そのまま眠っていたらしい。
玄関でなく、多分リビングのドアが開く音。帰ってきたんだ、と思ったけど体を動かす気になれなかった。明かりをつけず、カーテンも閉めたままの真っ暗な部屋。妖ちゃんの匂いがする黒いシーツで覆われた布団にくるまって。くる。もうくる。こんな分かりやすいところにいるのに、かくれんぼをしているときのようにドキドキしていた。がちゃり、とドアが開いてぱちん、と明かりがつく。俯いていた視界に、妖ちゃんの足だけが飛び込んできた。

「ただいま」

何も言わずに、妖ちゃんを見た。少し怪訝そうな目とぶつかって、私はそのまま跳ねて転ぶ。

「おかえり」
「なにしてんだ」

銃器の入った鞄を無造作に置いて、妖ちゃんはその場で知らない携帯電話をいじる。今日、試合を見に行った。打ち上げがあるから晩飯はいらないとメールが来たから、友達を誘おうかと思ったが食欲がなくてチョコを幾つか食べるだけにとどまった。初めてかもしれない。こんなに妖ちゃんが遠いと思ったの。長い足を持て余し気味の妖ちゃんを見る。手を伸ばす。やっぱり、というか勿論、届かない。

「…遠いな、」

見ていられなくて目を閉じる。するりと腕から力が抜けたら、重力に従ってそれはまっすぐ落ちる。

「どこが」

落下していた右の手首に手が触れた。誰のかなんて見なくても分かったけど、怠い目蓋を上げる。短くない距離があったはずなのに、やっぱり妖ちゃんの手が私の腕を掴んでいる。

「ううん、なんでもない」

辛くなって、一度きつく目を閉じた。次に目を開いたらもとに戻ろう。そして喉にわだかまる、汚いものを嚥下しなくては。左肘をついて起き上がる。目を、開けた。

「明日のお弁当の準備しなきゃ」

そう言って右手を引いたら、それはなんの障害もなく抜け落ちる。妖ちゃんの視線を痛いほど感じたけど、無視して横を通り過ぎドアを閉めた。帰ってきてからあんなに泣いたのに、また視界がぼやけて笑えたけど、頭を振ってキッチンに向かう。ポテトサラダでも作ろうと思って、無心でじゃがいもの皮を剥く。気づいたら水を溜めたボールに四つ、じゃがいもが泳いでいた。気づいたら、妖ちゃんがリビングにいた。英語でかかれた雑誌をめくっている。振り払うように持っていたじゃがいもも水に沈めて、きゅうりを取り出す。洗って、表面をこすって、頭と尻を切り落とす。それから、さいころ切り。妖ちゃんを見てから、どうにも落ち着かない。どうして私は。

「いたっ」

指先が僅かに痛んで小さいながら声を上げてしまった。ぼうっとしていたから、ピントの合わない中で包丁が左手の中指を掠ったらしい。それを確認するとほぼ同時に向かいのリビングから物音。ああどうしよう。聞かれてしまった。小さな珠の染み出た中指を口に含む。

「どうした」

わざわざ対面キッチンをまわって、妖ちゃんが近づく。なんでもない、と首を振ったけど、指を咥えている時点で切ってしまったのは明白だった。

「おい、大丈夫か?」

こくこくと頷くも、妖ちゃんは私の左手を掴んだ。引きずり出された指先。唾液で薄まった少量の血液が中指を汚している。

「なにやってんだ、」

 ぼろっ、と涙が出た。妖ちゃんは気づかない。私の舐めていた指を、躊躇いなく口に含み舌先で舐めながら、包丁を閉まっている引き出しから絆創膏を取り出す。私は声を上げそうになって右手を口元に当てたけど。その動作を、妖ちゃんは視界に収めた。

「なまえ、」

目をそらして、閉じたのが逆効果で溜まっていた涙が一気に頬を滑り落ちる。焦燥と疑問を含んだ声で私を呼んだけど、手当てを優先したらしいその手は、大したことない傷口に絆創膏を巻いていた。

