誰が悪いってわけじゃない。強いて言うなら、悪いのは私だ。怖くてその目を見ることができなくなったのはいつからだろう。
 姉崎さんがマネージャーになってからも、蛭魔は相変わらずやることが多かった。練習試合のセッティング、選手登録、部費の管理や、備品の管理。腐れ縁の私は一年の時から名ばかりのマネージャーだったけど、正直大したことはしてなかった。蛭魔に言われた通り、スコアをつけたり、記録をとったり、ドリンクを用意したり、洗濯をしたり、準備や片づけの支度をしたり。そんな、簡単な雑用ばかりで、あとのことは蛭魔がやるものだと思って、それだけだった。けして、応援する気持ちがないわけじゃない。でもいまとなっては、どうしてもっと頑張らなかったのかなあとは、思う。
 対戦相手のビデオを見ながら、なにか一生懸命、ノートにメモを書いたり図を描いたりしている姉崎さんと、カゴに山盛りの洗濯物を干しにいく私。これだって立派な仕事だ。私がやらなければ、忙しい姉崎さんがやることになってしまう。洗濯物を干し終わったらドリンクを作って、走り込みから帰ってくるみんなに渡す。いつも自転車で先頭を走っている姉崎さんだけど今日はデータ分析が優先らしい。
 みんなが帰ってくる前にと急いで洗濯物を干す。洗濯機が回っている間にボトルに粉末を入れておいたから、あとは水を注いで溶かすだけだ。すぐ終わるはず。
 蛭魔に、姉崎さんと比べられているのはなんとなく察していた。だって、目つきが違ったから。部員がふたりだけの頃とは違うよ、そんなのは言い訳にしかならない気がして、その目から避けるように黙ることしかできなかったけれど。
 洗濯物を急いで干して、冷えた手のままボトルに水を入れては振って粉を溶かす。みんなが帰ってくる前に。

「戻りましたー」

 セナくんやモン太くんの声が聞こえる。出来上がったドリンクを並べていた私は、慌てて声のほうに走っていく。

「おかえりなさい、お疲れさま」

 大急ぎで額に滲んだ汗を手の甲で拭って、ドリンクをみんなに渡していく。良かった、間に合った。そう思いながら渡したドリンクを無言で受け取った蛭魔は私に目もくれずに部室に入っていく。姉崎さんに任せたデータ分析の進捗が気になるのだろう。昔はこんなんじゃなかったのになあ。もっと軽口を言い合って、ふざけあって、じゃれあって、仲良しだったのに。
 汗を拭いて、ジャージから防具もつけてユニフォームに着替えれば、ポジション練習だ。ドリンクの片づけもそこそこに、ノートを取ってきてそれぞれの練習内容を書き留める。ぼーっとはしていられない。回数や距離なんかをひたすら記録していたら、後ろから声がかけられた。

「みょうじさん、代わるよ。疲れたでしょ、ちょっと休んできて」
「姉崎さん、」
「ボトルは洗ってきたから、タオルだけ用意しておいてくれる?」
「え、あ、うん…ありがとう」

 ノートとペンを渡して、ちらと蛭魔を見た。その横顔は、私なんかもう見てはいない。
 部室に戻れば、カウンターに数冊のノートが積んである。興味本位で中を見てみたけど、なんのことかさっぱり分からない横文字が並んでいるだけだ。ため息を飲み込むこともせず、ノートを戻した。姉崎さんが、蛭魔のやることを分担する、蛭魔の負担が軽くなる。だから、良いことなのだ。雑用だって誰かがやらねばならないことなんだから。そう、思って、それだけを思って、頑張って、いた。
 休む前に人数分のタオルを用意して、ミルクティーを作った。みんな、コーヒーやカフェオレを飲むから紅茶を飲むのは私だけだ。窓から、練習しているみんなを見る。遠くなっちゃったな。そう思うと、涙が出そうだった。蛭魔と、どんな話をしていたっけ。どんなふうに笑い合っていたっけ。ぜんぶ、遠い昔のようで何も思い出せない。思い出せなかった。
 二時間くらいポジション練習をしたら、今度は体幹と下半身を鍛えるメニューが待っている。飲み終わったカップを洗って、タオルをベンチまで持って行く。ずっと、蛭魔を目で追っていた。でも見ているばかりではない。もう一度ドリンクを作ってベンチに用意しておき、そこからはトレーニングルームで鍛えたり、ラダーを使ったりするみんなの準備だ。
 せかせか準備や片づけを先回りして、日誌をつける。その間にも、みんなは疲れた顔で帰っていく。残っているのは、姉崎さんと蛭魔と私だ。

