった数種類置いてある、避妊具。私が固まるのも気にせずにシンプルなパッケージの、スタンダードなそれを蛭魔はカゴにぽいっと放り込む。その言葉が、必要かどうかを問いかけるものではなく、確認するもので、蛭魔の視線に射すくめられた私は小さくだけど確かに頷いた。

「こんなもんか?」
「…うん」

 蛭魔は顔色ひとつ、声色ひとつ変えやしない。私はそれをどう捉えて良いのか分からない。分からないけど、あまり家に帰らなくなった私を問い詰めて、中学の同級生でひとり暮らしをしている男の子の家にいることを知った母が吐き捨てるように言った、妊娠だけはするんじゃないよ、という言葉を思い出していた。
 ぼうっとしながらレジに向かう蛭魔の後ろを歩いていたら、快活な声が飛んできて私は我に返る。

「ヒル魔くん!」
「げ、糞マネじゃねぇか」

 その会話にはっとして顔を上げる。そして、声の主である彼女と、彼女の青い瞳と、目が合った。私はどうして良いか分からずに目をそらして、それから蛭魔を見た。

「こんなところにいるなんて珍しいと思ったけど…邪魔してごめんなさい」
「おーおー、さっさと帰れ」
「そういう言い方しなくても良いでしょ」
「うるせーなー」

 ごめんなさい、が誰に向けられた言葉なのかは分からなかったけど、とりあえず私は黙って会話を聞いていた。そして思い出す。カゴの中に避妊具が入っていること、最後に入れたから、たぶん一番上にあること。ひとりで勝手に慌てて、蛭魔の肘のあたりの制服をひっぱった。ひっぱってから、目の前でなんて言うのかを考えていなかったことに思い至る。

「どーかしたか?」
「あ、えっと…」
「急にごめんなさい。私、姉崎まもり、アメフト部のマネージャーなの」
「あ、あの、みょうじなまえです。蛭魔の中学のときの同級生で…」
「もう良いだろ。いくぞ」
「え? あ、うん。それじゃあ…バイバイ」
「バイバイ」

 彼女は私がしたように手を振ってその場で私たちを見送った。蛭魔はそんなこと気にもせずにレジに向かって猪突猛進だ。彼女の態度に変わったところはなかったように思えたから、カゴの中を見ないだけの分別を持ちあわせているのだろう。ほっとして、でも私は、蛭魔に遮られなかったら自分を蛭魔のなにと言っていただろうと思い当たる。なにと、言うつもりだったのだろうか。分からない。彼女、なんて言って、当の本人に否定されたら笑いものも良いところだ。友だち? 昨日、あんなことをしたのに? 分からない。なにも分からないよ。蛭魔。
 制服の男子高校生と私服の同年代女子が持ってきたカゴに避妊具が入っていても、レジ打ちの店員は特に反応もなく打ち込んでいく。小さな紙袋に入れることは忘れはしなかったけど。逆に目立つな、と考えながら袋詰めをする。お会計はもちろん蛭魔だ。

「きれいな子だね」

 食材が詰まった袋を横から奪っていった蛭魔にそう話しかけてみる。蛭魔の表情は、読めない。いつもどおり、どうでも良さそうな顔だ。でも、私は蛭魔がそれになんて返すか、緊張していた。

「そーか?」
「…そーだよ。うらやましい」
「なまえは系統が違ぇだろ」
「…そー、かな?」
「そーだよ」

 この話はこれで終わり、とばかりに蛭魔は自動ドアに向かっていく。飲み込めないまま、私は蛭魔を追いかけた。軒先でくるりとふりむいた蛭魔は、買い物袋を持っていないほうの手を私に向ける。戸惑っていると、傘、とだけ言われる。え? と思っていると、私から傘をひったくった蛭魔が、水滴が落ちないようにしていたビニール袋を捨てて、曇天の空にそれを広げる。

「なに、ぼーっとしてんだ。帰んぞ」
「え、あ、うん」

 なんで、相合傘? と思いながらもなにも聞けなくて、ていうか、聞けていたらこんなに思いつめることもなくて、蛭魔の隣に並ぶ。雨の粒は、行きで聞いたときと同じようにばたばた聞こえる。でもそれ以上に、心臓がうるさかった。歩くたびにかすめる肩からそれが伝わってしまいそうで、もし空がこんなに夕焼けに燃えていなかったら頬の赤さをごまかせなさそうで。ばたばた、ばたばた、雨音が、沈黙でうまれた静寂を邪魔する。俯いていた私は自分が全然濡れていないことも、蛭魔の肩が濡れていることにも気づかず、早く家に着け、そんなことばかり考えていた。