世界は色をなくしていた。見覚えのない景色の中。
これは、夢の中でそれだと分かる夢。ショートスリーパー故に、そもそも夢を見るということがあまりない。早く夢すら見ないノンレム睡眠に入らなくては翌日に支障が出る。まあ、こればっかりはどうしようもない。仕方なしに辺りを見回した。足下に生えているのは草で、空には雲が浮かんでいて、少し先を横切るあれは川だ。そして風が吹いている。モノクロながらにそれは分かる。これは記憶を整理しているだけの支離滅裂な夢なのか、何かを示唆しようとしている夢なのか。頭の休まる暇もない。ふと川の近くに花を見つけた。まっすぐ細く生い茂る草の中でたった一輪。そのたった一輪だけが、意味ありげに桃色に色付いていた。きっと意味があるのだろう。近づく。辺りを埋め尽くす草より頭ひとつ高く花は揺れた。手折る、べきなのか。風が運ぶ。花が香る。伸ばした指に躊躇いが絡みつく。何かを忘れている。それはとても大切な大切なものなはずなのに。思い出せない。花に手を伸ばす。指先が触れようとしたそのときに、なんの前触れもなく花は首から千切れた。掠めたそれは、途端に色を失う。それがなぜか、心臓を握られたように、痛んだ。

「よーちゃん」

頬や首筋を何かがさらりと撫でた。風ではない。それから、力のこもっていた眉間に何かが触れた。ずるりと引きずり戻される。感覚が冴え始めてくる。次第に重力を帯びる体。触れているのは慣れた感触。

「苦しそうだったから」

きつく目を閉じてから目を開けた。仰向けに寝ている俺の顔の横に、なまえは覆い被さるように両手をついている。少し肘を曲げているから、まっすぐ垂れた長い髪が帳のように朝の日差しを遮っていた。

「起こしちゃった」

なまえは緩く笑った。片手を離して、髪を耳にかける。たったそれだけの動作になぜこんな見とれてしまうのか。僅かに光が差す。耳たぶで光る、あの花と同じ桃色の石。その示唆に目を奪われながら無意識に、今度は確かにその手を掴んだ。

「なまえ」

上体を浮かせる。気づいたなまえも少し屈んで。啄むようなくちづけ。照れたようにはにかむ表情から目が離せない。

「私が襲おうと思ったのに」

掴んだままの手首を引き寄せ、腰に腕を回す。バランスを崩して落ちてきた体を抱きかかえた。

「まだ寝る」

抱えたままなまえをベッドに横たえた。柔らかい髪が肌を撫でる。あのとき香った仄かに甘い匂いを吸い込みながら顔を埋めた。確かにここにある。

「もー、ちょっとだけだよ」

穏やかな声がなだらかに届く。温かい両腕がこの身を巻きついて、その頃にはもうすっかり掴み損ねたあの花のことなど忘れていた。