朝、いつもよりゆっくり支度を済ませてソファーに座り、ルイボスティーを飲みながらまったりしていたら、もう制服を着た蛭魔がひょいとコップを奪った。

「茶なのに匂いが甘ぇ」
「フレーバードティーなの。なんだったかな、はちみつとベリーとアプリコット! 癒されるぅ」
「甘党にもほどがあんだろ」

 今日は賊学戦だ。蛭魔は準備があるから早めに家を出る。私は少しゆっくりしてから行くことになっていた。
 蛭魔が、そこにいる。二日間家に帰っていて、本当に息が詰まりそうだった。なんとなく、母に会いたくなくて、会わせる顔もなくて、ご飯のとき以外は部屋にこもりきりだった。家で飲んでいた麦茶の味を思い出す。フレーバードティーの豊かさには敵わない。でもそれは、蛭魔に与えられているものであることも分かっていた。いつか、そう近いうちに、向き合わなければならない問題だということも、分かっていた。

「なまえ、俺はもう行く。着いたら俺を探せ」
「分かった」

 玄関まで見送りに行って、引き返す。今日は蛭魔のパスがどれだけ見られるだろう。楽しみだ。リボンタイブラウスに、チェックのプリーツスカート、巻き下ろした髪はスカートとお揃いのリボンでハーフアップ。少しでもかわいいと思われたくて、タイツまで気を抜かずに。小さなショルダーバッグに必要なものと、レジャーシートがわりの大きめタオルハンカチを詰め込んで、ロングブーツを履けば完成。スクールメイクよりは濃いめのメイクで、玄関先の全身鏡のまえで微笑む。がんばれ、蛭魔。
 ドキドキしながらはじめての校門を通って、グラウンドを目指す。やっぱりみんな制服で、私服のように見えるのは賊学の着崩した制服だった。それにまぎれるようにしながら、グラウンドの端で蛭魔を探す。すぐに、デビルバッツのみんなと入場してきた蛭魔と目が合う。手を振ったら、軽く手を上げて返してくれて、その格好良さにめまいがした。デビルバッツとカメレオンズがベンチに入ったところで、ソワソワしていたら蛭魔に指で呼ばれる。近寄ったら、近くに置かれたカラーコーンを退けてくれた。

「ここ良いの? 特等席だ」
「気をつけて見てろよ」
「うん」

 部員にあやしまれないように短いやりとりだけを交わして、草むらの上にタオルハンカチを広げる。ベンチの、ななめうしろらへん。座って、忙しそうにしているみんなを見ていたら蛭魔から足の上にタオルが飛んでくる。黒タイツを履いてるから下着が見えることはないけれど、気にかけてくれたことが嬉しくて、スカートにかけた。
 始まるまで、まだ時間があるようだ。蛭魔が観客席から追加の臨時選手を捕まえていたり、久しぶりに見た栗田くんが部室からよく分からないけど三人連れてきたり、バタバタしていたらようやく試合が始まる。どの子がレシーバーだろう、と探していたら、爆竹キックで跳ね回るボールを見事にキャッチした選手がいた。あの子だ。パスはおもしろい方向に飛んでいったけど。

「パンフレットどうぞー」

 近くで声がした。顔を向ければ、姉崎さんがパンフレットを配っている。数メートル先だ。どうしようと思いつつも数秒目をやっていただけなのに、目が、合ってしまった。私も姉崎さんも、あ、の形で口が開く。

「あ、こ、こんにちは」
「こんにちは…」

 先に話しかけたのは姉崎さんだった。ドギマギしながら返事する。

「要りま…要らないですよね、」
「あ、いえ! いただきます」

 パンフレットを差し出しかけて、やっぱりひっこめた彼女に手を伸ばす。ぎこちないやりとりに目をそらせば、ちょうど蛭魔が鋭いパスを放ったところだった。

「あ、」

 ばし、と八十番の選手がそれを取る。蛭魔。見たよ。どれだけこの瞬間を待ち望んだだろう。ねえ。感極まっていたら、すぐそこにいた姉崎さんのことを思い出す。ぱっと振り向いたら、彼女も試合にくぎづけになっていた。視線で気づく。やっぱり、姉崎さんも。そうなんだ。ぎゅうと胸が痛む。は、と気づいた彼女が私にパンフレットを渡してくれるも、彼女と話したくてパンフレットを貰いにくる生徒がやってきて、目礼で離れていく。
 パンフレットには目もくれずに試合を見守っていたけど、胸がザワザワしておさまらない。ぜったい、そうだ。これはいわゆる女の勘だけど、彼女も、そうなんだ。胸が張り裂けそうになりながら、蛭魔の放ったまっすぐのパスが通って、デビルバッツが先制するのを見ていた。
               *
「なまえちゃん!」

 試合が終わってすぐ、拍手で見守っていたら栗田くんに見つかった。久しぶり、と手を上げたら栗田くんは防具を持ったまま泣きながらこっちへやってくる。部員のみんなの視線が集まって、痛い。栗田くんはすぐそこで見ていた私の両手を取って、ぶんぶん上下に振る。すごい力で、体ごと持ち上げられそうだったけど、先制点を決めたモン太くんを振り回していたことを思い出すとかなり加減してくれているのだ。

「いー加減にしろ! 糞デブ!」
「良いでしょ、蛭魔!」
「なまえちゃん、来てくれてたんだね…」
「もちろんだよ」

 長い足で蹴りを決めながら蛭魔が騒ぐ。はっとした栗田くんが手を離して涙を拭った。ようやっと落ち着いた栗田くんとまともに会話する。去年何度か会ったけど、二年になってからは初めてだ。後ろで一年生と思しき部員たちが遠巻きに私たちを見ていた。すぐに栗田くんが振り向いて私を紹介してくれる。

