凛はなんだかんだ言って私のことを大好きなんだと思っていた。いや、自惚れていた。
昼休み、普通は入れない屋上の日陰でふたりで昼食を摂ってのんびりしていたときに、すっかり思い上がっていた私はいつものように彼に苦言を呈していた。いつものように。
「えー、ていうか凛、マネちゃん近すぎない?」
「…ぬーがよ。別に、そんなことねーらん」
「だって…マネちゃん、目がハートだよ」
「…気のせいだろ」
「クラスの女子もさー、凛に彼女いるの知ってるのに、すーぐきゃあきゃあ言うし…」
「…なまえ」
「なあに?」
「…やー、そんなんばっかさあ」
「え…」
「わん、部活忙しくなるし、ちょっと距離置こうや」
呆れたような冷たい目が怖くて、私は黙って頷くことしかできなかった。凛はそれを見届けてから何も言わずにドアを開けて屋上を出た。
派手な音を聴きながら、私はいま起きたことが理解できなくて座ったままでいた。いつまでそうしてたのか、遠くで予鈴が鳴る。私は一体何をしてしまったのか。いつも聞き流しているふうで、言っても言っても全然変わらなくて、だからしつこく言った自覚があった。凛は、私のことが大好きで、こんな小言くらいで嫌いになんかならないと勝手に思っていた。私、嫌われたんだ。距離を置くってどういうことかよく分からないけど、私の胸はひどく重くてうまく息ができない。
…
「なまえー、生きてるさあ?」
「…生きてるよー」
あれから数日で、私たちの間に何かあったことが校内に知れ渡った。昼休みも別行動、部活も見に行かなくなった私を好奇の目で見る女子たちや、ここぞとばかりに彼に群がるようになった女子たち。唯一の救いは、別れたか聞かれた彼が、それを否定したらしいことだ。いま部活で大事な時期だから、とはっきり言っていたと友人が教えてくれた。確かに、昼休みも部員で昼食を摂り、そのままミーティングや放課後の準備をしていたりと忙しそうだった。私はまだ彼女という立場を失ってはいないようだったけど、凛と時間を過ごす権利は一切失っていたし、連絡も取っていなかった。彼からも何も来ないし、私も怖くて何も送れない。おはようも、バイバイも、言わない生活を続けて早二週間ほど。さすがにファンの女子たちも、私に遠慮することがなくなって堂々と近距離で話をしたり、差し入れをしたりしている。
同じクラスでなくて本当に良かった。友人たち以外には冷笑され居心地が悪いけれど、それでもなんとか気にしていないふりをし続けている。
「なまえー」
昼休みも終わりに近づき、私をひとりにしないでくれている友人たちと話しながら次の授業の用意をしていたら、廊下側の席の男子が私の名前を呼んだ。あまり話したこともないのにと思いながら顔を向ければ、廊下にいた甲斐くんと目が合った。私を呼んだ男子がゆるく握った手の親指を後ろに傾ける。心当たりもないのに、なぜか甲斐くんが私を呼んでいるらしい。不安だったけど、友人の大丈夫?に大丈夫と返して席を立った。
「…あー、ちょっと…」
「うん…」
ふたりきりになどなったことがないのはお互い様で、甲斐くんも気まずげに目配せをした。場所を変えようということらしくて、踵を返した彼についていく。
普通は屋上へ入れないので、屋上に向かう廊下や階段はだんだんと閑散としてくる。屋上へのドアが見える階段の手すりに甲斐くんは背中を預けて立ち止まった。私も、壁に背をつけて甲斐くんの言葉を待つ。
「…凛とぬーがあったば?」
「…んー」
「永四郎がでーじわじわじしてるさあ。凛のやつ、ポカばっかりやし」
「…ふうん」
「で、早く仲直りしろって言いにきた」
「…うーん、それは凛に言ったほうが良いと思う」
「…しんけん?」
「うん…距離置くって言ったの凛だから…」
「…ぬーがよ」
恐る恐るといった様子で話しだした彼を見るに、部活動に身が入らない凛にとうとう木手くんの堪忍袋の緒が切れたようだ。そして甲斐くんが使いっ走りをさせられているのだろう。何せ私は、木手くんと面識がない。真実を知った甲斐くんは、ため息をつきつつ帽子をかぶり直した。全然目が合わない甲斐くんから、視線をそらす。