「…痛いのか」

違うとは言えないけど、こんな些細な傷が痛いはずもない。私はただただ視線をそらしていたけど、涙は止まらずに溢れるばかり。右手を掠め取った妖ちゃんは私の前に跪いて、私の両の指先を、妖ちゃんの両の指先で握った。幼い子供を宥めるように、叱るように。私は嗚咽をこらえるので精一杯。

「なまえ、落ち着け」

深呼吸を促すように、緩やかに手を上下に振られる。声が漏れない程度に薄く開いて、息を深く吸う。

「そんなに遠いか」

さっきよりは落ち着いた涙が、視界を揺らす。頼りない視界で妖ちゃんは私を見ている。どうして指なんか切ってしまったんだろう。呆れられたかもしれない。家事のできない私に価値はあるのだろうか。ねえ私は、妖ちゃんのあんな顔、見たことないんだよ。まだ喋れなくて、首を振った。縦に。妖ちゃんは多分、なんて言うべきか考えているのだろう。私は立っていられなくて、その場にぺたりと座り込んだ。

「妖ちゃん、あんな顔で笑うんだね」

俯いて、目を閉じる。妖ちゃんの目を見れない。

「知ってたけど、妖ちゃん、本当にすごいよね」

言ってるだけで涙が出る。声が震える。でも妖ちゃんの手は私の指を離さない。離してくれたら、楽なのに。妖ちゃんはどうして私を傍に置いてくれるんだろう。

「妖ちゃん、私の知らない人だった」

そう言ったら、俯いた右目から顎も伝わずに涙が落ちる。フィールドにいる妖ちゃんは、妖ちゃんじゃないみたいだった。私の知らない顔で、考えて、吠えて、笑っていた。あの、初めて味わう熱気に満ちた空気の中で、黒ばかり着る妖ちゃんは赤いユニフォームを着て、私の知らない人と触れ合って、沢山の時間を過ごして、きらきら輝いていた。
あの世界に、私は入れない。フェンスがあったわけじゃない。物理的なものはなにもない。でも、感じてしまった。気づいてしまった。妖ちゃんが遠いって。

「ごめんね」

どうして応援してあげられないんだろう。妖ちゃんが初めて面白いと思ったことを、どうして頑張ってと言えないんだろう。私のことばっかり。私の気持ちばっかり。妖ちゃんを困らせてばっかり。

「ごめん」

目を開けた。ついでに涙が落ちた。考えれば考えるほど、涙は溢れて止まらない。楽しそうだった。笑っていた。ギャンブルも株もテストも片手間にこなす妖ちゃんが全力だった。スタイルが良くて綺麗で聡明そうなマネージャーと、親しそうだった。

「ごめんなさい」

顔を見れない。妖ちゃんは黙ったまま。もう嫌われたかもしれない。嫌われただろう。聞き分けのない。包丁で指を切ったりするような私は。手を離したくて引っ込めようとしたけど、妖ちゃんの手がそれを阻む。なんで。どうして。もう、離していいんだよ。離してあげるから。

「ごめん。ごめんね。…も、離して」

鼻はなんとか啜っていたけど、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。妖ちゃんと目が合って、そらす。その前に。

「いやだ」

手を掴まれたまま、妖ちゃんが近づく。キスされる、と分かったけど逃げられずに、妖ちゃんは私に噛みついた。首をひいても寄られてしまう。逃げる舌も安易に捕らえられて、もう動けなかった。

「…ふ、…よ、ちゃ」

妖ちゃんの左手が後頭部を押さえる。右手は私の左手に絡んで繋がれる。また一粒、涙が落ちた。どうやらそれは妖ちゃんの右手に落ちたらしく、その手を伝って私の左手に落ちる。私は、自由になった右手で、妖ちゃんの肩口を押した。

