少々部屋と不釣り合いな大きさのテレビから飛び交う声。鮮やかな画面に映るのは海外のアメフトの試合。黙って見入る妖ちゃんの左手を取る。一週間経った保護硬化剤をリムーバーで落とす。綺麗な形の爪に、長い指と筋の浮く甲。大切な大切な手のお手入れを、妖ちゃんは私にさせる。くったりと動くことのない指を恭しく支えて、僅かに伸びた爪にガラスのやすりを当てる。するする削れるやすりを片手に、爪の具合を見るために手を動かしても妖ちゃんは微塵も反応を示さない。左手のすべての爪にやすりをかけ、私の手に爪を立てさせた。傷つくことなくするりと滑っていく。それを確認してから、ソファに片足を立てて、綺麗な手を膝に載せた。その爪に保護硬化剤を塗っていく。妖ちゃんの大事な爪が割れたりしませんように、と刷毛を滑らす度に祈る。爪の先にまで塗り終わったら、乾くまで気をつけてねと声をかけて手をソファに下ろす。邪魔しないように後ろからまわって、今度は右手を取った。同じように保護硬化剤を落としやすりをかけて整えた爪にまた保護硬化剤を塗る。
「なまえ」
膝から手を下ろしたときに、妖ちゃんが私を呼ぶ。手から視線を上げるも、妖ちゃんはテレビに釘付け。何かと思っていたら、組んでいた足を解き、開く。
「座れ」
「…うん」
なんとなく恥ずかしかったけど、保護硬化剤を塗ったばかりの手に気をつけながら足の間に腰を下ろした。そのまま黙ってテレビを見ていたら、妖ちゃんの手がお腹にまわる。引き寄せられて鍛えられた胸板に背を預ける形にされる。照れをごまかすように爪の心配をした。
「妖ちゃん、まだちゃんと乾いてない…」
それでも手はそのままで、爪は何にも当たっていないようだから口を閉じた。本当は、試合に注がれる真剣な眼差しを見ていたかったんだけど。頼りがいのある胸に寄りかかりながらテレビを見る。
*
「なまえ」
ゆさゆさと肩を揺らされて、目が覚めた。目が覚めたということは、どうやら妖ちゃんに寄りかかって寝てしまったらしい。
「ごめん…寝てた」
「ん、乾いた」
目の前に出された手を取る。綺麗だなあとか、思いながらぼんやり見ていたら、耳のすぐ近くで声がして肩が跳ねた。
「なまえちゃーん」
「わっ」
「見とれてんのか?」
「見とれてないし…」
「はいはい」
楽しそうな声を無視して、ローテーブルに置いていたオイルを取った。指先に薄く垂らし伸ばしてから、妖ちゃんの爪の周りになじませていく。
「あ、ちょっと」
されるがままだった指が突然、動く。妖ちゃんは楽しそうに笑っただけ。私の指から逃げるように動いたり、絡みつくように動いたり。妖ちゃんの手をお手入れするためだけに触っているだけなのに、からかうように翻弄する指にだんだんと羞恥心が芽生えてくる。
「妖ちゃん、おとなしくしててってば」
「やなこった」
いたずらっ子のように笑うけど、そんなのとは比べようもないくらいに質が悪い。放置されていた右手まで、私の手で遊びにかかる。
「もー、もうちょっとだけおとなしくしてて」
「ご褒美は?」
「ありません」
「じゃーヤだ」
「あっ、こら、妖ちゃん」
捕らえられた指先に、ちゅ、と妖ちゃんの唇が触れる。その手に触れられるだけで、ドキドキが止まらないのに。
「なまえ、耳真っ赤」
からかう口調は正鵠を射ている。抗議のために振り向くこともできない。
「なまえ」
急に真面目な声を発した妖ちゃんを不審に思って振り向く。赤面しているだろうということはその声音のせいですっかり忘れていた。
「いつも悪いな」
「…妖ちゃんがそういうこと言うの似合わない」
そう言うが早いか、その頬にキスをした。
「妖ちゃんのためなら、なんだってするからね」
「…じゃーとりあえず、デビルバットの耳と尻尾つけてもらうかな」
「えっ、いやいや、そういうことじゃなく」
とびきりかっこよく笑う妖ちゃんの耳が、ほんのり赤いけど気づかないふり。
タイトルは幸福論/椎名林檎より