「みんな、なまえちゃんだよ。僕たちと同じ中学の同級生! ずっと僕たちのこと応援してくれてたんだ!」

 私はひやひやしながら紹介を受ける。蛭魔との関係につっこまれることが一番困る。なんて答えたら良いか分からないからだ。こんにちは、と言ってみれば、みんなが口々に挨拶を返してくれる。気まずい。私も、たぶん、みんなも。どうしようと思っていたら蛭魔が助け舟を出してくれた。

「オラ、もう良いだろ、なまえは先帰ってろ。お前らは片づけしてミーティングだ!」

 みんなよっぽど蛭魔がこわいのか、威勢の良い返事が飛んで私から意識がそらされる。私はといえば、蛭魔にタオルを返しそびれてしまって、まあ良いかと敷いていたタオルハンカチとともに鞄にぎゅうぎゅうに詰め込む。小さく、蛭魔、と声をかけてみれば振り向いてくれたから、手を振って背を向けた。
               *
「入部説明会?」
「おー、月曜の放課後な」
「すごかったもんねえ、今日の試合!」

 興奮冷めやらないままなのは私だけ、といった調子で私は万歳をする。蛭魔はそれを見て笑うだけ。試合のあと、スーパーに寄って夕飯の食材を買ったのだけれど今日は奮発してステーキだ。もちろん蛭魔に貰っている生活費からでている。奮発もなにもない。

「ムサシには会えなかったけど…栗田くんは元気そうで安心した」
「たりめーだろ。心配することじゃねえ」
「…うん」

 ランニングバックが増えて、レシーバーが増えて、デビルバッツはどんどん進化していく。当たり前だけど、あの日夢見た三人だけのものじゃなくなっていく。私はそれを、遠くで眺めていることしかできない。昔みたいに一緒になって、喜んで、悲しんで、そんなことはもうできない。それが、すごく寂しい。

「なーに、浮かねえ顔してんだ」
「…私も、同じ高校行きたかったなって」
「…仕方ねえだろ」
「…うん、仕方ないね」
「…」
「頑張ってね! 蛭魔! いつでも、ずっと応援してるよ」
「当たり前だ。なまえは俺らのファン一号だからな。クリスマスボウルに連れてってやるよ」
「…ありがと。楽しみにしてる」

 そのとき、蛭魔はグラウンドにいて、私は観客席にいる。会場が広くなるにつれて、私たちの距離は離れていく。あの子はずっと近くにいられるのに。私たちの、距離みたいだね、蛭魔。
 明日は休みだけど、部活はある。蛭魔はその前に走り込みもある。夕飯が終わったら、洗い物をして、お風呂に入って、勉強をしていたらあっという間に時間は過ぎていく。頑張らなきゃ。せめて大学は蛭魔と一緒が良い。そう思っていたけど、そのとき私たちはどんな関係になっているのか不安だった。私たちはたぶん、ただのセフレ。仲が良くて、半同棲状態で、それでも、恋人ではない。もし、蛭魔に彼女ができちゃったら? いまのままではいられない。私は身をひかなくてはならない。私は彼女じゃないんだから。合鍵も返して、家にあるものを持って帰って、もう泊まりにも遊びにもこない。一定の距離を保つ。そんな関係になって、同じ大学で過ごせるのだろうか? ぜったいに、辛い。そう考えては、最京一本に絞ることには勇気がでなかった。

「なまえ」
「…ん?」
「ここ間違えてっぞ」

 綺麗な指先が、ずうっと解いていた数式の真ん中らへんを指さす。どおりで、なかなか綺麗に解けないわけだ。ふむ、と小さくため息をついて、消しゴムで間違えたところから下を消す。恋愛にも、家庭問題にも、こうやって簡単に解けるようになる公式があれば良いのに。そう思って、やめた。きっと私は、いつまで経っても蛭魔に好きとは言えないだろう。世の中は複雑怪奇だ。蛭魔が私をどう思っているかなんて、分かりっこないし、私は蛭魔に好きになってもらえるような人間じゃない。少し考えて、途中までは合っていたらしい数式も消した。

「もう終わりにする」
「身が入らねーならやめとけ」
「明日がんばろ」
「エライエライ」

 もう寝る、とローテーブルを片づける。残っていたぬるいミルクティーを飲み干し、キッチンに持っていこうとすると、蛭魔が無言でコーヒーカップを差し出す。一緒に洗えということだ。無言で受け取って洗い物をしていると、蛭魔も寝る支度をしていた。まだ二十二時すぎだ。

「もう寝るの?」
「なまえ、寝んだろ」
「…うん」

 マグカップとコーヒーカップを洗って、私も歯みがきをした。蛭魔は先にリビングを出てしまう。めずらしい。そう思いながらお手洗いを使って、寝室に行く。蛭魔はベッドに腰かけて何か本を読んでいた。

「…寝ないの?」
「そんなすぐ寝れっか」
「ひる、」

 なにも気にせずにベッドに向かっていたら、ぱたん、と本を閉じてベッドサイドにそれを放った蛭魔の、腕に捕まる。あ、と思う頃にはすべては遅すぎたけれど、別に良かった。興奮が冷めないのは、蛭魔も一緒だったらしい。

「…今日は、最高な一日だったね」
「…そーだな」

 めずらしく蛭魔が賛成して、私たちは黒いシーツの海に溺れていく。体重をかけられて、すっかり身動きが取れない。顔を傾けた蛭魔に口づけをされながら、ぐいとそれを押しつけられれば、今日一番嬉しかったのは蛭魔だろうなと思い出した。