「っはぁ、」
「…なまえ」

素直に妖ちゃんは離れていく。私の右手は肩についたまま。私の左手は、妖ちゃんに握られたまま。

「どうしたらもっと近づける」

真摯な声が痛い。私は黙って首を横に振った。

「なまえ、俺はなまえが好きだ」

後頭部にまわされていた手が頬へ滑る。顔を上げさせられて、妖ちゃんの目を見た。

「飯も掃除も洗濯も、ただの口実だったんだ。なまえが、俺から離れていかないように」

妖ちゃんは私から目を離さない。

「なまえが傍にいてくれればそれでいい。俺は、こんなに近くにいるだろ」

こらえられずに目を閉じた。やっぱり泣けた。けど、私は妖ちゃんの手を強く強く握った。離したくない。ずっと一緒にいたように、ずっと一緒にいたい。

「いまの俺はなまえしか知らない俺だ」

やっぱり妖ちゃんが大好きだと思ったらまだ涙がでてきたから、妖ちゃんの肩に額を当てた。頬に落ち着いていた手は私の背中を優しく叩く。見えないのをいいことに、右手で顔を拭いながら深呼吸。泣きすぎて喉が痛い。ぽんぽんと、心臓の鼓動の速さで。

「落ち着いたか」
「…うん。ごめん」
「謝んな」
「うん。ごめ…なんでもない。うん」
「バーカ」

ぺちんと斜めに流れる前髪越しにでこぴん。優しく笑う妖ちゃんは、確かにあのときの妖ちゃんとは違う。私を見つめる優しい顔は、私だけのもの。だったらいい。

「なまえ」
「ん」
「…大学は一緒のとこ行くぞ」
「…行けるかな」
「この前、総合十二位だったろ。楽勝だ」
「妖ちゃん、カテキョやってね」
「仕方ねえな」
「私にだけ?」
「当たり前だろ」

指先で髪を掬いながら撫でる。ふたりでキッチンに座りこんだまま。十七になった妖ちゃんは、十二年前の妖ちゃんから幼さだけを取り除いて、大人っぽくなった。昔と変わらずかっこいくて、優しい。

「…おい」
「なに?」
「そんな顔で見んな」
「…失礼ねー。顔洗ってくる」

恥ずかしさを思い出して、急いで立ち上がる。よく考えたらスカートで、フローリングに触れていたむき出しの足が冷たい。背後の脱衣所に飛び込んで、洗面台に据えられた鏡を見る。確かに、酷い顔。前髪をピンで留めて、冷水を顔にあてた。浮腫んだ目元が冷えていく。一息吐いて、タオルに水滴を染み込ませる。前髪を整えてキッチンにでたら、妖ちゃんは冷蔵庫に背を預けてどうやら私を待っているようだった。

「なまえ」
「んー?」

妖ちゃんに近寄ったら、手を取られた。何も言わずに妖ちゃんは私を妖ちゃんの部屋に連れて行く。

「妖ちゃん、でんき、」

煌々とリビングの明かりはついたまま、部屋の明かりをつけようと伸ばした妖ちゃんの指は、すんでのところで止まる。

「つけねえ方がいいか?」
「なんで?」

カーテンは開いていたからお互いが見える程度には明るい。私の問いには答えず、私の手を引っ張った妖ちゃんは、私をベッドに押し倒した。

「…ん?」
「…まだ分かんねえ、はねえだろ」
「えっ、ちょっ、ちょっと待って」
「待たねえ。どんだけ我慢してたと思ってんだ」
「こっ、心の準備が、」

仰向けに倒れた私の上、妖ちゃんは両腕をついて私を見下ろす。左側から部屋に入り込む夜の明かりが妖ちゃんを照らした。どうしようもないくらいかっこいい。不敵に笑う口角も、細められる目も、いまは全部私のもの。

「黙って見てろ」
「よ、」
「なまえしか知らない俺だ」

たまらなくて両腕を妖ちゃんの首にまわしたら、まっすぐキスが落ちてきた。

「妖ちゃん、後で色んな話しよ?」
「ん」

そうして、触れるだけのキスがもう一度。




おわり(長かった)