部活から帰ってきたらなまえがいなかった。土日だけにさせたバイトは十六時までなのに、もう十七時が近づいている。唯一ストラップのついている携帯電話を確認。メールも着信もなし。とりあえず制服から着替えてリビングのソファに座った。アナログな資料に目を通すのも捗らず、試合のDVDを見るも頭に入らない。忌々しくて、舌打ちをひとつ。とりあえず連絡くらい寄越せ、と心配になる。自分に呆れて勢いよくソファに背を預けた。視界の端にふとぬいぐるみが入り込む。真っ白で大福みたいな輪郭から垂れた大きな耳。ポリエステルのくせにミンクの手触りを真似た出来の、多分うさぎをなまえはよく抱えている。
なんとなしにそれを抱える。多分うさぎの額と思しき場所に鼻を当てた。分かってはいたけど、甘ったるい匂い。なまえの好きな、バニラの匂い。クローゼットにもこの匂いのフレッシュナーを置いていた。甘いものが嫌いな俺に気を遣って、香りの強さを調整できるものを。甘いものは大嫌いだし、餓死寸前でも砂糖を含有しているものなんざ口に入れたくないし、ミントやらメンソールやらの清涼感のあるものが好きだけれど。こってりと残るこの匂いは、割りと、好き。多分うさぎの多分額の匂いを嗅ぎながら、揃いのストラップがついたスライド式の携帯電話を凝視していたら、真っ黒だった画面が急にメール受信画面に切り替わる。件名のないメールは待ち焦がれていたなまえから。ぬいぐるみを片手で固定して、携帯電話を取る。本文には、急にバイト延長になった、いまから急いで帰るという旨の文と泣いている猫の絵文字。ほっとしたのを隠して、気をつけろよと送るも、殆ど間髪を入れずに送ってしまった。けれどすぐに、ごめんね、気をつけて急いで帰る!と返ってきて頬が緩んだ。バニラの匂いを嗅いでいたせいか、そこになまえの匂いを重ねたせいか、眠気が目蓋を捉えたのを自覚してソファに横になる。勿論、多分うさぎを抱えながら。
*
怒ってるかも、でもでもご飯は間に合う、いやいやでも、と考えながら早足にマンションを目指す。入れ替わりで入るスタッフが一時間遅れるということで、延長してシフトを埋めたは良いが、休日はそれなりに忙しくて連絡する暇がなかった。急に延長させてごめんね、と焼きたてのミルクパンとメープルパンを貰ったけど、お米が好きな妖ちゃんの口に合うのかは分からない。ていうか、ミルクとメープルって甘いと思う。やっぱり気に入らなさそう。踵が鳴ってしまうのを気にしながらも大幅に最短記録を叩き出してエレベーターに乗り込む。最上階までが近くて遠い。エレベーターを降りてからは殆ど走るようにドアを目指す。後は落ち着いて鍵を開けて、妖ちゃんにごめんなさいをするだけ。
「…ただいまー」
返事はない。爪先をドアに向けてショートブーツを脱いで、妖ちゃんの革靴も向きを揃える。帰ってきたのにも気づかないくらい集中してるのかと抜き足差し足で廊下を歩きリビングのドアをそろそろ開けた。
「あれ、妖ちゃ…」
しかし姿はない。よく見たら、ソファから長い足がはみ出していた。背もたれから覗き込めば、某キャラクターのぬいぐるみに顔の下半分を押し当てながら眠る妖ちゃん。確か、というか確実にあのぬいぐるみにはバニラの香水をかけている。妖ちゃんの嫌いな甘ったるい匂いがするはずなのに。
「妖ちゃん」
眉が僅かに顰められる。
「よーちゃーん、こんな時間に寝ていいのー」
ぎゅっと合わさった目蓋に力がこもり、それから開いた。その目はどこにいるか分かっていたように私を映す。
「ただいま。遅くなってごめんね。次の人が遅れるってぎりぎりに連絡きて」
「…ん。…おかえり」
「おみやげ。ミルクとメープルなんだけど」
「…ミルク」
むくっと起き上がった妖ちゃんはやっとぬいぐるみを抱えていたのを思い出したようで、舌打ちをひとつしてから私に押し付けてきた。鞄をソファの端に置いて、妖ちゃんの隣に座る。ぬいぐるみはしっかり膝に載せて。
「バニラ、嫌いじゃないの?」
ちらっと嫌そうな顔で妖ちゃんは私を見る。渡したパンをもぐもぐ食べながら。
「なまえの匂いだったから」