あれは一ヶ月ほど前の過ちだった。休みの前日、会社のみんなで飲みに行って、疲れていたせいかいつもより早く深く酔ってしまって、なんとなく当たりが強くて苦手に思っていた同僚と、何の因果かホテルにいた。多少の気持ち悪さを感じながら目を覚ますと、見覚えのない真っ白のシーツにくるまっていること気づいた私の驚きは、いま思い出しても心臓に悪い。記憶がない、なんてことはなかったけれど、寝起きの頭では、ここがどこなのか、いま何時なのか、スマホはどこだっけ? などと疑問ばかりが頭をよぎる。それから、一緒に泊まった相手のことを思い出して、ああなんてことを、と強く思った。シーツの海で身じろぎしたことに気づいたらしい彼は、水のペットボトルと私のスマホを差し出してくれたのだけれど。彼との過ちをしっかりはっきり覚えていた私の挙動不審さを嘲笑うように嫌味な態度で、そろそろ起こそうかと思っていたところですよ、と彼は言った。チェックアウト一時間前のことである。
彼は言葉にいちいち棘がある。文字にしてみるとなんてことない丁寧な言い回しなのに、なんとなくそう感じさせる何かがあるように思えてならない。それが私を萎縮させ、彼に苦手意識を持つ原因だった。ただ彼はとても仕事のできる人であったし、他人の足を引っ張るようなこともしなかったし、むしろさりげなくフォローしてくれたことすらあった。そして多分、私がある程度の距離を保っていることに気づいていたと思う。それなのになぜ。
結構酔ってしまった私をどうするか、となったときに木手くんが引き受けてくれたことを酔った頭でぼんやり聞いていた。他のみんなは二次会に行きたそうな空気を出していたからだ。居酒屋の並ぶ中を、引きずられるようにして歩きながら、気持ち悪いー早く横になりたいーもう歩けないーと連呼していたのも覚えている。彼はひとつ溜息をついて、もう少しだけ頑張りなさいと言ったのだ。そして、五分後には近くにあったラブホテルのやたら大きなベッドにスーツのままダイブしていた。鞄を下ろしてハンガーにスーツをかけていた彼に、皺になりますよ、と言われて、ジャケットを脱ぎ、ストッキングを脱ぎ、カットソーを脱ぎ、スカートを脱いで怒られたことも覚えている。もう完全に家の気分だったのだ。そこまで脱いだならシャワーを浴びてきなさいと広々とした脱衣所に押し込まれ、気持ち悪さと戦いながら居酒屋くさい髪までしっかり洗った。こればっかりは、数時間後に過ちを控える身としてはグッジョブである。バスローブがあるわけだし、下着をつける気にならず手に持ったままベッドルームへ戻ればソファーにかける後ろ姿から隠れるように鞄に下着をしまった。
それからのことは言うまでもない。彼もシャワーを浴びて、ベッドでごろごろしているのをたしなめられたり飲み過ぎだと小言を言われたりしていたら、木手くんがかっこいいことを思い出して…なぜかそのままなし崩しだ。残念ながらセックスは最高だった。聞いたら学生の頃はテニス部で、それはもう鍛えまくっていたらしい。ベッドの上で聞く嫌味な言い回しはもはやプレイのようにしかならなかったし、何せ酔っていたのだ…。
翌日の朝、だからどうってことはない、これからもいままで通りで、と取り決めた。週明け、気まずいと思いながらも彼は拍子抜けするほどいつも通りで、私は同僚たちにちゃんと帰れた?と聞かれては曖昧に返事をしていた気がする。それから約一ヶ月、彼の態度は微塵も変わらなかったし、私も、そう努めた。けれど、けれど、それはもうとても難しかった。過ちから数日で、私は自分の中に芽生えた感情に混乱し始めていた。そして何日も何週間も煩悶し、ついに私は彼を飲みに誘った。
そこは前に行ったようながやがやした明るいお店ではなく、以前女友達と行ったことのある暗くて、カーテンで仕切られているダイニングバーで、私は今度こそちびちびとお酒を飲んでいる。ふたりで適当に頼んだフードをごまかすようにぱくぱく口に入れながら、彼からの、用件は?という視線を避けていた。
「いつまでそうしているつもりですか」
「いや…そうなんだけど」
「一体、何の用です」
言うと決めてここまで来たのに、やはり羞恥のあまり口が開かない。しかし、まごまごしている時間がむだなのも分かっていた。私はグラスに残っていたお酒をぐいっと飲み干して、激しく鳴る心臓をおさえるように息を吐く。ちらりと見上げた彼とばっちり目が合って、思わずそらした。
「あの…」
「何です」
「やっぱり…その、わ、」
「…?」
「忘れられなくて…」
ああ、言ってしまった。思わず額に手を当てた。彼がどんな表情をしているか、怖くて見ることができない。この一言でも、何の話題かは分かっているはずだ。忘れられなくて、忘れられなくて。それで?
