機嫌が悪い。俺じゃなくてなまえが。持ち込んだ宿題を黙々とこなす横顔を黙って見ているだけ。いま書いている式の代入が間違ってるのを、言って良いものか悪いものか。
そもそも家に来たときから機嫌が良くなかった。雲水に土産を渡すときはしっかり笑顔だったのが腹立たしい。なまえが持ってきたジュースとドーナツは、雲水が分けて寄越したもののテーブルの上で持て余し気味のまま。
「なまえ」
「……」
「これ、ちげーだろ。こっち」
指先で指摘してやってもなまえは黙ってそこを確認して、消しゴムに手を伸ばすだけ。俺なんかしたか?そう聞けばいい。それだけのことなんだが。
なまえをこれ以上苛々させないために、不用意な発言は控えたい。なまえが苛々する理由。俺がこんなことを考えるだなんて、いつ槍が降ってきてもおかしくない。機嫌は取るより取られる方だった。
「あ」
「なに間抜けな声出してんの」
今日初めてまともに喋ったなまえを見つめた。なまえの機嫌を損ねた理由。
「思い出したって顔してる」
「…いたなら声かけろよ」
「楽しそうにおしゃべりしてたから邪魔かと思って」
昨日、引っ掛けたことのある女が話しかけてきて、少し話していたのを見ていたのだろう。ちょうどなまえがバイトを上がるくらいの時刻だった。
長い黒髪を緩く巻いて、化粧はわりと薄い。シンプルな服装を好むその女はなんとなくなまえと雰囲気が似ていた。未練がましくもないし、だからこそついつい話に付き合ってしまったのもある。
「やましいことなんざしてねえよ」
「ふーん」
「信じてねえだろ」
「べっつにい」
下心がなかったのは確かで、話していたのも、ちゃんと彼女できたんだって?という内容だった。なまえは少しだけジュースに口をつけて、またシャーペンを握る。
「機嫌直せって」
「悪くないし」
「悪ぃだろうが、どーみても」
売り言葉に買い言葉。機嫌を損ねないようにと考えていたのもどこへやら、ついつい語気が強くなってくる。一言多かったか、と思った瞬間になまえが教科書に手をやった。
「…あっぶねえな」
「思ってもいないくせに!」
開いたままの教科書が顔めがけてすっ飛んできたけれど難なく掴んだ。のらりくらりとしていたなまえの声に、少し怒気が混じっている。
ノートを閉じて、シャーペンをペンケースに戻し鞄を引き寄せたなまえの腕を掴んだ。
「はーなーしーてー」
「誰が離すか、コラ」
ぶんぶん振ってくる腕をしっかり掴んで、睨んでくる目に応える。
「話を聞け! 確かに昔何回かヤったが、アレとは話してただけだっつうの」
「…やったんじゃん」
「昔の話だって言ったの聞こえてねえのか」
「なんか…すごいやだ」
腰を上げて反抗していた体から一気に力が抜けて、ぺたんと座り込む。
「…せめて派手な金髪だけにしてよ」
「…昔の話だろ」
「…似てたよね、雰囲気」
「いまは、なまえだけだろ」
腕を離して、力なく俯いた頭を撫でたくなったから、撫でた。黙ってされていたなまえは、思い出したように頭を振りこの手を払う。
「どーだか」
ちょっと目が赤くて、心が痛む。そんな風に思うのも、なまえだからだというのに。
苛々する。自分に。悔しいかな、多分こういうのを骨抜きというのだ。
「なまえ」
肩を掴んで上体を引き寄せた。仄かに染み出てくる匂いも、肩の丸みも擽る髪も心地よくてしっくりくるのに。
「俺はなまえが好きだし、なまえは俺が好きだろ」
「…すごい自信」
「うっせ。…それで良いだろうが」
「…まあ、うん、良いかなあ」
ちらっと見かけたけど綺麗な彼女じゃん、と昨日アレが言った。ついでに、もう一筋になりなよとも。言われなくても一筋だボケと返したけれど。つまりはこれを一目惚れというのだろう。
俺とあろうものが。