「…凛のこと、嫌いになったば?」
「…んー、凛、が、私を嫌いになったんだと思う」
息が詰まりそうな空気に耐えられなくて、笑いながら自分にとどめを刺した。そうしたら思ったよりも胸が苦しくて、言葉尻が震える。急いで下唇を噛んでみたけど、涙はついに溢れてしまう。甲斐くんが頭をそらせて、黙ったまま焦ったような表情を見せたから俯いた。壁に背中をつけたまま、ずりずりしゃがみ込む。
「ごめん、先戻ってて」
「いや、そういうわけにも、」
あたふたしたように話す甲斐くんの手が、肩にそっと触れた。それから、背中をぽんぽんと優しく叩く。私はひたすら声を押し殺して、とめどなく生産される涙を頬に伝わせていた。凛が私を嫌いになった。その事実を言葉にしただけでこんなに苦しいなんて。あんなこと言わなきゃ良かった。嫌われるくらいなら、嫉妬なんて見せなきゃ良かった。いつも私に優しい凛に、甘えてたんだ。後悔してもどうしようもないことも分かっていて、でも二週間前からずっと待っていたように、涙が次から次へと落ちていく。
先に戻っていて、と言ったのに、甲斐くんは背中をぽんぽんしたり、さすさすしたりを繰り返している。その手の速さに、困っているのがよく分かって、でもいまの私は一言も話せそうになくてどうしようもなかった。
予鈴が鳴る。大きく鼻を啜って、ほんとに、戻ってて、と顔を上げながら言った。思ったより近くにいた甲斐くんとばっちり目が合う。眉尻を下げて、どこから見ても困っている甲斐くんに、もう一度、戻ってて、と言おうと口を開けたとき、遠くで足音がした。先生だったらどうしよう、そう思った私と、下に続く階段に目をやった甲斐くん。息をひそめた静かな空間に、大きくなる足音。折れ曲った階段を上ってきたのは、長い金髪で。
「…ぬーしてるば」
「いや、えっと…」
「…なまえに近づくなって言ったの、忘れたあんに?」
「覚えてるやし! でも…」
「裕次郎」
「…あい」
「戻ってろ」
「…おー」
甲斐くんが、最後に背中をぽんぽんと叩く。たぶん、励ましのつもりなんだと思うも、凛とふたりきりにして欲しくなくて立ち上がる甲斐くんを見上げた。小さな小さな声で、わっさん、と呟いた甲斐くんは不機嫌さを隠しもしない凛の隣をぱたぱたとすり抜けていく。
沈黙が痛くて、黙ったまま手の甲でびしょ濡れの頬を拭った。
「…なまえ」
「…うん」
「ぬーんち、泣いてるやし」
「…別に」
「…裕次郎と、ぬーば話してた?」
「…甲斐くんに、聞いて」
「なまえ」
苛立ちを堪えているような平坦な口調が、急に怒鳴るようにして私の名前を呼ぶ。その声の大きさに肩を震わせたら、凛が小さく舌打ちをした。
「…やーの気持ち、少しは分かったさあ」
それが、どうなるのか分からなくて目を伏せた。どうして凛がここにいるのかも分からない。凛は途中だった階段を上り切って、しゃがみ込む私の隣に座った。
「あー、やーも悪いと思うけどよ…わんも悪かった」
驚いて、隣に座る凛を見た。バツが悪そうに口をとがらせた彼と目が合う。
「…距離置くの、終わり」
「…別れるってこと?」
「はあ? ぬーんちそーなるば? 逆やし!」
「…仲直り?」
「そんなに別れてーのかよ…」
「…違う、けど」
もうだめだと思った、と呟いた声は、自分の声とは思えないほど悲壮で驚いた。凛は開いた口を一度閉じて、きゅ、と引き締める。それから視線をあさっての方向へ向けた。
「わんも…気をつけるさあ」
「…ううん、私…わがまま言うのやめる」
「別に、やめなくてもいーけどよ」
「やめる」
きっぱり言い切った私に、凛はもう何も言わなかった。本鈴が鳴る。動じない凛はサボる気らしい。
「で、裕次郎、ぬーやが」
「…木手くんが、わじわじ?してるから、早く仲直りしろって…」
「…永四郎か」
「…凛、あの」
「ん?」
「ごめん、なさい。許してくれて、ありがとう」
「…気にさんけー」
凛に、嫌われなくて良かった。そう思ったら、また泣けてきて、私は小さく鼻をすすった。
…