「じゃあ、ヒル魔くん、私もう帰るから、みょうじさんのことお願いね」
「言われなくてもわーってるよ。さっさと帰れ」
「はいはい。お疲れさま」
「お疲れ」
「お疲れさま! 姉崎さん、また明日」
「また明日」

 姉崎さんが帰ってしまったら本当にふたりきりだ。意味もなく緊張してしまう。昔はこんなことなかったのにな。いまはもう、なにを話したら良いのかすら分からない。形だけの日誌を書きながら、顔も上げずに蛭魔に声をかける。

「蛭魔、待ってなくて良いよ。先帰ってて」
「…待ってねーよ。俺だってやることがあんだよ」
「…そっか」
「もう暗いんだから、早く終わらせろ」

 そんなもんテキトーで良いんだよ、と蛭魔がノーパソの画面に目を向けながら言う。そうだ。練習の記録なんかは別で細かくつけている。あくまでこれは提出用だ。蛭魔はなんだかんだ、毎日私を家まで送ってくれる。そういうのが、そういうのなんだ。優しくしないでよ。女の子扱いしないでよ。もう私の役立たずさに気づいてしまったんでしょう。それがこわくてこわくて、でももう避けられなくて、隠すこともできなくて、私はただただ萎縮していく。

「終わった。帰る」
「送ってく」
「だから、大丈夫だって」
「大丈夫じゃなかったろ」
「…分かった」

 これを言ったら私は黙るしかないのを、蛭魔は知っている。私たちは小学校から同じだった。話すようになったのは中学生のときからだ。学校からの帰り道、私が見知らぬ男に腕を掴まれて引きずられているのを、たまたま蛭魔が見つけて、たまたま助けてくれたときから。蛭魔は、また私が攫われるんじゃないかって思っているのだ。そして、助けてもらった手前、私も大丈夫だと強く出られない。
 真っ暗な帰り道。蛭魔はいつも車道側を歩いてくれる。蛭魔も私も、家が近いから徒歩通だ。なにを話して良いか分からなくて、俯いてつま先ばかりを見る。蛭魔が、歩く速さを合わせてくれているのだって、知っている。だからこそ、失望させるのが、こわかった。こんなもんか、と思われるのがおそろしかった。

「なまえ」
「…なあに」
「…部活しんどくねえか」
「大丈夫だよ」
「…ならいーけどよ」
「むしろ、なんていうか、全然役に立てなくて申し訳ないっていうか」
「誰もそんなこと思ってねーよ」
「…私、雑用しかできないからさ、なんか…ごめんね」
「…」
「一年のときにもっと色々、蛭魔から教わっておけば良かったね」
「なまえ」
「…なあに」
「誰かがやらないといけないことなのは、俺がやってることも、糞マネがやってることも、なまえがやってることも変わらねーよ」
「…うん」

 蛭魔が前だけ向いて力強く言い切る。私の苦悩なんてお見通しのようだ。というか、そうなんだろうな。勝手に比べて、勝手に自信をなくしてた私のケアまでさせてしまって、ごめんね。そんな思いで横顔を見ていたら、目が合った。本当に、蛭魔はすごいよ。

「なまえは、」
「うん?」
「俺の傍にいるだけで良いんだよ。あとは二の次だ」
「…うん」

 なんて顔をして良いか分からず、はにかんでしまった。くしゃりと蛭魔の大きな、大事な手が、私の髪を巻き込みながら、頭を撫でる。蛭魔はなんでもお見通しだね。ずるいよ。でも、私も頑張るから。全部全部終わったら、好きって言ってね。手を繋いでこの道を歩こうね。