天使を医者に見せるわけにも行かず、とりあえず知り合いのヤブ医者に診せた。診断の結果は俺の見立てとさして変わらなかったが、天使が申告した飛べないという言葉に一瞬怪訝な色を浮かべたのは見逃さなかった。治れば飛べるでしょうと当たり障りのない言葉を返しながら奴は羽根に包帯を巻く。ついでに天使の衣類や日用品を頼んでいたので生活で困ることはなくなった。多めに代金を握らせた意味を、よく理解したように奴は笑う。
「本当に飛べねえと思うか」
「さあ。彼女がそう言うなら飛べないのでしょう」
静かにドアが閉まった。あれから一週間経つ。驚いたことに、天使は撃ち落とされてもあの奇跡的な純真さを失うことはなかった。俺が言いつけたのはふたつ。危険だからひとりで家から出ないこと、それから、誰が訪ねてきても開けないこと。そう言ってから、飛べるようになったら黙って帰って構わないと付け足した。天使はなぜか眉根を寄せ寂しそうに笑って頷いた。本当のことを知らないからそんな顔ができるんだろう。もし天使が、自分を撃ち落としたのが俺だと知ったらどうするだろう。そう思いながらも日々は緩やかに過ぎていく。一度傷の具合を診せるためにヤブ医者を呼びはしたが治り具合は良いとのことだった。天使は飯を用意したり掃除をしたり洗濯をしたりと意外に家庭的な面を見せた。たまに、乞われてあの川のほとりに連れて行ったが俺は落ち着かないだけ。
「だいぶ良くなったな」
新しいものに替えるため、ガーゼと包帯を外す。穿孔の跡にまだ羽根は生えていないけれど、表面は塞がっている。指先でなぞったが反応はない。露わになったその白磁の肌を意識しないように、傷跡だけにピントを合わせて。天使は微妙な表情をしていた。
「痛むのか?」
ちらと俺を見る目。すぐにそらされてしまうけれど。ちまちまと指先をもてあそびながら天使は俯いてうなじを晒す。
「帰らなきゃ、だめですか?」
驚いたのは、俺の方だ。その上目遣いが確かに俺を射抜いて動けない。自慢のポーカーフェイスを崩していない自信はあるけど、余裕を醸し出しているかは自信がない。天使は上目遣いをやめない。背を見せて座っていた天使はベッドを軋ませて振り返って座り直す。ホルターネックのワンピースは前から見る方が刺激が少なくていいけれど。
「だめ、ですよね」
俯いたその睫毛が神々しくて眩い。それが美しいのに。それが美しいのだから、悪魔と一緒になんていたらいけない。汚したくないし、壊したくない。手離すのは怖いけど、また初めて出会ったときのように笑っていて欲しいんだ。
「俺が、撃ったんだぞ」
一番隠していたかったことが、口をついて出た。これで俺は、天使のいうきれいでなくなってしまった。でもきっとこれで良かった。帰った方が良いことなんて火を見るより明らかだ。嫌いになっただろ。幻滅しただろ。もう俺に笑いかけてはくれないだろう。
「知ってました」
色素の薄い睫毛が震えるように持ち上がる。垂れた鳶色の目が俺を捉える。なんて言われるだろうか。罵詈雑言に対する耐性はついているけど、天使の口から天使の声で紡がれるそれらを受け流して、天高くその先まで、俺は見送ることができるだろうか。しかし、天使はほんのりと笑う。皮肉でも嫌味でもないような口角と目尻。伸びた白い腕が、胡座の太ももに落ち着いた俺の腕を取る。その指先は温かい。柔らかい。微かに甘い匂い。目眩を、覚えた。
「良いんです。私も、嘘を、生まれて初めて、嘘を吐きました」
至近距離に忍び寄る純白は、決して色仕掛けやらを狙っている体ではなくただ縋っているだけに見えた。輪郭が淡く滲む瞳からは目を離すことはできず。天使は朗らかに笑った。
「私はあなたが」
咄嗟に、反射的に、手が口を覆った。よく考えたらそれは必要最低限を超えた、初めての接触だった。触れたら汚れるような気がしていたけど、多分そんなことはない。その目を見ながら考える。禁忌とか、汚れとか、異種間だとか、俺はそんなことを考えるようなタマだったか。欲しいものは手に入れる。要らないものは捨てる。身の回りには、必要なものだけあればいい。そうだろう。そっと、手をどけた。
「後悔しないか」
「しません」
からん、とドアに据えられたベルが鳴る。暗いそこは一応は酒屋で、僅かな照明を反射するスキンヘッドのマスターがカウンター越しに視線を寄越す。
「よォ、ヒル魔。面白ぇ噂を聞いたんだがよ」
「ほー、興味あるな」
「お前、女囲ってんだって?」
席についた悪魔に、ダブルのウィスキーが滑り寄る。作り物のような指先でそれを持ち一息に飲み干す。ニヒルな笑みはとてもよく似合って。
「ああ、俺が撃ち落とした天使だ」
かちんとグラスの中で、液体を失った氷が爆ぜた。
おわり