りーん!と明るい声。移動教室で友人と廊下を歩いていた私は、うっかり声のするほうを見てしまう。壁際の、自分の席に座っている凛と、その前の席に座った女子が親しげに何か話していた。凛は、愛想を振りまいているわけでもない。ただ女子はキラキラニコニコしながら会話を楽しんでいるようだった。胸が痛むけど、すぐに目をそらす。
また覗きに行くようになった部活、私を見つけると凛は一応少しだけ話をしに来てくれる。木手くんがそれを黙認しているのは、私たちが距離を置いていた間の凛のポンコツぶりが忘れられないからかもしれない。顧問がいるときはアイコンタクトだけだし、私が早く戻るよう促すからかもしれない。でもやっぱり、マネージャーの手元を覗き込む凛と、そのときのマネージャーの表情に私は一抹の不安を覚える。
少しだけ部活を見て、委員会に出席した友人が来ると一緒に帰った。一応手を振ったら、凛はラケットをゆらゆらさせてくれる。そのまま振り返らずに学校を出た。
「なまえ、大丈夫?」
「なにが? 大丈夫だよ」
「ぬーが、すっかりキャラ変わったていうか…」
「…そう?」
「うん…元気ねーらん」
「そんなことないよ!」
そう言って、心配そうな友人に笑いかけた。そう、なんでもかんでも口に出して、暇さえあればおしゃべりをしているようなのはもうやめたのだ。分別のある、凛に嫌われないような子になる。そう決めて、私は凛と慎重に会話をし、適度な距離感を維持しようと努めていた。干渉しない。べたべたしない。わがままを言わない。おしゃべりなら友人とできるし、私も何か、打ち込めるものでもと思っているところだ。
「私、凛と一緒にいるためなら、なんでも頑張るんだ」
そう自分に言い聞かせるように呟く。友人は、何か言いたげではあったけど、ふーん、と言って終わった。
朝は、朝練中の彼らを覗いてから登校し、昼は、凛に呼ばれたときだけ一緒に食べた。放課後は図書室に寄ることもあったし、帰ってとりあえず勉強をした。私には凛しかなかったからあんなことになっちゃったんだ、と読書や勉強、ダイエットなどで時間と気持ちを分散させようとすると、意外に一日は短い。私には出番などないけど、ママと一緒に料理をしたりお菓子を作ったりもした。凛のことを、考える時間を減らしたかった。
…
「甲斐くん、おはよー」
「…はよー」
「今日、朝練ないの?」
「あるやし。寝坊したさあ」
「そうなんだ。お疲れさま」
前を歩いていた甲斐くんになんとなく話しかけてしまったものの、そこから会話が続かなくて困る。甲斐くんはどうも、凛に私と仲良くするなと言われているらしいからだろう。自分は女の子と仲良くしてるのにね、とまだ嫌なことを考えてしまって、口をぎゅっと閉じた。
「あー、仲直りしたば?」
「…うん。迷惑かけてごめんね!」
「別に…いいけどよー」
「凛、ちゃんとやってる?」
「…それなり、やし」
甲斐くんの煮え切らない言葉に、甲斐くんを見上げた。目が合って、慌ててそらされる。何もそんなに忠実に言いつけを守らなくたって。そう思ったけど黙っていた。
もうこんな時間だけど、部活に顔を出すと甲斐くんが言ったから、私もそれについていく。凛に、おはよーの代わりに手を振って教室へ行く。いつも通りに。
「あっ、センパーイ! 部長、怒ってますよ!」
コートが近づいて、マネージャーがめざとく甲斐くんを見つけて声を張り上げた。ユニフォームを着たみんなが、こちらを見る。またなー、と言って走っていった甲斐くんを見送って、遠くにいた金髪に手を振った。すぐに校舎に戻ろうと思ったのに、凛が走ってきたように思えて立ち止まる。
「はいさい、なまえ」
「はいたい、凛」
「裕次郎と一緒だったば?」
「うん、途中で会った。寝坊したんだって」
「…ふうん。あ、昼休み、迎えに行くやし」
「分かった、待ってる」
じゃあね、と手を振り合って踵を返した。今日のお弁当はなんと私が作った。凛に自慢しようと弾む気持ちを、足に力を入れて抑える。
…
昼休みになってすぐ、凛が迎えに来たから屋上に行く。陽の光が強くて、なんだか心地良い。女子たちの視線が痛かったけど、気にしないふりをして黙ったままの凛の隣を歩いた。
