未完
幼馴染みだった。私が覚えている最初の記憶に、もう妖ちゃんはいた。私たちはもう誰よりも近くにいた。ずっとずっと。だから、ただの幼馴染みでなくなることも、自然なことだったと思う。彼が心を許す唯一が私であり、私が心を許す唯一が彼だった。ずっと一緒にいた。ずっと一緒にいる。そしてこれからも。そう思っていた。少なくとも、私は。
同じ高校に行きたいと言い張った私に、明らかに嫌悪を示したときも、私は私の将来のために最善の選択をすべきだと懇々と諭され、私は結局評判の良い進学校へ進んだ。妖ちゃんは、いままでと変わることなく接してくれたし、私は彼の彼女というポジションに安心して就いていた。
それが。
二年になって、アメフト部にいろいろな変化が起きて、私の安寧はぐらつき始めた。叶わないほどの美人がマネージャーとして彼の近くに陣取り、臆すこともなく関わりが深くなっていく。彼に会いに高校まで行ったときに、まったく見ず知らずの生徒に上から下までを嫌な目で見られ、その彼女と比べられたこともある。
彼はそれを知っているのだろうか。知っているだろうな。知らないことなんてないんだから。
嫌になる。自分にも、彼女と仲良くする妖ちゃんにも、彼女にも。
減っていく、メールの履歴。着信履歴はどんどん遠くなり、夏休みも会えず、知らない彼が増えていく。一緒に歩いていたはずなのに、気づいたら背中しか見えない。
もう、離してあげるべきなのかな。
そう、おもった。悲しみに暮れて。
ちょっと会いたいんだけど、いつなら都合つく?
そう送った。
返事がいつになるかすら分からないから、携帯電話は放置して宿題を始める。
暫くすると携帯電話が震えて、私は躊躇いつつ画面を見る。メールは、彼からだった。
いつでも
それだけで、じゃあ明日の学校帰りに寄るねと送った。返事は、多分ない。
言ってしまった。
これで、本当に最後だ。
「どーした」
「ちょっと、話があって、ごめん、いま大丈夫? 後の方がいい?」
「いや、いまでいい」
「うん、あのね」
貰ったピアスとか、髪留めとか、アクセサリーとか、ストラップとか、返さなきゃダメかなと思って一応持ってきた。
できれば、返したく、ないけれど。
「あのね」
あんなに何度も何度も繰り返したのに、本人が目の前にいると、これだ。
「もっと、早く、こうすれば良かったんだけど、ごめんね、私のわがままで」
チョコが入っていた小さい紙袋を後ろ手に持って、私はその目が見れないまま。
「ごめんね、これ、返した方がいいかな、」
その胸に押し付ける。
ユニの赤色は、私の手を消してしまいそうなくらい、強い。
「…お前にやったもんだ」
「…じゃあ、思い出に貰っとく」
中を覗くと、幸せな頃を思い出す。
愛されていた頃を思い出す。
「ごめんね、ごめんなさい、いままでありがとう、すきだよ、さよなら」
最後まで目が見れなかった。
言いたいことは全部言って、吐き出したさよならは、それでも未練がましいものだったけど、私は踵を返した。
涙が出てきたから、早歩きで彼の傍を後にする。角を曲がって、暫く歩いて、ひとけのない道で、しゃがんで泣いた。
別れたくなかった。まだ好きだった。愛されたかった。
でももう、愛されていないから。
泣いて泣いて、頭が痛い中立ち上がって、とりあえず水分を拭いて、化粧の崩れていそうなところを指で押さえて、歩き出す。
もっと早くこうするべきだった。
もっと早く手離してあげるべきだった。
ごめんね。
考えたら涙が出るから、やめた。
好きだけど、それと同じくらい苦しかった。どちらかだけを手放すなんてことはできなくて、好きを取るなら苦しくて、苦しいを捨てれば好きも捨てることになる。
でも、片方の好きが冷めてしまえば、この関係は続かなくなるのだ。立ちいかなくなるのだ。
痛感した。
ずっと持ってた、紙袋と、それに入れてきたプレゼントたち。
