覚えた違和感が確信になったのはもう辺りが暗くなってからだった。変によそよそしい上に、今日一度も目を合わせに来ない。話しかけてきても視線は俺以外に注がれているし、いつもみたいなどうでもいい話題が上ることもなかった。長い髪を後ろに纏めたなまえはキッチンで夕食を作っている。当たり前だがその視線はまな板と包丁へ。
「なまえ」
「んー?」
とんとん、と規則正しい音は止まない。俺はなまえの睫毛ばかり見ている。
「こっち向け」
そう言うと包丁の音が止む。ほんの少し、逡巡したなまえはゆっくり顔を上げた。じりじりと焦げ付くような焦燥を覚えながら。
「…どうかした?」
窺うように数秒、交わってすぐになまえは視線をそらした。いつものように口角の上がることもない。はにかむこともない。ただただ怯えるように下がる眉尻と、不安げに揺れる濃茶の瞳。違和感は思った以上で、どうしていままで気づかなかったのかとすら思う。どうしていままで。ずっとノーパソの画面に向かってりゃ気づくこともない。見逃していた、だけ。気まずそうななまえは、中断した作業を再開しても良いものかと一瞬視線を寄越す。なあ、なまえ。一体俺はいままで、いくつ見逃してきたんだ?
「…妖ちゃん?」
ソファから立つ。困り果てた表情のなまえは小動物や草食獣を連想させる。気づかなかった、ふたりとももうこんなに大きくなって、大人ではなくても子供でもないということ。見えるところばかり成長するわけじゃあないってこと。いつも、言わなくたって察してくれた。やらなくたってやってくれた。甘えてばっかりだった。ずっと。
「なまえ」
こんなに背が低くて腕も腰も脚も細くて、柔らかくて優しくて。守ってやらなきゃいけなかったのに。
「…よ、ちゃん?」
可愛らしい柄のエプロンをつけたなまえは包丁を握り締めたままで、とりあえずその手から包丁を受け取る。まな板に置いて、火を使っていないことを確認。後ずさるなまえを、脱衣所に繋がるドアに追い詰めた。
「なまえ、なにがあった?」
背中にドアが当たる感触に足が止まる。泣きそうな顔で俯くなまえに手を伸ばす。温かな頬に片手を添えて顔を上げさせれば、涙は落ちる寸前だった。
「おい、」
「妖ちゃん」
震えながらも力のこもった声が、名を呼ぶ。伏せた目を覆う目蓋をそろそろと上げながら。涙は表面張力でこぼれない。
「マネージャーと付き合ってるって本当?」
それだけ言って、片手で顔を隠す。けれど顎を伝った涙を見逃すわけがない。ドアに背を預けて、必死に声を殺しながらなまえは泣いていた。というか、俺が泣かせた。
「嘘だ」
ぴくりと揺れたなまえの顔を覆う手を掴む。そっと剥がしながら、頬に添えた親指で涙を拭った。充血気味の、まんまるい目がしっかりと俺を見詰める。
「うそ…」
「俺が好きなのは、」
きゅうと閉じた目からぽろぽろと涙がこぼれる。あまり擦るのもと思って一舐め。驚いて目を開けたなまえを至近距離で見詰める。悲しい涙はしょっぱいというけど、確かにしょっぱい涙だった。
「ガキんときからずっと、これからだってずっと」
ふいっと視線をそらしたなまえの、たれ目がちな目尻に唇を押し当てる。頬も目尻も耳も真っ赤にして、なまえはまっすぐ俺を見た。
「なまえだけだ」
何をか言わんと少し開いた唇にキスをする。逃がす気はなかったけれど、頬と片手を取られたなまえは逃げることもできず、けれどぶら下がっていた片手が控えめに服を掴んだ。起きてるなまえにキスするのは初めてで、それは隠しておこうかとも思ったけど、自惚れていて欲しいから言うことにした。
ぶたれっかなあ、と考えながら、角度を変えて舌を入れる。目を閉じたなまえをばっちり見ながら、場の空気にそぐわないことばかり考える。可愛くて可愛くて仕方がないだとか、このまま襲ってしまいたいとか。こんなに好きで仕方ないのに。こんなに愛おしくて仕方ないのに。
「…っよ、ちゃ」
涙の細かな粒が睫毛をきらきら輝かせる。だから、その目は反則だっていうのに。最後にもう一度唇を押し当てて離れた。肩で息をするなまえをひたすら見つめながら、理性をどうにか手繰り寄せる。
「…妖ちゃん、私も、妖ちゃんが好き」
頬を捉えていた手のひらに、小さな手のひらが重なる。どうしてもっと早く言ってやらなかったんだろう。頼りない体を抱き寄せて、腕の中にすっぽり収まったなまえはやっぱりまだ少し泣いていた。
ハピエン難しいけど良かったねー