「最近まじめに授業受けてると、時間があっという間だよ」
「…ぬーがあったば?」
「ううん、別に。私も凛みたいになんか頑張りたいなーって思って」
ママに色々教えてもらってね、今日はお弁当手作りしてきたんだ!と言うと、凛がへえー、と言いながら私のお弁当に箸を向けた。何度も練習してやっとコツを掴んだたまご焼き、簡単ハムエッグにハンバーグという、非常に初心者向けのメニューだ。黄身と白身がきれいに混ざったたまご焼きを凛の箸が刺す。
「いただきー」
「えっへん」
「おお、まーさん」
「でしょー」
「…最近、」
「ん?」
「図書室で何度かやーを見たって、永四郎が言ってたさあ」
「木手くん、私のこと知ってるんだ」
「当たり前やし」
「そーなの。教養?てきな?」
「しかもぬーが…痩せたあんに?」
「えっ…そうかな。最近ママとヨガとかしてるんだ」
「…どういう風の吹き回しば?」
まさか本人に、凛のことを考える時間を減らそうと思って、などとは言えない。凛につり合うように自分磨きしてるの、と言えば凛が眉をひそめた。
「へぇー」
「…どうかした?」
「やー、言わなくなったやし、いなぐと仲良くするなとかよー」
「…うん」
「…裕次郎のほうが良くなったば?」
「え?」
「わがまま…やめなくていいってわん言ったやし」
「ううん、凛に嫌われたくないし」
大丈夫だよ、と言えば凛が私を睨む。
「…調子狂うさあ」
「…そうかな。でも凛が嫌がることしたくないんだ」
凛が小さく舌打ちをして、微妙な表情のまま突然キスをした。まだ凛に好かれている証拠のように思えて、嬉しくて嬉しくてにやけるのを抑えられない。私のだらしない顔を見た凛も大きく笑った。
「わんさー、やーの色んな話聞くのしに好きだったよ」
寂しげな、悲しげな眼差しに、胸が、痛む。あの頃は、本当に色々、なんでも話した。つまらないことも、凛に知らせてもなんの意味もないことも。きっと、そのことを言っているんだと思うと、どうすることが最善なのかまた分からなくなる。
でも、距離を置こうと言われたあの瞬間の、溺れたような息苦しさと胸に沈んだ後悔の重さがあの頃の私を否定していた。好きな人に拒絶される痛みと、嘲笑うような周囲の人たち、どれもこれももう二度と繰り返したくない悪夢のよう。
「凛に…捨てられたくないから…」
手が震えて、箸が指先から滑り落ちた。凛が掴んでくれたけど、一瞬よぎった胸の苦しみがまた私を捕まえて動けなかった。
「悪かったって、やーだけのせいじゃねーらん、」
「ううん、ごめん」
急に喉がからからに渇いてうまく話せなかった。箸を置いた凛が、私の頭を撫でる。でも、怖くてその顔を見れなかった。あの冷めた目がフラッシュバックして、押し黙る。
凛は私の頭を撫でたまま、少し黙って、それから口を開いた。
「永四郎に言われたさあ。いなぐ不安にさせてまでモテたいのかってよ」
なんて、相槌を打って良いか分からずに視線を上げた。凛と目が合うけど、見たことがないくらい穏やかな色をしていて何も言えないのに目をそらせなかった。でも、彼は私の言葉を待つことなく続ける。
「そー考えたら…やっぱなまえのほうが大事だなって」
そっかあ、と言おうと思って、でも喉が引き裂かれるように痛んで、慌てて俯いた。涙が、頬も伝わずにコンクリートにシミを作る。いくつもいくつも、丸い跡を作るけれどすぐにぼやけて見えない。
頭を撫でていた手がするりと背中にまわって、男の子の力で引き寄せられる。うっすら制汗剤のさわやかな匂いのする肩口に額が当たった。すぐに強く強く抱き締められて、シャツが濡れると思いながらも動けないまま涙を染み込ませていた。
「わっさん…ごめんな」
「…ん、」
「また…色んな話聞かせて欲しいさあ」
「…うん」
凛の体が、熱くて、泣き過ぎて頭が痛くて、やっぱりこの恋を手放したくないと強く思った。肩越しに見上げた空は太陽が真っ白に眩しくて目を閉じる。広い背中に腕を回して、凛の腕に負けないくらい強く強く抱き締めた。どこにもいかないで。ずっと、私だけの凛でいて。そう、強く強く念じて。