捨ててしまおうかと思って、躊躇って、でも捨てなくちゃいけない気がして、誰もいないことを確認して橋の上から川に向かって捨てた。
キラキラ光りながら落ちていくそれらを見たら、また泣けて、私は桟に手をかけて泣いた。
泣きながら歩いて歩いて、コンビニのゴミ箱に紙袋を捨てた。
これで良かったんだ。
あんなものを持っていたら、嫌でも忘れられない。手放したのは私だ。
きっと、私のために選んでくれたんだ。でも、あの頃の気持ちはもういなくなっちゃったんだ。
身を切られる痛みで、泣きながら帰宅した私は即座に洗面台の前に立つ。
ひどい顔で、ようやっと笑えた。
髪、切ろうかな、と思った。
ずっと伸ばしていた長い髪を、少しだけ切った。
例の彼女がチラついて中途半端になってしまったけれど、胸にかかるくらいの長さも女の子らしくて可愛く見えた。
思い切ったね、と言われて、少し大人びた自分に微笑む。
大事にしていた、長い髪を切り落としても、心の底から本当に、悪くないなって思えた。
「えっ、ちょっとなまえ! どーしたの!?」
「うん、ちょっと、」
学校に行けば、友達に会うたびに驚かれて、似合うと言われてまた笑った。髪を洗うのも、乾かすのも楽で、鏡に映る自分が新鮮だった。失恋した、とは、まだ言えなかったけど。
「ねー、なまえ、アレ…」
一日を終えて、友達と寄り道をして帰宅しようと靴を履き替えたところだった。
生徒たちが騒めく原因を、首を伸ばして見ようとした友達が、まだ奥にいる私に声をかける。
指差した先を、見れば。
「妖ちゃ、いや、ええと、蛭魔?」
「は? 何その呼び方」
「いや、なんて言うか、別れた、みたいな」
大げさに驚く友達は、それで髪切ったの?と今度は私を指差す。
そーだよ、と気にしてない風に告げるも、何だか気まずいしいたたまれないし、困った。
この時間は部活じゃないのか。なぜ、うちの高校の生徒用玄関に彼がいるのか。
「…どーすんのよ、アレ」
「…でももう私彼女じゃないし…別に私待ちじゃなくない」
「アンタ以外に用がある奴なんているの? ウチに」
「…分かんないけど」
玄関の分厚いガラス越しに観察していても埒があかないということで、帰ることにした。
門に寄りかかる彼を、見ないようにやり過ごす。
つもりだった。
「なまえ」
「ひっ…」
思わず出た声に、隣を歩いていた友達が吹き出す。
やっぱアンタじゃん、と肘が私を突いた。
もう別れたんだし、無視しようと決め込むも、制服のままの彼が私の腕を掴んだからそうは行かなかった。
「おい」
「はっ、はい」
「なまえ、借りるぞ」
「どっ、ドウゾドウゾ」
腕を引っ張られながら私は歩道に連れ出され、振り向いた先の友達は、ファイト、と言わんばかりに顔の横で手のひらを握り締めて見せた。さっさとタクシーを捕まえた彼は、泥門高校、とだけ告げてだんまりを決め込む。逃げ切れなかった私は、隣に小さくなって座るだけ。
髪、切ったの、気づいたかな、とぼんやり考えた。何しに来たんだろう。顔が見れない。沈黙が痛い。
膝に置いたスクバの上に、腕を突っ張って握り拳を並べた。そのときに、手首に付けているブレスレットに気づいた。捨て損ねた。というか、忘れてた。これも、彼に貰ったものだ。お風呂以外はずっと付けっぱなしだったから気づかなかった。というか、付けるのも外すのも、生活の一部で、体の一部になっているようで、すっかり忘れていた。
ゴールドの華奢なチェーンと、淡いピンクの小さな花の飾り。
指先でそれをいじっていたら、目的地に着いてしまい、引きずられるように降りた。
彼は躊躇いもなく校内に入り、視線を寄越すものを睨んで威圧しながら部室に向かっている。
たった数日行かなかっただけなのに、なんだかとても懐かしい。
グラウンドで練習をするアメフト部の部員を見つけて、眺めた。
「なまえ」
不意に声をかけられて、私はうっかり彼を見てしまった。
感情の読めない目が私を捉えていて、私はどうして良いか分からなくなる。
