日々はあっという間に流れていく。入部説明会や入部テストの話を聞けたのは夕飯を食べているときくらいで、あとはずっと、中間テストに向けて山盛りの課題に私は追われていた。つくづく、蛭魔の頭脳がうらめしい。部員がなんにんも増えたことを喜びつつ、学生の本分である勉強に精を出す毎日。今日も、放課後友だちの家で課題をやっつける勉強会だ。気を抜こうものなら特進クラスから落ちてしまう。まだ志望校を決めあぐねているけれど、いざとなればどこかしらの大学に推薦をもらえるくらいの成績に持っていきたいところではある。家庭のいざこざはもちろん、蛭魔にばかりかまけていられないのも事実だった。母は離婚後、つねづね、女ひとりでも自立できないとだめだと私に言い続けた。自分と同じ看護系を勧めるのもよく分かる。女手ひとつで子どもを育てることがいかに大変か、分からないわけではない。これといってなりたい職業もないし、母の背を追いかけることになるのもそうあり得ない話ではなかった。
 分からないところはお互いに聞きながら、もくもくと課題をこなしていく。秒針の音も聞こえないくらいに、集中していた。五月の下旬には中間テスト、六月の中旬には模試だ。

「はー、やっと数学の課題終わった!」
「待って、私あと一問」
「私あと二問…これ終わったら休憩しよ」
「ジュースのお代わり持ってくるから終わらせちゃって!」

 数学はどちらかといえば苦手だ。看護系を目指すなら数VCが要らないのは非常に助かる。最後の文章問題の謎を解き明かしながら、友だちの声を聞く。単位に気をつけ、代入を間違えず、丁寧に数字とアルファベットを解体していって、なんとかそれらしい答えが導かれて、一息ついた。

「私ほんと、数学とかだめ、意味が分からない」
「やるしかないっ! あと一問解くから待って!」

 隣に座っている友だちが、課題から目も上げずに元気に返してくれる。課題は数学だけでないので、まだまだある。いまやっつける必要があるのは、残り現代文と化学と生物だ。
 おまたせ〜、と家の住人である友だちがオレンジジュースをペットボトルで持ってきた。私たち三人は四大の看護学部を志望しているので、よく集まって勉強会を開いている。同じ目標に向かっている友だちがいるからこそ、毎日頑張らなきゃと思えるのだ。

「ありがとう!」
「まって〜、もう終わる、いま終わる、はい終わった!」
「お疲れ〜」

 グラスにジュースを注いでもらって、ひとくち飲む。時刻は十六時すぎ。十八時までに解散すれば、二十時すぎに帰ってくる蛭魔の夜ご飯にばっちり間に合う。

「なまえ、数学苦手とか言って、なんだかんだ小テストで良い点取ってるよね」
「ヒル魔に教えてもらってるんでしょ? やっぱり頭良いんだね」
「そう。教えてもらってなんとかついていってるよ…」

 泥門高校とそう遠くないところにある我が校でも勿論、蛭魔の悪魔ぶりは轟いていて、私が元同級生でいまでも仲が良いことは周知の事実だった。蛭魔が全国模試を受けることはほとんどないが、たまに受けたときには成績優秀者一桁の欄に名前があるからすごい。すごいなんて幼稚な言葉では言い表せないほどすごいのだ。

「特進維持しながら彼氏ともうまくやるって大変じゃない?」
「いや、蛭魔は彼氏じゃないし…」
「にしては仲良すぎな気もする」

 休憩ともなれば、こんな恋バナに発展してしまうのも仕方がない。女三人寄ればなんとやら、というやつだ。私は、蛭魔と体の関係があることを誰にも言っていなかったし、言うつもりも、匂わせるつもりもない。セフレだなんて、誰にも言えない。

「あの蛭魔が、女子はなまえとだけ仲良いってアヤシイよねー」
「そうそう。本当に付き合ってないの?」
「ないない。悪魔とか言われてるけど、ただのアメフトバカだよ」
「それはよく聞く」

 いまごろクシャミでもしていたら面白い。当の蛭魔は得意の脅迫手帳で東京タワーを貸切にし行った入部テストで部員が五人増えたと話していたし、昨日は東京大会の決勝をみんなで見に行ったらしい。今日からは部室の増築が始まると聞いた。大忙しだ。
 話をそらさなくてはならないかと思ったけれど、自然と残りの課題をやっつけるほうに話は流れ、私は唯一勉強しなくても高得点が取れる現代文の課題ノートを開いた。現代文は日本語ができれば難しいことはない。これは唯一、頭の良すぎる蛭魔と同じ意見だ。
               *
 放課後勉強会を毎日のように開催しながら、蛭魔の家に泊まったり、家に帰ったり、そんな日々を繰り返していたら五月も下旬、中間テストの時期だ。せめてもの息抜きにと、夕飯をつつきながら蛭魔と部活の話をする。アメフト部の部室増築の手伝いも終わりをむかえ、ついにロッカールームが完成したらしい。
 そんなに日が経っていたとは。日々の勉強でパンクしそうな頭とからだも、蛭魔に抱かれることが息抜きになっていることには違いなかった。蛭魔もどこにそんな体力を隠しているのか、泊まる日は毎晩のように求められる。さすがに生理のときはなにもなかったけど。ストレス解消にもなるし、肌の調子も良いし、なにより蛭魔をとても近くに感じられる貴重な時間だった。真剣な表情で、汗をにじませながら私を求める姿は少なからず優越感をもたらす。その目に映っているのが私かどうかは分からなかったけれど。けれど、こころが手に入らないのは織り込み済みだ。私のからだは蛭魔を知っている。蛭魔のからだも私をよく知っている。それだけで良いはずだった。