「あの…その…木手くんが嫌ならもちろんいいんだけど、その、も、もう一回だけ…思い出に…」
顔を両手で覆って、指の隙間から彼の様子を伺った。こんなはしたないことを言うなんて前代未聞だ。私の人生でこんなこと予測もしていなかった。けれど、酔っていたことで多少霞がかった記憶の中の行為が、最高に最高で忘れられなかった。こわい。なんて思われただろうか? 恐る恐る目線を彼に合わせると、怪訝な表情をしていた。分からない。それじゃ分からないよお、と心の中で泣き言を言う。
「…つまり、またセックスしたいと言うことですか?」
「ちょっと!」
店内にはムーディーなジャズが流れていたし、席はぽつぽつとしか埋まっていなかったし、彼も私も小声だったのに、あまりにはっきりとした物言いでさらに混乱する。ただ、残念ながらその通りなので否定することはできない。
「違うんですか?」
「…いや、違わないんですけど」
「まあ、結構頑張りましたね」
「え?」
「もうずっと、何か言いたそうにしてるなとは思っていましたが」
顔色ひとつ変えない彼の言い分に絶句してしまう。私、そんなに分かりやすかっただろうか? 間をもたせるのにグラスに手を伸ばして、何も入っていないことを思い出した。何か頼もうかと逡巡していたら、彼が、では出ましょうか、と言った。
「え?」
「行くんでしょう、ホテル」
「え…」
「それとも、うちに来ますか?」
「え、えっと、え?」
「何を慌てているんです。あなたが言い出したんでしょう」
「いや、そう、そうなんだけど、けど…良いの?」
「構いませんよ」
思わず心の中で、ヤリチンだ!と叫んだ。だから上手いんだ。合点がいった。彼は私の返事も待たずにスムーズにテーブル会計を終わらせて立ち上がる。私も慌ててジャケットを着て、鞄を持った。
「で、」
「、はい」
「どっちにするんですか」
「ああ、えっと、えー」
また言い淀む私に、彼は溜息をついてタクシーを止めた。あわあわする私とともに乗り込んだ彼は、自宅と思われる場所を指定した。暗い車内で横顔を盗み見る。まっすぐ前を見つめていて、私はほっとしたような、困ったような。意を決して、近くにコンビニって、と話しかけると、ありますよ、と言われて会話が終わる。
まだ心臓がうるさい。背もたれにもたれて、窓の外を眺める。こちら側は暗いのに、あちら側は眩しいほどキラキラしている。ぼーっと喧騒を眺めていてようやく落ち着いてきた私は、事態を把握し始めた。あんな、とんでもないお願いを、彼は表情ひとつ変えることなく承諾したのだ。そして、これからするのだ。すべては私の望み通り、なのに緊張する。そりゃそうだ、と気づかれないように小さく息を吐いた。これからセックスするって分かってるんだもの。一ヶ月前は、そうじゃなかった。
彼が何度か運転手と会話をして、コンビニの前でタクシーが止まる。財布を出しかけるも完全に無視をされてさっさと支払われてしまい、まごついている間にドアが開いた。
「挙動不審にもほどがありますよ」
彼はそう言って、少しだけ笑った。それは嫌味のない、いわゆる苦笑のような感じで、私はそこでやっと、照れた。コンビニに入って行く彼についていって、飲み物やスキンケアのお泊まりセットとともに、当然のように避妊具をカゴに入れられ、また狼狽した。この、何とも言えない距離感が困る。手を繋ぐなんてもちろん、隣に並んであのときのように馴れ馴れしく話して良いものかすら分からなくなった。また財布を出しかけるも無視されて会計が終わり、コンビニを出る。夜の冷えた空気が肌を冷まさせていくのを感じていた。
彼についてマンションに入り、エレベーターの中を無言で過ごし、部屋に着く。こざっぱりした玄関、1DKの広々とした室内はものが少なく、イメージ通りだった。
「着替え、用意しておくからシャワー浴びておいで」
「あっ、はい」
出て左、と言われて、私は買ったばかりのお泊まりセットを持って部屋を出た。そろりとドアを開けて、服を脱いでシャワーを浴びる。頭から湯をかぶっていると、いまのとんでもない事態に頭がおかしくなりそうだった。もちろん、断られるよりは断然良い。断られたら、今後会社で会うのが気まずくて仕方ない。でも、それだってもちろん考えた。考えて考えて、でもやっぱり忘れられなくて我慢できなかった。良かったと思うべきだ。きっと数十分後には、またあの、最高に気持ち良いセックスをしているはずだ。そう考えるとやっぱり照れた。
浴室から出ると、下着だけ残して服がなくなっていて、タオルとTシャツと短パンが置かれていた。きっと干してくれたんだ。ぶかぶかのTシャツはまだしも、短パンはゆるくて落ちてきそうで、履くのを諦めた。スキンケアをしてから、リビングに顔を出して、ドライヤーの場所を聞いた。ついでに、大きくて、と短パンを返せば彼の眉間に一本皺が入る。見なかったことにして、言われた場所からドライヤーを借りた。
「すっきりしたあー」
「随分とまあ大胆な格好ですね」
「だって、落ちてきそうなんだもん」
彼はやれやれとばかりに眉をひそめた。ソファーに座って炭酸水を飲みながら、彼がシャワーを浴び終わるのを待つ。口から心臓が出そうなほど緊張していたけれど、それと同じくらい楽しみで体がうずいた。
裏へつづく…
タイトル大丈夫かな???逆にしたし大丈夫かな???☆と語感だけで選んだ、あとダブルもあるから…