幾分か逡巡したらしい彼は、また口を開く。
「髪、似合うな」
何と返して良いか分からずに、うん、とだけ言う。
部室には誰もいなくて、中に入ってようやく解放された私は、奥に入っていく彼を見ながら立ち尽くしていた。気づいた彼は振り向いて、顎で椅子を指す。怖くて怖くてドキドキしながら、その通りに椅子に腰掛けた。
「言いたいことは?」
よく分からなくて、ないよ、と答えた。
ため息が聞こえる。
「他に好きな奴ができた訳じゃなさそーだな」
「…できてないよ」
「別れたい理由を聞いてねえ」
別れ、たい。
もう別れたよ、と心の中で呟く。口には出せなかった。
「なまえ」
黙る私に、焦れたようにイラつくように、声がかかる。
「他、に、好きな人ができたのは、そっちじゃないの…?」
「ハァ?」
彼は長い足で机を蹴る。ガツン、と大きな音がして、肩が震えた。いねえよそんなモン、と彼が吐き捨てる。
顔を上げて目を見てみたけど、いつも通りでよく分からなかった。
「だって…連絡減ったし…夏休みもほっとかれたし…マネージャーと仲良さそうだし」
苦しい気持ちを思い出してしまって、何だか腹が立ちそっぽを向いた。
そーだ。私は苦しくて、悲しくて、辛くて、仕方がなかったんだ。
「だからってなまえを嫌いになったとか言ったか?」
「好きだとも言われてないよ」
あんまり会ってなかったし、と付け足す。
恋人らしい時間を過ごしたのは、いつが最後だったっけ。
思い出せない。
顔を見れなくて、ずっと窓の外ばかり眺める。赤いユニフォームが、小さいけれど動いていた。
「俺はいまでもなまえが好きだ」
聞きたかった言葉が、欲しかった言葉が、呆気なく手に入って、私は少し惚けた。
向こうの景色を眺めながら、言葉の意味を噛み砕く。
ゆっくり、ゆっくり顔を彼に向けたら、腕を組んで眉間に皺を寄せた彼と目が合った。
「そっか」
それしか言えなくて、私はまた俯いた。
何て、何て言えば、私の苦しさが伝わるのだろう。
うまく言葉にできないこの靄を、どう示せば良いのか、分からない。
私はどうして苦しかったのだろう。
私は何に苦しめられていたんだろう?
この時間は、どうやって終わらせられるのだろう。
「俺は承諾してねーぞ」
首を横に振る。
できる抵抗は、これしか思いつかなかった。
段々、段々、重くなっていく胸の靄を、捨てたくてたまらないのに。
「もうくるしい」
言って、息を吸う。
どうしてうまく呼吸ができないんだろうと思ったら、泣いていた。
惨めだ。
泣き顔なんて、いつもよりさらに不細工だ。
「なにが」
鞄の上に置いていた手が、握られる。
振り払うこともできなくて、そのまま泣いた。
分からない。分からないよ。
「なまえ」
「なまえ」
「もう好きじゃないくせに」
喉を駆け上がる何かに耐えて、一息で喋る。
大きく息を吐き出したら、靄も少し軽くなった。
「好きだったら、連絡くらいするでしょ。放っておいたりしないでしょ。私がいるのに、他の女の子と仲良くしたりしないでしょ」
うそつき、と詰る。
言ってしまった後悔より、つかえが取れた心が、とても軽く感じられた。
はあ、と息を吐いて、自由な方の手で頬を拭った。
見られたくなかったけど、もう十分醜さを晒したからと顔を上げた。
四白眼がまっすぐ私を見ていた。
「…嘘、ではねえ、が、その通りだな」
真剣な顔のまま、彼が目を伏せる。
こんなこと言って、銃殺されないのは私くらいかな、と思って、笑えた。
私はまだ自分を、彼の特別枠に組み込んでいるらしい。
「それでも、なまえが好きだ」
「…もう、捨てちゃったよ。…この前の、ピアスとか、いろいろ」
「また買ってやる」
即答されて、答えに窮する。
どうしたら、良いんだろう。
彼と、どうしたら良いんだろう。
「世界で一番幸せにする」
「頼むから、俺だけのなまえでいてくれ」
「なまえ」
「好きなんだ。ここにいてくれ、頼むから」