「六月五日の土曜に太陽と日本代表決定戦をやることになった」
「えっ、その日、模試に向けての講習会だ…」
「無理してくることねーよ。講習会のが大事だろ」
「でも、見たいよ。ライン増えたんでしょ? どこまで太陽に通用するかな」
「ビデオ見せてやるから」
「でも…」
「なまえはなまえの大事なもんを優先するべきだろ」
「うん…分かった。でも悲しい」
「試合はこれだけじゃねんだ。まだまだ見にくるチャンスはある。せっかく勉強頑張ってんだ、むだにすんなよ」
「ありがと…」

 箸を持った蛭魔が、真剣な表情で私を見る。その厳しさに私はもうなにも言えない。蛭魔も、私の家の事情を知っている。もちろん、詳しく話したわけでもないけれど、きっと聡明な蛭魔のことだから察しているんだろう。私のことを考えていてくれているなら、当然、太陽戦より模試の講習を優先するように言うとは思っていた。蛭魔は、そういうひとだ。分かっている。もう、何年もともだちをやってきているんだから。
 こうやって、距離は開いていく。知らない蛭魔が増えていく。けれど、勉強を捨てられないのも確かだった。蛭魔は蛭魔の道をゆく。私には私の道がある。どんなに好きでも傍にいたくても、蛭魔のために私の人生を捨てるわけにはいかない。お互いの道が少しでも近くにあることを祈ることしかできない。
 だから、こんな時間でも愛おしく大切なんだ。一緒に夕飯を食べているだけでも、蛭魔が私のからだを求めてくれるだけでも嬉しいんだ。少しでも近くに。少しでも。わずかでも。

「日本代表、なれると良いね」
「良いねじゃねーよ。なるんだよ」
「そうだった。ごめんごめん」
「分かりゃいい」
「日曜なら行ける! 席もう埋まってるのかな」
「なんとかしてやるよ」
「ありがと! ほんと楽しみ」

 デビルバッツがこんなにもいきいきしているだけで本当に嬉しい。蛭魔の悲願が叶う日もくるんじゃないかって、思えてくる。なにより、蛭魔が本当に本当に嬉しそうで、私も嬉しいよ。

「ゴチソーサマ」
「お粗末さま」

 蛭魔が席を立つ。私も立とうとして、私の分まで食器を持っていってくれるところが好き。蛭魔がそのまま洗い物を始めたから、私は洗濯機の残り時間を見つつお風呂にお湯をためる。こうやって、日々の営みを蛭魔と分かち合えるだけで、幸せだ。幸せなはずだった。いまだに、体の関係を持ったことが正解だったのか、間違いだったのか、分からない。でもたぶんだけど、間違いだったんだろうなとは、思う。
 本当にずっと一緒にいたいなら、やっぱりただの友だちであるべきだったんだ。友だちとしてならずっと傍にいられたはずだ。彼女ができたって、結婚したって。でも、セフレじゃそうはいかない。いつか必ず終わりがくる。蛭魔に彼女ができたとき、終わらせなければならない関係だ。そのあと、私はどんな顔をして蛭魔の傍にいるつもりだったんだろう。醜い嫉妬がもたらした、浅慮な行動がすべてを変えてしまった。
 洗濯機が、ピーピー鳴る。洗濯機の角を握りしめていた私は、ハッとして中のものを乾燥機に移す。そうこうしていたら、浴室から大きな水音が聞こえる。お湯が浴槽からあふれている。慌てて、蛇口を閉めにいく。

「なまえ?」
「ごめん、ぼーっとしてた」
「根詰めすぎじゃねえか? 大丈夫かよ」
「うん、大丈夫。ごめん」

 洗い物を終えた蛭魔が覗きにきて私は慌てる。優しい声にわけが分からなくなっていく。考えることが多すぎる。とにかく、悩みがありすぎる。考えたって解決しない。何事も行動に移さなければ、なあんにも変わらないのだ。でも、ずるずる過ごしてしまう。蛭魔の優しさにただ甘えて。

「一緒に入るか?」
「え?」
「フロ」
「は、はいらないよ!」
「冗談だ、ばーか」

 蛭魔はそう言って私に背を向ける。ひらひら手を振りながら。私はその背に未練たらしい視線を送っていたけれど、必死の思いでそれをはがしてユーティリティースペースの扉を引く。今日もきっと蛭魔に抱かれる。どうしようもないおもいを抱えながら。それでも、甘美な時間に抗えずに。
 もっとたくさん、蛭魔を刻んで。永遠に忘れられないほど強く、深く。どこまでも。どこまでも、私を突き落として。