ドアの開く音がしたから廊下に出て明かりをつけた。真っ黒いマフラーに俯きがちな顔を半分埋めた妖ちゃんが、ドアを閉めて靴を脱いでいる。

「おかえりなさい」
「おー、ただいま」

手を伸ばしても、荷物は渡してくれないからもう諦めた。妖ちゃんは寒さで耳が赤らんでいる。頬に触れたら酷く冷たくて、その手を妖ちゃんの冷たい手が浚っていく。

「妖ちゃん、冷えてる」
「あー、あったけえ」

暖房のついているリビングは暖かくて、ようやっと渡してくれる鞄を受け取り、洗濯機のある脱衣所へ持っていく。ぐしゃぐしゃに詰め込まれたウェアやらタオルやらを洗濯機に放り、鞄には消臭スプレーをかけてリビングに戻る。

「妖ちゃん、なんかあったかいもの…」
「なまえ」
「ん?」
「やる」

勿論黒いスエットに着替えていた妖ちゃんは、視線はそっぽに向けて私にケーキ箱をつき出す。よく見ると駅前の洋菓子店のロゴが入っていた。指摘はしないけれど、妖ちゃんは照れ隠しによくそっぽを向いたりする。

「どうしたの、急に」
「別に」
「そっか、ありがとう」

妖ちゃんはガムを膨らませながらソファに座る。中を覗いたら、チョコレートケーキと苺のタルトとミルクレープが入っていた。当然、妖ちゃんは私の好みを知り尽くしての選択で、どれもこれも美味しそうに匂いを放つ。テレビからふと聞こえた声に私は顔を上げた。

「ねー、妖ちゃん。もしかして、これ?」

私はいそいそと妖ちゃんの隣に座る。噛んでいたガムを包み紙に吐き出し、抜群のコントロールでゴミ箱へシュート。尊大な仕草でソファの背に預けていた腕は私の肩へ回る。テレビの中では、めおチューなる催しが取り上げられていた。

「…そんなとこだ」
「ありがとうね、私の好きなのばっかりで、どれから食べようか迷っちゃう」

返事の代わりに、大きくて手タレ以上に綺麗な手が頭を撫でた。夫婦岩に向かって叫ぶ伴侶への想いも蚊帳の外。妖ちゃんの変わらない態度から透けて見える想いだけで、十分。できれば、アメフトの次に特別でありたいけれど。

「…なまえは、」
「うん?」
「いいのか、これで」
「…なにが?」

ちらりと妖ちゃんは私を見る。無駄のない動きでリモコンを取りテレビを消す。ソファについていた手に、妖ちゃんの手が重なった。温かい。いつも優しくて、絶対に私を離さない手。

「ずっと、自分のことより俺を優先してたろ」

中学、高校と妖ちゃんちに行っては家事をこなした。周りに言わせればようやっと付き合うようになって、あまり経たないうちに同棲を始めた。妖ちゃんが、アメフトに情熱すべてを傾けることができるように。食べるものにも、手のコンディションにも、言わずもがな家事も。大学に進学したけれど、卒業と同時に結婚と専業主婦になることを約束していたから就きたい職業もあまり考えたことがない。羨ましい、と言われたのも一度や二度ではない。いつも妖ちゃんの庇護を受けて、大切に大事にされているのは痛いほど伝わっている。

「私の中で一番優先されるのは妖ちゃんだもの」
「なまえは、それでいいのか」
「いいよ。これがいい」

どうしようもなく幸せ者なんだって自覚してる。ずっとずっと好きな人の傍にずっとずっと居られる。私の出すものは迷わず食べて、私の詰めた荷物は改めることなく持っていく。妖ちゃんは私に色んなものを委ねている。

「江梨子さんから聞いたんだけどね」
「…ババアか」
「こら。お母さんも同い年。なんであのマンションにしたかって」
「…あー」
「私がたまたまお母さんとお買い物の帰りで、見に回ってた江梨子さんと妖ちゃんに会ったの、覚えてる?」
「…覚えてる」
「そのときに、妖ちゃんがずっと私のこと見てたから、そこにしたって」
「…余計なこと言いやがって」

眉間に皺を寄せて妖ちゃんは目を細める。子供の頃の記憶なんて殆どないけど、あのときのことはなんとなく覚えていた。お母さんから聞いたものを記憶として認識しているのかもしれないけど。

「すごい偶然だよね。あのとき、妖ちゃんに出会っていなかったら、たまたま空いてた隣に越してこなかったら、」
「それでもなまえを見つけてたろうな」

意外な言葉に、その顔を見上げる。優しい目をした妖ちゃんが額に口づけをひとつくれて、どうしようもなく幸せだなあと思った。